信濃路の旅


案内図 美容院で何気なく見ていた雑誌に「松代」「真田記念館」というのが載っていた。
そうだ、真田一族の故郷へいってみよう!そう思ったら早いのが私の良いところ!?
PCを駆使して泊まるところ、現地の地図、駐車場の有無を調べてたちどころに行程が決定する。
旅館の方が親切にも交通事情を教えて下さったので助かった。長野は善光寺御開帳で猛烈に混んでいるのだ。
いざ出発進行!!!

名神から長野道を経て松代まで、途中休憩を入れて3時間一寸。梓川SAで食べたお蕎麦はとてもおいしかった。これはお薦めもの。先ずは「真田記念館」へ。

平日のこともあってかとても空いていた。ボランティアの方が案内人としていらっしゃる。「御案内いたしましょう」といってくださるのを丁重にお断りする。何しろ今回は歴史にめっぽう詳しいのが二人も一緒だからである。私の的はずれな質問や、へなちょこ感想などたちどころに訂正し、正しいことを教えられるのである。とてもお勉強になりました……です。

ここは徳川幕府に移封されたところであるから、2代「信之公」から後の真田藩の記念館である。館内を一巡りすれば誰が何をなしたかが解るようになっている。記念館の隣に9代藩主幸教公が母のために建てた隠居所がある。 真田邸 敷地は広くお庭は小堀遠州の流れをくむといわれており落ち着いたとても良い名園である。門を入るとスピーカーから説明が流れてくる。「真田家って凄い貧乏だったんだねぇ。記念館にも何時の代でも藩政を立て直し、藩の窮状を考え……って言うのばかりだったけどさぁ、ここでも 財政逼迫の折から質素な造りにって言ってるのよ。そしたら聞いていた人が、ほんとだ、傾いてらぁっていうんだもの」と娘が笑って言う。確かに記念館には「藩財政逼迫のおり、財政の建て直しに力を注ぎ」という文字が踊っていてた。幕府の言う石高と実石との差は大きかったのであろうと思われる。「それでもこれだけのものを建てるんだから真田藩のお殿様は頭のいい人ばかりだったなのねぇ」と感心している。財政建て直しのお勉強にどこぞの方もここへいらしたら如何……。
松代藩文武学校を見学。つい先頃まで小学校として使用していたと言うから驚く。ここにもボランティアの方がいらした。お年寄りが(もっとも私もお年寄りなのだが)我が町に誇りを持っていてこういう方面で活躍しているというのは嬉しいこと。

上田で「池波正太郎真田記念館」を見る。こぢんまりとしていて静かな記念館である。勿論「真田太平記」一色なのは言うまでもないこと。子供でも楽しめるような仕掛けもあり、又見応えのあるビデオなども上映されており楽しめた。

葵の湯 さて、かの清少納言が枕草子で「湯は七久里」と詠った天下の名湯別所温泉へ。今はやりの外湯巡りがある。幸村公隠しの湯と言われている「石湯」、木曾義仲が葵御前と逗留したという「大湯」、慈覚大師が入浴したという「大師湯」と上田市が管理する「相染閣」の4ヶ所ある。
温泉大好き家族は夕食前にまず外湯へ。宿から歩いて10分ほどの「大師湯」へ。小さな銭湯のようなところで、畳2枚を縦に並べたようなところが脱衣所という案配。設備なんて何もない。これは……と思ったがせっかくだから入る。入ってみて驚いた。湯がとても良いのだ。入っていた近所の人が自慢するだけのことはある。詳しいことはMax氏のHP長野の温泉をご覧ください。
ここへ来るのに「北向観音」の境内を通り抜けてきた。善光寺が南を向いているのでこの観音堂は善光寺に相対するように北向きに建っているそうだ。小さいが立派な舞台を持つ観音堂で、静かなそれでいて何か凛とした気配があるとても情緒のある場所である。
翌朝早くに宿の隣の「大湯」に入った。唯一露天風呂のある湯とのことだがここも小さい。何処の外湯も150円である。

「つるや旅館」に泊まったのだが、食事がとてもおいしかった。「当館は懐石風になっておりますのでお時間がかかりますが……」ということで食事時間をうるさく?言われていた。温泉旅館の懐石風料理というのでは以前、高いだけでとてもひどい思いをしたので、これはしまったかなという気がしたのである。が、ここのは本当においしかった。質量ともに文句の付けようがない。風呂も露天はないが綺麗で気持ちよく入れる。客室も多くなく、小さい旅館であった。それだけに静かで気持ちよく過ごせたのはとても嬉しかった。

八角三重塔 せっかくだから信州の北鎌倉(案内にそう書いてある。このごろの風潮なのか各地に……の軽井沢を始めとしてヨーロッパまであるのだ。何故余所の地名をもってくるか不思議である。)別所温泉を巡ることにした。 ここには慈覚大師の創建になる常楽寺を始め重文の古刹がある。時間の関係で鎌倉時代に建立され、国宝の八角三重塔を持つ安楽寺による。三重塔は山の中に静かに建っていた。唐様式という木組みは見事であり飴色の木肌が時代の移ろいを感じさせる。

ここで私達は面白いことに出逢った。駐車場が山門上にもありその方が便利と教えられたので車をそこへまわしたところ、大きな日通のトラックが止まっている。「今日はこれから大事なものを運び出すから車は下に止めてくれ」という。寺で大事なものは???しかない。早くも好奇心が……。
三重塔へ登る途中に小さなお堂がある。お堂の中にデジカメを持った坊さん一人と懐中電灯をかざして何やら調べている人がいる。なんなのだ?開かれた扉に「上野の国立博物館に貸し出される」旨の張り紙あり。これも重文の惟仙禅師と恵仁禅師の木像である。重文の移動なんてことには、滅多には会えぬこと。ガラスの向こうのこと故写真はままならぬ。三重の塔よりこちらの動きが気に掛かる。 係員 日通便 懐中電灯で照らしながらチェック、傍の坊さんがこれまたいちいちシャッターを押す。大きな木の箱みたいなものを持ち込み白布で包み二人係で抱きかかえるようにお移しになる。又チェック。 何時になったら終わるのか見当も付かないので時間が気になりここで断念する。下に降りたらここでも日通トラックの傍で係りの人が木で何やら造っていた。大変な作業であることだけは解った。

御開帳で賑わう善光寺へ。駐車場に入るも出るも2時間ということを聞いていたので篠ノ井に車を預けて電車で長野まで。 10分足らずで着く。駅前から「善光寺大門まで一人150円でーす」と怒鳴っているバス乗り場から大門まで。着いた時間が丁度昼だったので思ったより空いている。長蛇の列と聞き及んでいた回向柱の周りもそれほどではなかった。が、ここでも「片手で触るだけで大丈夫でーす」とハンドマイクがどなる。ご本尊に五色の糸でつながっている御柱に両手で触れようと押し合いへし合いになるそうな。せっかくだから触れる。そしてご本尊様のところへ。
大門前 御柱
ここは待ち時間50分という混雑。結構横入りする人がいたりして「そんなコトすると御利益ないよ」という声が飛び交っていた。ご本尊様ははるか彼方にいらしてよく見えず。お焼香だけして出てきたような案配でなんのこたぁなかったデス。 戒壇巡りなんぞはもう凄い人の列。私達は経験済み故パス。
本堂から出てきたら何やら人の長い列。何があるのか解らないけどいってみようと傍に。朱の傘を従えて庵主様がいらっしゃる。居並ぶ人々の頭に手に持ったお数珠の房で触れて行かれる。 功徳を授けるという「お数珠頂戴」らしい。これも時間が合わなければ見られない。カメラを向けていたら叱られてしまったので序でながら頭を差し出す。「クリスチャンじゃないのか」というMax氏。「いただけるものならなんでも」と私。
にぎわいの善光寺の隣にあっても、静かな佇まいの「東山魁偉美術館」でその世界に心ゆくまで浸り善光寺を後にする。

南信州平湯の「ひまわりの湯」に娘が友達と泊まって「良いところだったよ」とのこと。風呂良し、食事良しのところで、 そこを基点に南信州も悪くない。(ひまわりの湯についてはMax氏の温泉案内を)

案内板 中山道の宿場町妻籠宿と馬籠宿に。
妻籠は、11月23日に「文化文政風俗絵巻之行列」というのが行われている。それに娘が仲間と5年ほど前から参加している。 ゆっくり町を見物したことがないから行こうという。 路地 町並み 顔なじみの地元の方もいるらしい。私達も妻籠は初めてである。娘の案内で町を歩く。 全国で初めて古い町並みを保存したという妻籠だけに町の中は車通行禁止である。大きな駐車場が4ヶ所、観光案内所、休憩所なども整備されている。
そこに人が住み、生活をしながらの保存運動が見事に実を結んでいる。生活者も観光客もいるのだが、時の流れが止まっているかのような静寂がある。Max氏は夜旅館から漏れる灯の下の町並みを撮りたいという。今度は泊まりがけで来ることになりそう。


馬籠は造りかえてしまったようだ。バブルの時に古いものを壊してそれ風に新しいものに建て替えたと聞いた。
中山道の碑 土産物屋と喫茶店ばかりが目に付く。観光客をぬって狭い道を車が通る。ここは何故か観光客がざわめいているように感じられる。随分と昔に訪れたときは静かで、まさに「木曽路は山の中……」の風情が残っていたように思えたのだが。
めまぐるしいほどの時の流れとハイテク機器に取り囲まれている今日、人々が求めて已まないものとはなんであろうか。 妻籠宿も古いままでは決してない。だがそこに何かほっとする空間があるように思えたのだ。まぁ、好きずきだからどうでも良いことなのだけれど、ちょっと残念だなぁと言う気がしたのである。

盛りだくさんの信州でした。
私は今、「真田太平記」文庫版全12巻を夢中になって読んでおります。
歩いてきた道、入ってきた温泉、見学してきたお寺などが本の中で笑っています。
立川文庫で「猿飛佐助」「霧隠才蔵」をわくわくしながら読んでいたのと同じ気分でいます。

2003年5月