東海道は関の宿
妻籠へ行ってからMAX氏はすっかり街道に取り憑かれたようだ。
木曽路を踏破するとせっせとお出かけである。
暑い一日、「東海道は如何?!」と言うことで古い町並みを保存しているという関宿へ。珍しく今回は何も調べずいきなり高速へ。多分この辺り……といういいかげんさ。
それでも着いた。
道の駅でマップをゲット。
東海道の宿場が殆ど旧態を留めない中にあって、唯一、往時の町並みの残る「重要伝統建造物保存地区」に指定されているそうだ。東海道から大和・伊賀街道が分岐している西追分から、伊勢街道の分岐東追分までの1.8キロがその町並みである。
西追分の石柱には「ひだりハいかやまとみち」とあり、東追分には伊勢神宮の鳥居がそびえ立っていた。
「関の地蔵に振り袖着せて奈良の大仏婿にとろ」の俗謡で詠われた関地蔵院。境内に国の重要文化財指定の本堂・鐘楼・愛染堂が建っているだけ。仲町通りから地蔵院の屋根をとうして鈴鹿の山を望むのがここの自慢の景観とか。
「関宿は貴重な建造物の保存地区ですが、生活の場でもあります。公開している資料館などを除き、むやみに家の中を覗かないでください」と言う注意書きがある。鉄道、国道が街道から逸れたために商売としての町は立ちゆかず生活の町となったという。馬籠などと違いまさしくそこは生活の場、民家である。観光で食べている家はないと言っても過言ではないだろう。各戸はぴったりと戸を閉ざし、土産物屋が軒を連ねる町並み保存地区を見慣れた目には、実に素っ気なく映る。町は町おこしとして「宿場」を売っているのだろうが住んでいる人には迷惑この上ない?!
その代わりというかどうか、各所に立派な無料休憩所がある。空調設備何もナシという代物。一歩中にはいると蒸し風呂状態になる。とりわけ暑い日だったのかも知れないが、ここは資料館にもそれらは見事にない。流れる汗を拭いながらの見学と相成った。
建造物は、漆喰で塗り籠た大壁や、モダンささえ感じる格子窓、意匠としても素敵な虫かご窓、折り畳み式の縁台など面白い。
中でも酒屋の看板に裏と表の字が異っているのがあった。旅人にどちらが伊賀か伊勢かを知らせる意味があったそうな。
ここに来て初めて知ったことに仇討ちがあった。鈴鹿馬子歌にも詠われていると言うが、小万という女性が、親の仇を何年も捜して老いてから成就させたと言うことである。探し回るのに履きつぶしたわらじが60足。烈女として福蔵寺に墓と碑がある。「ヘェ〜」と説明板を読んでいたら声あり。「烈女が烈女を見てるぞぅ〜」。
また、「関の山」という語源にもなった大きな山車が引き出される夏祭りでも有名である。山車を格納する小屋がありその大きなことには吃驚。そびえたつ高さである。が、しっかりシャッターが下ろされていて垣間見ることさえ出来ない。山車で有名なところに良くあるような縮尺レプリカの展示もない。
ひととおり歩いて戻る道すがら「シルバーゾーン」なる標識を発見。杖をついた人が手を繋いでいる図柄。「ここに老人を置いておくと拾ってくれる?」「収集車が来たりして?」「試しにokan立っていたら?」。ちょっとシュールな標識であった。
歩道だから車は気を付けろと言うのであろうか。
昼ご飯に寄った店のおばさんが観光客と見て、TV取材の時のビデオを見せてくれた。何のレクチャーもなしに訪ねた身には関のことがひととおり説明されていて助かった。親切に感謝。しかし親切はここまで。保存地区を町の一つの目玉として観光客を呼ぼうとしているのではないのか。どうも「見せてやっている」という風にとれるのは例によってひんがまっている私の根性の故か。
夏生まれのくせに私は暑さにめっぽう弱い。が、我慢しないわけではない。どちらかと言えば我慢強い方である。
しかし暑いのには参った。気分が悪くなるほど。あまりの暑さに一休みしようにも、休憩所はもっとひどい蒸し風呂。たまーに吹く風がただ一つの涼である。銀行を見付けて用もないのに立ち寄って涼んだ。
自販機ばかり目に付くが、空き缶入れはない。保存地区であるからゴミは持ち帰れと言う。昔は自販機はなかったぞぅ。
扇風機を背にした受付おばさんは「保存地区に空調はないのは当たり前。鈴鹿颪でいつもは涼しい」と言い放った。夏に来た私達は馬鹿か!おわかりであろうかとも思うが最後に一言、声を大にして言う。もぅ、関には行かない!!
2003年8月