ながーい旅話(しまなみ海道)
趣味というのは人それぞれである。好きなことに関しては、勉強もする。それゆえ、知識はますます増えていく。そのことに関する限りでいえば、滅法詳しいということになる。我が家にも、古事記や日本書紀の世界が好き、刀剣の類を見るのが(とても買えないのだ)大好きな輩がいる。ある日彼女が、MAXに囁いた。「大三島の大山祇神社って、刀剣類の重文がやまと有るんだって。行きたいなぁ」。「大三島…!しまなみ海道だなぁ!尾道だなぁ!」Maxは3歳まで道後、10歳まで尾道に暮らしている。かねてから行きたいと言っていた処である。ここで、おはちがOkanにまわってきた。急いで宿をきめタイムスケジュールをたたき出す。
前日までの雨は上り、幸先のいい日和である。運転はまずMAX。私はお菓子と飲み物を抱えて、後ろでゆったり横になる。二人のおしゃべりをBGMにうとうとすること2時間余り…「…しまった!エアコンのタイマーを切り忘れた…!」とんでもないことを思い出したものだ。今更しょうがない。誰もいない部屋が暖められたり切れたりするだけ…!?「最近のOkanはちょっと抜けているね。まぁ、火の元ではないし」と慰められて?すこーし不安を抱えてままの始まりと相成った。
倉敷に予定の時間よりもかなり早く着いた。今日の御宿は、倉紡の工場後をホテルに改造した、アイビースクエアー。美観地区にも近く、人気の程がうなずける佇まいである。
一休みの後、早速大原美術館へ。
昔…訪ねた頃はこじんまりとした静かな美術館だったが、今では本館、分館、工芸館と、その規模は拡大している。工芸館には、陶芸の濱田庄司、バーナードリーチ、富本健吉、河井寛次郎が、また、宗像志功の版画、芹沢銈介の染色など目を奪うばかりの展示の数々。このジャンルの説明役は私。やっと出番が回ってきたというところ。心満たされたその後、Maxは写真を撮るために散策へ。残る二人は土産物屋さんめぐりへ。通りはきれいに整備されており、今流行のレトロモダンな設えである。畳表の小物やさんばかりあった昔とは大違いであった。
瀬戸自動車道、高松自動車道を経由して松山は道後へ。
瀬戸道は2階建て、上が自動車道、下にはJRが走る。要は宇高連絡線の代わりなのだ。瀬戸道唯一のPA、与島で上下を走っているのが見られる。与島には、そのビューポイントに、JRの時刻表のプレートが建っている。大の大人3人が「電車が来たー!!」と大騒ぎしている図は、今考えると、とてもじゃないが恥ずかしい…。与島PAはとてもきれいに整備されている。あちこちに案内プレートが建ち、橋に関する掲示もしっかり。だが、それだけ…。瀬戸道は交通量も少ない。それもそのはず、倉敷から坂出まで、20分足らずで通行料金4000円也。時間短縮の代価は結構な御値段で…。
高松道はなんとも単調な道路だった。後ろで寝ている身には極楽なのだが、ドライバーはうっかりすると眠気に襲われそうになるようだ。そんな道を走りぬけ松山へ。
お城大好き人間に引っ張られてまずは松山城へ。入口で「天守閣は50年ぶりの改装工事中ですが宜しいですか?」と言われる。めったに見られないことに又も遭遇。私は既に登城しているので陽だまりで御昼寝タイムを決め込む。
見学を終えて、その工事の様子を聞いた。一つづつ、一箇所づつ写真を撮り、詳細に調べ、丁寧に作業をするという。かなりな時間を費やすことだろうことは、素人にも分かると言うものだ。その様子を見せてもらえたのは…と言うより、覗けたのは面白かったそうである。
お城を後にして道後温泉に。
温泉に入る前にまずは散策。「確か温泉町だったか…」というMaxの朧な記憶に、仲居さんは「この向こうあたりですよ。道後は焼けてないから未だ路地などそのままですよ」という。「こんなだったかなぁ…」「そうだ、このあたり見覚えあるぞ…」などと言うのを聞きながら歩く。
松山と言えば夏目漱石なる「坊ちゃん」一色である。浅はかな私は、「坊ちゃん」は松山を田舎といい「松山の人」を馬鹿にしていると思えるのだが、なぜか「坊ちゃん」をとても敬愛している。「心がとても広いのかな,もし」「松山を全国に有名にしてくれたからぞな、もし…」などと次元の低い思考回路の私。
とにかく、どこへ行っても「坊ちゃん」「坊ちゃん」である。お城でも、、ここ道後でも、薄ら寒い季節なのに絣の着物に夏袴と言う「坊ちゃん」と、ハイカラさんに結った長い髪の「マドンナ」、明治時代の「巡査」に出会った。「写真はいいですかぁ」などと観光客にサービス頻りであった。観光協会のアルバイトの方達だそうだ。
道後には正岡子規記念館という立派な展示館がある。正岡子規のことならここへ来ればあらかた分かるようになっている。ここも私はパスである。あちこちパスをしているのは、3年ほど前に一人で松山へ来ているからもう見てしまっているのだ。その時は砥部まで足を伸ばしている。見終わって出てきた二人曰く「子規ってOkanに似てるね。私が死んだら墓は要らない。句碑なんてものは建てるな。ひっそりと消えたいのだ。なんていってるよ。どっかで聞いた言葉だなぁって思わず笑っちゃったよ。結構短期でせっかちだったみたいだし」。いいってことよ!、短気でもせっかちでも、天下の俳聖に似ているんだ、私は…。
さて温泉。本館前は相変わらず人でいっぱいである。とにかく熱かったことを記憶している。いくら江戸っ子の熱湯好きでも「これはないなぁ」と思うほどであった。Maxが朝6時の一番風呂に入ってきたが、やはり熱かったそうだ。入湯客が多いので回転をよくするために熱くしているのではないかと思うほど…。宿の御風呂も源泉は同じ。湯は肌に優しくてとてもいいのだが、ここも少し熱かった。詳しくはMaxの温泉HPをご参照あれ
道後国際ホテルは、お勧めである。インターネット予約には料金の割引をはじめいろいろ特典がついている。が、なにより料理が美味しい。最後に出てきた鯛めしは本当においしかった。
いよいよ今日は「しまなみ海道」である。尾道までの行程は短いのだが、見るものが沢山有り、時間をとられることになるので朝早くに宿を発つ。まずは大島。平成16年に開館した、全国初の水軍に関する博物館「村上水軍博物館」へ。曇り空の下、やけに大きな建物が…。立派な立派な3階建て博物館。展望室からは激しい潮流と能島が目の前に開け、展示室には水軍の軌跡やエピソードなどが、映像で分かるようになっている。とにかくよく作られているが、果たしてどのくらいの人がここへ足を運ぶかとなると、余計な御世話ではあるが、はなはだ疑問が残る。我住む町もそうであるが「立派過ぎる箱物」ばかり作りたがるのは、如何なものか…と思うのだが。
お塩で有名な伯方島を渡り大三島へ。
ここは、東京芸大学長、平山画伯の故郷でもある。立派な美術館が建っていた。時間の関係もあり、まずは今回の旅の発端となった神社へまっしぐら。境内は、日本最古の原始林社叢楠群に覆われている。御祭神は天照大神の兄神に当るそうである。伊予国一宮に定められ、官制時代には、国幣大社に列せられた、四国唯一の大社であるそうな。難しいことは私には良く分からない。
境内は掃き清められて静寂そのもの。
それ程大きな声で話しているわけでもないのに、声が響くように感じられる。まずは参拝を済ませる。それからお目当ての宝物館へ。館内の小さな明かりに、はるか昔、熱き闘志を燃やし、その名をとどろかせた男達の、時空を越えた浪漫がよみがえるようだ。義経の刀はなぜか悲しみを湛えているように見える。弁慶の薙刀は、苦しみ多かった主君との日々を語りかけているかのようだ。戦勝の神として信仰厚かったといわれるだけに、歴史に名を残す人々の奉納刀が数多くある。そのどれもが見事な細工で彩られ、見るものを魅了する。鎧も戦いの後をとどめたかのようにほころび、しみがついたまま。赤糸威は昔の色をかすかに留め、見ていると、鬨の声が聞こえてくるようであった。ゆっくりと閲覧して、千古の昔から現代に戻ってきた。Maxはこの島にある唯一の温泉「多々羅温泉」に入ると言う。私達はゆっくりと御昼寝を決め込んだ。
大三島から生口島へ。幼い頃父から「東照宮に似せたものが出来たらしい」と聞かされたらしい。それをぜひとも見ようと「耕三寺」へ。まぁ来て、見て、びっくり。特殊鋼管製造で成功を収めたその財力を「母上」のため、余すところなくつぎ込み、30年余りの歳月を費やして完成させたと言う。寺内は「耕三寺博物館」となっている。「…殿」と仏教伽藍のような名が付いてはいるが、建物全て模倣である。
コピーと言えどもいい加減なつくりではなく、全てが本家と同じ造りとなっているのだから、もぅ、驚きを通り越して、その熱意に、ただただ「参りました」と言う感じである。三井寺あり、天王寺あり、薬師寺ありで、その上絵画、漆器工芸、茶の湯名物品を所蔵、展示している。広大な敷地には、地獄から極楽へ通じる洞窟まであるのだから、正直言って「あきれた!!」。信心熱い母堂に、各地の伽藍を見せてあげたいという考養心は、我が子たちに、「爪の垢でも…」とは思うものの、話の種には面白いかもしれないが、まぁ、余りお勧めはしない。
疲れが増した感のある耕三寺を後に、因島、向島と渡り尾道へ入る。
太平洋戦争の戦禍激しくなっていた頃、父親に「これが戦争というもの、よーく見ておきなさい」と言われて、徳山の空が赤く燃え上がってゆくのを見たとMAXは言う。生と死を初めて意識した頃であったか…。日々食べるものは乏しくなり、大人も子供も生きることに必死になった時代があった。父親の大きな手とその温もり、繋いだ手をしっかり握り締めて、佇んで見た紅蓮の空は、彼の原風景となっている。そんなわけで、尾道には、ことのほか思い入れがあるのだ。夕方、二人で散歩に出る。昔遊んでいたと言う桟橋は、今も人々を運んでいた。尾道駅周辺は昔と様変わりしているけれど、手にとるほどに近い向島への行き来は、5分おきに出ている
ポンポン船。「変らないなぁ」と呟いていた。

私は尾道は始めてである。尾道と言えば林芙美子、千光寺である。ホテルで観光マップを貰って、一日かけて回ることにする。尾道出身の私のお友達とMAXは「尾道いいとこ…」といつも言っている。聞かされている私は、いやがうえにも期待は膨らんで、風船状態なのである。
千光寺公園に駐車して、文学の小道を辿る。きれいに整備された小道を、千光寺境内に向かって下りてゆくだけで「尾道文学散歩」が出来るようになっている。途中様々な句碑が建っている。ひときわ海に開けているところには林芙美子の「放浪記」の一節が刻まれていた。
千光寺からの眺めは素晴らしかった。すぐそばに瀬戸内の海が、そして遠く島々が霞む。
拝殿脇に御札を売っている所があった。其処のおばちゃんがなんとも凄まじいのである。御札を買わないものは通らせないよと言わんばかりなのである。感心したのは、一人一人にかけている言葉が違うのである。
若者には「学業成就だよ!」、女性には「いいご縁があるよ!!」、中年には「健康第一でしょっ!」そして、そして「足腰丈夫にね。歩けないと困るよぅ」と言うのもあるのだ。どの言葉も「!!」付きの大きな声である。私に向かっての一言は勿論「足腰~」。大きな御世話だ!!ヤッケにGパンという浪人生スタイル?の娘は「学業~…いい縁談!」と言い換えたと笑っていた。
千光寺はさすが名刹である。その風情をぶち壊すがごとき、大声の御札売りは何とかならないものでしょうか。千光寺さん、御一考を!!
毒気に当てられて早々に千光寺を後にする。階段が続く道をぶらぶらしたに降りてゆく。尾道は何処にいっても階段からは縁が切れない。
延々と階段道は続くのである。途中、「平山画伯スケッチポイント」というのがいくつかあった。其処からの眺めはさすがによかった。芸術家はやっぱり違うのかなぁ…?と思わされた次第。
地元の方に尋ねたりして、通っていた小学校を一生懸命に探しているMax。階段道に疲れ果て動きたくない私。「待ってて。見てくるから」といいおいて歩道橋を渡って行くMax。彼が案内したい尾道の半分は「彼の尾道」であったのだと気づく。が、足が前に進まないのだ。言葉にならない「ごめんね」が心に広がり、、観光マップをバッグにしまわせた。
お昼を食べるために商店街に出る。アーケード街が続いている。途中に海に抜ける横道がある。その小さな横道に、これまた小さな店がひしめき合うようにある。魚屋、八百屋といった日用品の店である。表のアーケードにも、魚の引き売りがいた。モダンな店の前にそれがあるのは私にはとても妙に見えるのだが、ここの人はそうではないらしい。
近所の方と思しきかたがたが「三枚におろしてぇな」などといいながら買っていた。ブティックのご主人に教えていただいた「尾道ラーメン」は絶品であった。
尾道は寺の町でもある。江戸時代にはこの小さな処に八十を越える寺院仏閣があったというのである。今でもかなりの数の甍を数える。とても全部は回れない。健脚祈願の西国寺と、病気平癒祈願の天寧寺に参拝して姫路に向かうこととした。
西国寺は仁王門に大草鞋があり、また願立ての証の草鞋が、たくさん奉納されている。健脚祈願だけに108段の大石段がある。健脚を祈願する前にさよならしたくなってしまった。
天寧寺には「五百羅漢」が祀られてあった。薄暗い御堂の中から、幾多もの眼に見つめられた。信心深い人ならば、その眼は慈悲に溢れているのだろうが、心貧しく、後ろめたい思いいっぱいの私は「しっかり生きているのか?」と問われているようで、早々に御堂を後にした。境内は時期ならば、しだれ桜、木蓮、牡丹が咲き誇り、極楽浄土の世界を彷彿させるがごときであると、パンフレットには書いてある。未だ花の時期には遠く残念であった。
今日は、天下の名城「姫路城」、別名「白鷺城」を訪う。「お城大好き人間」は「これで幾つ行ったかなぁ」と数え、浮き浮きしている。戦城ではなく居城であった所為か、造りは優美そのもの。現在、大天守と三つの小天守、渡り櫓(国宝)を初め、化粧櫓など櫓27棟、門15棟、土塀(重要文化財)の建造物と内堀・中濠の大部分が残っていると言う。ご存知、千姫の居城でもあり、又「播州皿屋敷」のお菊井戸なども残されている。
長い歴史の中で、一度も戦火や災害に遭うことなく今日に至っており、
西の丸跡から見上げる城は、
両翼を大らかに広げ、その姿は本当に美しい。白鷺城とはうまく名付けたものよ…と思う。
心配していた天候にもどうにか恵まれて、帰途に着く。
関ヶ原のあたりで小雪が舞いだした。今年は春の訪れが遅いようだ。
長丁場の運転、御二人さんお疲れ様でした。車はゆったり後ろに乗るに限ります。
…という訳でOkanにとってはなんとも楽な旅でした。
帰り着いた家の中は、ほのかに暖められておりました。
2005年3月