京 都 散 策
(京都名所めぐり)

「  紅葉の京都−高雄から鳥居本へ 」  




清滝川 平成十八年(2006)十一月二十八日、大学時代の友人と、京都の秋を求めて、洛西に出かけた。  6月に開かれた学生寮の同窓会で、 学生時代の合ハイを高雄で行い、その際、清滝川で飯盒炊飯とフォークダンスを踊った、という話になった。  久し振りに歩こうか、という話になったが、すぐには実現できず、秋も盛りを過ぎた今日になったのである (右写真ー清滝川)
待ち合わせ場所は、阪急四条大宮駅。 小生が阪急の駅と思っていたのが、嵐電の駅だったようで、 しばらくして、ここにいたかと、彼が現われた。 近くのコンビニでおにぎりを買って
高山寺開山堂 いこうというので、それを買い、バスに乗る。  30分程で、栂尾(とがのお)に到着。 栂尾には世界文化遺産に登録された真言宗の古刹、高山寺がある。  奈良時代の度賀尾寺が前身といわれ、御鳥羽上皇の命を受けた明恵上人が再興した (右写真ー高山寺開山堂)
境内参観は紅葉の時期の10月〜12月は有料になっていたが、紅葉は盛りであった。  道に戻り、下って行き、白雲橋を渡ると、高雄錦水亭がある。 このあたりには料理旅館や料理茶屋があった。  清滝川に出て、橋を渡ると、槇尾(まきのお)の地名の由来になった樹齢六百
西明寺 年の槇の老木が立つ西明寺があった。 静寂な寺という旅行案内に反し、多くの人で賑わっていた。  本堂は、五代将軍、徳川綱吉の生母、桂昌院の寄進といわれる (右写真)
小さな寺に多くの人がいるので、清涼寺式の本尊・釈迦如来像と十一面観音像の御参りはあきらめ、 境内だけをうろうろしただけで、また、道に戻った。  道は右へ、そして、左へ大きくカーブして行き、高尾橋で川の反対側に渡った。 右手に上って行くと、神護寺である。  延暦年間に和気清麻呂が建立した愛宕五坊の一つで、高雄山寺と河内国神願寺を合わせて、 神護
茶屋 国祚真言寺が造られたのが始まりという。  眼下に拡がる清滝川の錦雲渓に向かって投げる土器(かわらけ)が有名である。  過去の訪れているのと、高山寺や西明寺以上に人が多いので、今回は敬遠して先に進んだ。  川の反対に、川に沿って桟敷が設けられて食事もできる茶屋があるのだが、友人はコンビニで買った飯がある、というので、先に進んだ  (右写真)
高雄から清滝までの清滝川の四キロ程の区間の渓谷を錦雲渓と呼び、 東海自然歩道の中で大変人気のあるコースである。  美しい川に沿って歩けば、春は数千本の山桜や藤の花に
奥の山は
愛宕山 出会え、夏は清々しい新緑、秋にはその名の通りの錦の紅葉が群がる。  道は途中で川を渡り、左側に行き、しばらくの間、川を右側に見て歩く。 
川の奥の山は愛宕山である (右写真)
当日は平日にも関わらず、多くのハイカーが歩いていた。  我々は、巨岩がむき出しになった崖沿いの道に入る前の橋のたもとで、買ってきた弁当を食べ、お茶を飲んだ。  歩いてきた道は歩きやすく、川原にも降りられる。  飯盒炊飯を行ったのはどのあたりかという話題になったが、互いに記憶にはなかった。  河原でバーベキューを行う時代で、パック入りの米飯もある。 
錦雲渓 飯盒が利用されるのはボーイスカウト位ではないか?という話になった。  その息子も四十歳が近づく、とあっては、 この話はいにしえの話である。 河原に降りてみたが、水を飲むことはなかった。  水を持参したという記憶はないので、 この水で飯を炊いたことは間違いないのだが・・・ それにしても、紅葉がきれいである (右写真ー紅葉に彩られた 錦雲渓)
橋を渡ると、川の右側の道を歩く。 左側の山は杉などの常緑樹が多く、また、落葉樹は黄色
清滝 く、赤系の紅葉はほとんどなかった。  道は途中曲がりくねったところがあったが、楓の木が多いところにでると、左下に駐車場と建物が見えてきた (右写真)
右に行くと、標高九百二十四メートルにある愛宕神社への道である。  この先、清滝川は落合橋までの1.5キロを金鈴峡と名を変えて、続いている。  約三十分のコースであるが、友人は鳥居本に出るトンネルを歩く方が良いのではという。  以前に金鈴峡を落合橋まで歩いているので、賛同し、歩を進める。 清滝トンネルは車道なので、対向車もあり、 短い距離だが
愛宕念仏寺 少し怖い思いがした。  鳥居本に出るには、落合橋からくにゃくにゃした道を上り、嵐山高雄パークウエイをくぐって下りて行くのに比べ、圧倒的に短かった。  トンネルをくぐった右側に仁王堂があるのは、愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)である。  天台宗の仏教寺院で、本尊は厄除千手観音、個人が彫った仏像を奉納した千二百羅漢の寺として知られる (右写真)
奈良時代の天平宝字年間(八世紀中頃)に、稱徳天皇により東山の六波羅蜜寺近くに創建された寺ろいうから古いのだが、 何度となく興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂と仁王門を残す
愛宕神社
の一の鳥居 ばかりになり、大正十一年に当地に移転したが、その後も廃寺同然だったが、昭和三十年に住職になられた西村公朝氏により、今日の姿になった、という。  西村公朝氏は亡くなられたが、現住職は仏教の音楽を作曲、演奏をされていて、仏教の普及に勤しんでいる。  少し歩くと、鳥居本(とりいもと)の由来となる赤い鳥居が見えてきた (右写真)
この鳥居は、愛宕神社の一の鳥居で、鳥居本は愛宕神社の門前町として発展してきたもので、今は珍しくなった茅葺きの農家が残っている。  この先の化野念仏寺から南は瓦屋根の町家
つた屋 風の民家が並び、二つの風景が共存していることから、 鳥居本集落は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。  右側にある鮎宿 つた屋も茅葺き屋根の家だった。  店先の縁台に敷かれた緋毛氈に茅葺き屋根に生えた苔、その上に垂れさがる紅葉の枝が妙に調和していて、浮世を忘れる雰囲気を醸し出していた (右写真)
隣は鮎司平野屋の暖簾がかかり、この家も茅葺き屋根である。  写真家には、鳥居と紅葉、そして、平野屋は特に人気のある被写体である。 少し歩くと、右側の小高いところに、化野
化野念仏寺
の無縁仏 念仏寺(あだしのねんぶつじ)があった。  弘仁弐年(811)、空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのが始りで、 法然が念仏道場を開き、念仏寺となった、というのが寺の由来であるが、 古代は風葬で、このあたりは烏が多くいて、死骸を食い漁ったのであろう。  空海はそれを見て、仏を弔ったというのである。  本堂は、江戸時代の正徳弐年(1712)に、寂道上人により再建されたもので、境内には無数の石碑が建っていた (右写真)
その数は、八千体といわれるが、これは明治三十六年(1903)頃、化野の地に散らばってあっ
つた屋 た無縁仏を掘り出して、集めたもの、という。  化野念仏寺を過ぎると、左側に小さな柿が鈴なりになっている漆喰塗の民家があった (右写真)
虫籠造りという構造であると思うが、間違いだろうか??  道の両脇には、若い女性が喜ぶお店が多くあり、多くの人が集まっていた。  その先の三叉路で右折し二尊院に出たが、彼はこんなに混んでいては見学しても駄目だ!!、というので、 そのまま歩き、交差点で左折し落柿舎を左に見て進み、次の交差点を右折するように進み、 あっという間に京福嵐山駅に出てしまった。  こうして、青春時代に合ハイをした思い出の歩きは終わったのである。 

平成18年(2006)11月


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