京 都 散 策
(京都名所めぐり)

「  晩秋の東山を歩く (2) 」

(法然院、安楽寺、南禅寺)



◎ 哲学の道・法然院・安楽寺

銀閣寺を出ると、疎水が流れていて、哲学の道に出る。
友人は、 「 初めて歩くが、貴方は学生時代、何回か歩いたの? 」 と、 質問を受けた。 
小生の時代は、知るものは知っている、という穴場的存在の道だった。  当時は今と違い、哲学者、西田幾多郎がこの道を散策しながら、 思索にふけったといわれるにふさわしい静かなやや寂しい道だった。  それがいつの間にか、哲学の道と呼ばれるようになり、 道の両脇に飲食店や売店が出現し、観光スポットに変身したのは、 高度成長期の昭和48年以降のことのように思える。   小生がいた昭和三十年後半は、 南禅寺に抜ける静かな道という存在でしかなかったのである。 
周りにある売店や飲食店を無視して歩いて行くと、 左側に「志しが谷 旧跡 円光大師 法然院」の石柱が建っている。 
法然院に入るため、参道を歩き、 山門をくぐると、道の両側に羊羹を伏せたような砂壇が現われた。
「 この盛り砂は水を表わすといい、砂壇の間を通ることは、 心身を清めて浄域に入ることを意味している。 」 
と 案内にあった。

「 法然院は、その名の通り、 鎌倉時代に活躍した法然のゆかりの寺である。 
法然は弟子たちと六時礼讃行を修した草庵を造ったが、讃岐国に流されて衰退。  江戸時代に入り、延宝八年(1680)、知恩院第三十八世 万無が、 法然ゆかりのこの地に念仏道場を建てることを発願し、 再興したのが現在の寺である。 
本堂には、恵心僧都(えいしんぞうず)作と伝えられる阿弥陀如来像と 法然上人木像が安置されている。 」

院前の池には、無数の落ち葉が赤、黄、褐色といろいろな色をして、 浮かんでいた。 
その奥には、玄関のある建物があったが、これが方丈(本堂)だろうか?
この寺は、境内は自由に拝観できるのだが、建物は、4月1日〜7日、 11月1日〜7日のみ拝観できるだけである。  それでも、山門付近の紅葉と砂壇の取り合わせは絵になるので、 多くのカメラマンが写しにきていた。 
道に戻って進むと、左側に安楽寺への参道があるので上っていくと、 赤く燃える紅葉の下に、茅葺の山門があった。

哲学の道 x 法然院砂壇 x 法然院伽藍 x 安楽寺山門
哲学の道
法然院砂壇
法然院伽藍
安楽寺山門


「安楽寺の由来」 
「 安楽寺は、鎌倉時代の初め、浄土宗元祖法然上人の弟子、 住蓮上人と安楽上人が、 現在地より東一キロメートルのあたりに鹿ヶ谷草庵を結んだことに始まる。 
住蓮上人と安楽上人は、唐の善導大師の往生礼讃に譜曲を附し、 六時礼讃声明を完成させた。 両上人が勤める声明は、まことに美しく、 参詣者の中には出家して仏門に入るものも出てきた。  その中に、後鳥羽上皇の女官として仕えていた松虫姫と鈴虫姫姉妹がいた。  後鳥羽上皇が、紀州熊野に参詣の留守中に、清水寺で法然上人の説法を聴聞し、 念仏の力を自覚され、御所から抜け出し、鹿ヶ谷草庵を訪れて、 尼僧になってしまった。 これを知った上皇は激怒し、 住蓮、安楽両上人を斬首し、法然上人は土佐に、 親鸞上人は越後に流された。 その後、草庵は荒廃したが、 流刑から戻った法然上人は両人の菩提を弔うため草庵を復興し、 その後、天文年間(1522〜1555)末に現在地に本堂が再建された。 
寺名の住蓮山安楽寺は両上人の追善の寺とした法然上人が名付けたものである。 」  

境内の右手を進むと、「住蓮、安楽両上人」の石柱があり、 その先に石垣で囲まれた中にある二つの五輪石塔が、 住蓮、安楽の墓というか、供養塔である。
その傍らには、辞世の歌が刻まれた石碑がある。 

松虫姫を出家させた住蓮坊は、 建永二年(1207)二月九日、近江国馬淵で処刑されたが、 その辞世の歌は、

 「 極楽に 生まれむことの うれしさに 身をば佛に まかすなりけり 」 
である。 

鈴虫姫を出家させた安楽上人は、京都六条河原で処刑されたが、 辞世の歌は、

 「 今はただ 云う言の葉も なかりけり  南無阿弥陀仏の み名のほかには 」 
である。 

鈴虫と松虫の話は、ご婦人方にはいたく琴線に触れるようで、 「鈴虫寺」と呼び、大変人気がある寺であるが、 春と秋の特定期間しか公開しないので、なかなか拝観できない。 
小生もこれまで何度も門前払いを食った。 そういう意味では、 友人はラッキーである。 

山門は紅葉だったが、寺の庭園には苔と緑の小木が植えられていて、 それに、千両や万両の小さな赤い実が彩を付けて、絵になる風景だった。
本堂には、本尊の阿弥陀三尊があり、傍に、住蓮、安楽上人、 松虫、鈴虫両姫の座像が祀られていた。 
東方の山林の中には、松虫、鈴虫の五輪石塔があった。

鈴虫松虫のその後が気になったが、 寺の説明では、「 瀬戸内海の生口島の光明坊に移つされ、 念仏三昧の余生を送り、鈴虫は四十五才、松虫は三十五才で亡くなった。 」  という。 

寺の前の道を左折して進むと左側に、臨済宗南禅寺派の門跡尼寺の霊鑑寺がある。

「 承応三年(1654)に、 後水尾天皇の皇女を開基として創建された寺で、 代々皇女が住職を務めて、 谷御所、鹿ケ谷比丘尼御所とも呼ばれている由緒のある寺である。  この寺も、椿の咲く春と紅葉の秋の一時期しか公開されない。 」

霊鑑寺には、御所人形や貝あわせ等の皇室ゆかりの品が多く、 また、池泉鑑賞式庭園や、名椿が多数あることで有名であるが、 公開時期を終えていて、入ることは出来なかった。  境内(?)には、如意不動堂が建っていた。

安楽寺本堂 x 住蓮、安楽の五輪石塔 x 安楽寺庭園 x 霊鑑寺
安楽寺本堂
住蓮、安楽の五輪石塔
安楽寺庭園
霊鑑寺



◎ 大豊神社・若王子神社

霊鑑寺の右側の狭い道に、「此奥俊寛山荘地」 と書かれた石標があった。
そこに行くには山道みたいなところを歩くと聞いたので、行くのはやめた。

平家全盛の頃、平家打倒の密議をしたのは俊寛僧都の別荘だが、 そのことが露見して、俊寛らは鬼界ケ島へ流刑になったことは歴史で習ったが、 当時は草深かいところだろうと思った。

道の反対にはノートルダム女学院の敷地なので、ここを右折し、 哲学の道に出て、左折して南に向かう。 
  右側には、「大豊神社御旅所」の石柱があり、奥に木造の建物がある。 
その先の交差点の左側の疎水を越えたところの常夜燈の下に、 手作りの看板があり、「大豊神社東60m」とあった。 

「 大豊神社の祭神は、少彦名命、菅原道真、応神天皇、大国主命と、 役者がそろった感じの神社である。
社伝には、「 仁和三年(887)、宇多天皇の病気平癒のため、 女官、藤原淑子が建立した神社で、建武の内乱、応仁の兵火で焼失したが、 その後再建された。 」 とある神社である。

交差点の左側に、 「ひやしあめ、甘酒」 の看板が竹竿に吊るされている茶房二三麿があり、 「恋の辻うらない、こけへんおまじない」 の看板がある。  店の前で、二人の女性がおみくじらしいものを覗きこんでいたが、 この看板のものは何かに興味があったが、男二人では確認するのも気が引けた。 
そのまま進むと、熊野若王子神社のところに出る。 
その途中で、白い塀に真っ赤に紅葉して、 素晴らしいという一言がいえるもみじに出逢った。

京都市の説明板「熊野若王子神社」

「 熊野若王子神社は、永歴元年(1160)に、 後白河法皇が熊野権現を勧請して建立した若王子の鎮守社である。  以後、室町幕府及び武家の信仰を集めると共に、花見の名所としても知られ、 寛正六年(1465)三月には、八代将軍足利義政により花見の宴が催された。  その後、応仁の乱により社殿は荒廃したが、豊臣秀吉により再興され、 社殿及び境内が整備された。  現在の社殿は、昭和五十四年(1979)に一社相殿に改築されているが、 以前は本宮、新宮、那智、若宮の四棟からなっていた。 」 

鳥居の前には、当社の御神木のなぎの木があるが、樹齢四百年余といわれ、 京都の名木に指定されている。 
鳥居のたもとにある石橋は、明暦二年(1645)に吉良家より寄進されたものである 。
この神社も、明治の神社合祀令でこのあたりの神社が集められたようで、 本殿の奥には転座した神社がある。 
境内には、昭和五年に建てられた後花園天皇の御遺跡の石碑があるが、 詳しいことは分からない。 
同志社大学創始者の「新島襄先生御墓所参道」の石碑も建っていた。 
若王子神社のたもとに架かる若王子橋で、琵琶湖疏水は地下にもぐり、 哲学の道もここで終りである。 

俊寛山荘地碑 x 大豊神社入口 x もみじ x 若王子神社
俊寛山荘地碑
大豊神社入口
見事なもみじ
若王子神社



◎ 永観堂・南禅寺

その先にあるのは、浄土宗西山派の禅林寺である。

「 平安時代の初期に、弘法大師の弟子、 真紹僧都により創建されたが、 その後、永観律師が念仏修行の場として、 民衆を救った功績から永観堂と呼ばれるようになった。  この寺は、寺名より紅葉名所の永観堂の方が名が通る寺で、 重要文化財に指定されている本尊の阿弥陀如来立像は、左後方を振り返る姿で、 みかえり阿弥陀とも呼ばれている。 」

時計を見ると、15時30分を過ぎているので、 友人に入館時間からこの永観堂か、 その先の南禅寺か、どちらか一つしか入れないと思うといった。 
南禅寺の方が有名だし、一度も訪れていないといったので、そちらに向かう。 
その先の右側に「大鑑禅師塔處 聴松院」の大きな石柱があり、立派な山門がある。

「 聴松院は細川氏の菩提寺で、 希世霊彦が焼失した清拙正澄の塔處、 善住庵を再興して、その名を聴松院と改めた塔頭である。  南禅寺の塔頭ながら今なお大鑑派の法灯を伝える貴重な寺である。 」

その先、「天聖摩利支尊天」の大きな石柱のある山門をくぐると、 摩利支天堂があった。
聴松院の山門と摩利支天堂の門とは別々になっていて、 堂の前には狛犬の代わりに阿吽のイノシシが構えていた。 
江戸時代から続く湯豆腐どころで知られていたが、 最近営業をやめてしまったのは残念である。 
少し進むと、左手一帯は南禅寺の境内になる。 

「 南禅寺は臨済宗南禅寺派の総本山で、 瑞龍山太平興国南禅寺というのが正式名称である。 
七百四十年前の文永元年(1264)、亀山天皇がここに離宮を作り、 禅林寺殿を営めれた。  法皇になった亀山天皇は、天応四年(1291)に離宮を捨施し、大明国師を開山、 亀山法皇を開基として禅寺を造られたが、 大明国師はすぐ亡くなったので、二世南院国師の手により、 諸道伽藍を完成したので、 南院国師を創建開山と仰いている。 創建当時の建物は、 明徳四年、文安四年、応仁元年の三回の火事で消滅し、 現在のものは桃山時代以降の再建である。 」

南禅寺は右側に拝観受付があり、その左に踏石が並ぶ大玄関があった。
その左側に大方丈がある。 

永観堂 x 聴松院山門 x 摩利支天堂 x 南禅寺大玄関
永観堂
聴松院山門
摩利支天堂
南禅寺大玄関


初冬の午後になると、京都特有の底冷えと呼ばれる寒さがある。 
板敷きを歩く足先から寒さが襲ってくる感じがした。  書院から、広廊下を歩くと、大方丈に出る。 

「 大方丈は、天正年間に豊臣秀吉が建築寄進した御所の清涼殿を 慶長十六年(1611)に後陽成天皇より拝領し移築したものである。  襖絵は、狩野元信、永徳の手による。 
大方丈の内仏は重文の平安時代作の聖観世音菩薩立像であるが、 現在は宝物殿に収蔵されている。 」

大方丈の広縁に出ると、巨石の姿から、俗に、 「虎の児渡し」と呼ばれる庭である。

「 慶長年間、小堀遠州の作庭によるものといわれ、 清涼殿、庭園、借景の羊角嶺大日山の山容と三者がよく調和して、 優雅、枯淡で品格のある借景式庭園で、 江戸初期以降に見られる樹木と石組を一ヶ所にまとめた、 広い余白が楽しめる名園である。 」

小方丈は、清涼殿に接続した後方の建物だが、 桃山城の小書院を移したもので、狩野探幽の水呑の虎図が有名である。 
小方丈庭園は「如心庭」といわれる、禅式枯山水庭園である。
昭和四十一年に作庭された枯山水庭園で、解脱した心の如く、 落ち着いた庭園に仕上げている。

南禅寺にはこの他にも、昭和四十二年に作庭された六道庭がある。
これは一面の杉苔の中に、配石された景石があり、煩悩に逢い、 涅槃の境地に達することなく、 六道を輪廻する我々凡人のはかなさを表現した六道輪廻の庭である。 

南禅寺には、不識庵と窮心亭と二つの茶室がある。

「  不識庵は、昭和二十九年に、 窮心亭は昭和四十三年に、いづれも茶道宗偏流一門の寄進によって建立させたもので、 窮心亭の路地を囲む竹垣は、南禅寺垣と名付けられている。 」

靴を履いて外に出ると、左手に「水路閣」と呼ばれる赤レンガのローマ風の水路が頭の上を通っている。
水路閣や石段は、京都を舞台とした殺人事件のTVドラマに何回となく、 登場している場所である。 
それをくぐって、石段を上った一段高いところにあるのが、南禅院である。

「 ここは離宮禅林寺殿の「上の宮遺跡」で、 南禅寺の発祥地である。 
応仁の乱以降、久しく荒廃していたが、 元禄十六年(1703)、徳川綱吉の生母、桂昌院の寄進により再建された。 」

周りは薄暗くなってきたので、南禅院には入らず、表に向かって歩いていく。 
方丈の西側一段下がったところにある大きな伽藍は法堂である。 
豊臣秀頼の寄進による建物は、明治二十八年に焼失したので、 現在の建物は明治四十二年に再建されたものである。 

法堂の前に堂々と聳えるのは三門である。

寛永五年(1628)、 藤堂高虎が大阪夏の陣の戦没者慰霊のため、 寄進建立したものである。 
大盗賊の石川五右衛門が、この三門の上で、  「 絶景かな! 絶景かな! 」 と見得を切るシーンが歌舞伎などであるが、 京都の三条河原で釜茹でにされた五右衛門は安土桃山時代の人なので、 歴史学ではありえない話である。 

虎の児渡し x 小方丈庭園 x 水路閣 x 南禅寺三門
名園「虎の児渡し」
小方丈庭園
水路閣
南禅寺三門



◎ 湯とうふ

南禅寺の参観は終了。
十六時十五分でまだ早いが、南禅寺はゆどうふが有名なので、 ここで食事をしていかないか!、と友人に相談。  それはよい、という返事なので、順正本店に入る。
「南禅寺 ゆとうふ 丹後屋」 の暖簾がかかる田舎家風の家に案内された。
先程通り過ぎてきた「奥丹」という店は、庭がきれいで、歴史は古く、 江戸時代から続く店である。 
そちらをとも考えたが、引き返すのも面倒なので、こちらにした。 
部屋は大広間で、四名で一つのテーブルという構成である。  ゆどうふコースの月という4000円のコースと日本酒を二本頼んだ。 
肌寒くなったたそがれ時という風情であるが、夕食にはまだ早い時間なので、 室内は空いていて、貸切みたいだった。  我々男二人は、早速、運ばれてきた熱燗で乾杯!! 
今日の感想を友人に尋ねると、満足したようなので、一安心である。 
出てきた料理は、八寸、お造り、湯豆腐、胡麻とうふ、小鉢で、 少し後に野菜の天婦羅が出てきた。
湯とうふも食べ頃になってきた頃、酒が無くなったので、追加を頼む。  気がつかない内に、人が次から次にと入ってきたようで、 ほぼ満員の状態になっていた。 
ご飯と香物が運ばれたので、それをたいらげ、 順正を出たのが十七時三十分過ぎであるが、冬の日はつるべ落としとあり、すっかり日は暮れていた。
近くの交番に聞くと、バス停は平安神宮の鳥居近くにあると聞いたので、 酔さましに歩いていき、その近くにあるお菓子屋で、家内が好きな平安殿を買い、 土産とした。 
しばらくすると、四条河原町を経由するバスがあったので、 それに乗り、荒神口のホテルに戻った。 

順正本店 xxxx ゆどうふ料理 xxxx 順正本店
順正本店
ゆどうふ料理
順正本店



平成20年(2008)12月



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