京 都 散 策
(京都名所めぐり)

「  晩秋の京都 − ライトアップの高月寺 」 
 




カトリック河
原町教会 平成二十年(2008)十二月八日(日)、晩秋の東山地区を歩いた。  京都の秋の観光は、今日までのようで、秋に行われる寺社のライトアップも今日までである。  カトリック河原町教会では、すでに御降誕祭の看板が出て、Xマスが近いことを暗示していた (右写真)
三條から四条に掛けては、道を一筋位入ったあたりにわが青春に心を躍らせて、通い詰めた歌声喫茶やバー、そして、 ジャズバントがあったところだが、当時の店は全てという程なくなってしまっている。 
ボーナスが出たあとの日曜日ともあり、四条河原町はかなりの賑わいである。 
四条河原町 阪急と高島屋デパートのあたりは若い女性やカップルが多く歩いていた (右写真)
当時付き合っていた女性は、今どこでなにをしているのだろうか?、とふと思った。  当時は、バーが木屋町筋に多くあり、サントリーバーとトリスバーがあり、
前者はサントリーのオールドを置き、後者は安いトリス、現在の赤ラベルを
置いていて、それをハイボールで飲むのがおしゃれという時代だった。 
全国的には日本酒の飲み屋がほとんどという時代だったので、
ウイスキーは若者の時代先取りの飲み物だったし、バーでは高いが
カクテルを注文するのは更に通といえた。 
八坂神社楼門 若いがゆえに、かっこうをつけて、カクテルやウイスキーを飲みに、金もないのに出かけていった。  そんなことを思い出しながら歩いて行くと、いつの間にか、八坂神社の前に来ていた。  この朱塗の楼門は、西楼門ともいわれ、明応六年(1497)の建立である (右写真)
本殿の西方、四条通りの突き当たりに建ち、切妻造の二階建て門である。 
楼門前の交差点は、祇園祭の神輿渡御出発式が行われるところだが、第一次安保闘争時にはデモで渦巻きデモでここを埋めつくしたのである。 
もう五十年近く前の出来事である。 
暗闇の道 楼門はライトアップされているが、交差点は薄暗く、カップルが歩くのはよいのだろうが、もっと明るい方がよい。  交差点を越えて右折し、ホテルユースやさかの斜めに進む小路に入った。  少し歩くと普通の道に出たので、右折して進んだが、高月寺に行くには、対面にある小路を歩くとよかったのである。  分からず歩いて、近くの店の人に聞くと、少し先の左側の小路には入り、道なりに行けばいけると教わった。  この道は街燈がいっさいなく、料亭や旅館の看板の明かりがたよりである (右写真)
人がくるけはいはわかるのだが、カップルが目の前まできて始めて、二人だった
のだとわかる状態だった。 昔はこうしたくらやみは普通だったのだが、今は
このような闇は犯罪が起きると不安に思ってしまう時代になってしまった。 
円徳院長屋門 道は少し曲がったが、高月寺の先の駐車場前に出た。  これなら、八坂神社前の道を南下して、東山安井の交差点を左折してくればよかった。  「円徳院」の表示があり、高月寺など三ヶ所共通割引とあったので、長屋門から中に入った (右写真)
円徳院については予備知識はなかったが、「 豊臣秀吉の北政所だったねねが十九年間過ごした終焉の地のようである。  甥の木下年房が、ねね没後の九年目に木下家の菩提寺として建立した。 」 とある。
唐門をくぐると、小道の右側に秀吉公好みの手水鉢があった。 
照明は所々にしかないので、もみじの紅葉も断片的にしか見えない。 
方丈南庭 方丈に入る。 方丈の南面には、昭和になって造られた庭があり、紅葉になっていたので写したが、照明の当たらないところに黒い影が出来た (右写真)
「 本尊正面の室中の襖絵は、 晨鳥社、赤松燎画伯遺作の白龍で、 上間の間の襖絵は、志村正画伯の雪月花図で、下間の間の襖絵は、木下育應画伯の松竹梅図である。 」
ここには、長谷川等伯の襖絵が多く保存されている、というが、特別公開の時にしか見ることはできない。 
渡り廊下を渡ると、北書院である。 
この建物に隣接してあるのが、国指定名勝の北庭である。 
北書院北庭 「 伏見城の北政所化粧御殿の前庭を移したもので、 桃山時代の代表的な庭園の一つで、池泉回遊式だが、 桃山時代だから、これだけの巨石を多く集めたといえる枯山水で、 後に、小堀遠州が手を加えている。 」
昼明るい時に見ると、石組や蹲など、いろいろ目に入り、国指定名勝の北庭を堪能できるのだろうが、ライトアップした庭には、どうしても、もみじに目がいってしまう (右写真)
そうすると、岩より砂ともみじの方が良い庭と感じてしまうような気がした。 
北書院を出て外にでると、京都御所から移築したお堂があり、福徳信仰の象徴として、
高月寺に入る 豊臣秀吉の念持仏としたといわれる三面大黒尊天像が祀られている。 
いわば、秀吉の出世守り本尊である。  出口には売店を設けていて、なかなか商売熱心なお寺である。  なお、この寺を造った木下年房であるが、 一度は藩主の座を追われたが、 大阪の陣で大活躍をし、備後国足守藩二万五千石を拝領し、 その子孫が幕末まで藩主を続けている。   表の道は「ねねの道」とあり、 左折して行くと左側の石段を上って、山門をくぐる人が多い (右写真)
この多くの人達は皆、高月寺のイルミネーションを楽しみにしている人である。 

高月寺庫裏 右写真は高月寺庫裏である。
「 秀吉の正室のねねは、 秀吉が関白に任じられたことから北政所と呼ばれるようになり、 天正十六年(1588)には従一位に叙せられた。  慶長三年(1598)八月十八日に関白秀吉が亡くなると円徳院になった。  翌年四年、大阪城を出て、京都に移り住む。 
同八年、御陽成天皇より高台院の号を勅賜、 同十年(1605)伏見城より化粧御殿と庭園を移築してここに移る。  同時に、甥の木下利房が客殿を建築した。 
翌年の慶長十一年(1606)、ねねは秀吉の菩提を弔うため、寺を開創した。 
紅葉したもみじ ねねの死後の寛永元年(1624)七月、建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、 高台寺と号する寺院になった。  造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行ったので、 寺観は壮麗をきわめたという。  壮大だった高台寺も、寛政元年(1789)以後になると、度々の火災に逢って多くの堂宇を失う。  現在残っているのは、旧持仏堂の開山堂と霊屋(おたまや)と傘亭、時雨亭、表門、観月台等のみであるが、 全て国の重要文化財に指定されている。 」


紅葉したもみじ ねねが亡くなる寛永元年までは現在の高台寺がねねの最後の住処になった訳であるが、 家康と石田三成の大阪城を巡る争いの中、多くの人が出入りしたようである。
方丈に上ると、南に面して勅使門があり、門と方丈の間に前庭があった (右写真)

そこに青と白いレーザー光線を当ると、周りの暗黒の中に、その部分だけが浮き上がり、 なんともいえない幻想的な風景が浮かび上がった (下写真)
まさに照明の巧さによる演出である。 




小堀遠州作の庭 方丈の東側には、国の指定史跡名勝である、小堀遠州作の庭がある (右写真)
「 開山堂の東の臥龍池と西の偃月池を中心として展開し、偃月池には、秀吉遺愛の観月台を配し、北に亀島、南の岬に鶴 島を造り、その石組の見事さは桃山時代を代表する庭園である。 I
夜のため、庭園の詳細は見えないが、ライトアップされた石組や左手にひろがる偃月池、 その上に架かる観月台が目を凝視すると、捉えることができた。 

方丈から書院に出て、開山堂へいく間は、瓦屋根の渡廊下になっているが、池の中間に
紅葉したもみじ あるのが観月台である。  観月台は、檜皮葺きの四本柱の建物で、三方が唐破風をつけた屋根の下から月を観るための施設である。  
暗いので申し訳ないが、右の写真の左側にある丸く褐色光っているのが観月台で、 右側に白く光っている建物が開山堂である (右写真)
「 高台寺の開基の三江紹益は、慶安三年(1650)に亡くなったが、それを祀るのが、旧持仏堂の開山堂で、国の重要文化財に指定されている。  左右の壇上には、ねねの兄の木下家定、雲照院(家定の妻)等の像が安置されている。 」
礼堂部中央の彩色天井には、北政所の御所車の天井、前方の格子天井には、秀吉が
臥龍池 使った御船の天井が用いられている。 室内は全て撮影禁止である。 
開山堂からねねの墓所である霊屋までの間に臥龍池がある (右写真)
池には紅葉が映っているのだが、光がないためか、目で見た風景は写真では再現できなかった。  その先の霊屋までの階段は、「臥龍廊」と呼ばれるが、 龍の背に似ていることから名付けられた、という。 
霊屋は、高台寺の開創である北政所の墓所である。 
「 北政所は、 高月寺の堂宇が建立された寛永元年(1624)の九月六日、七十六才で
亡くなった。  霊屋の内陣須弥壇中央には随求菩薩、左右には秀吉と北政所の座像が安置
されている。  」

臥龍の図 須弥壇の蒔絵は高台寺蒔絵として名高く、秀吉の厨子扉には、 露にすすき五七桐紋、高台院の厨子扉には、松竹の図などが描かれていて、 桃山時代の漆工芸の粋を集めたものである。 その頭上には、臥龍の大きな絵が見事に描かれていた (右写真)
霊屋を出て、石段を上ると、千利休の茶室「傘亭」がある。 
「  傘亭は竹が放射状に組まれ、カラカサを開けたように見えることから、その名があるが、正式には「安閑窟」と呼ばれるもののようである。  屋根は方形造り茅葺き、内部は竹を放射状に配した化粧屋根裏が傘の下を連想させる。  南側に板の間の下屋が付き、主屋は八畳の広さの空間であるが、入口の前の一畳分は土間で、残りは畳が敷かれている。 
入口の釣り上げ式の揚戸や、皮付丸太の太い柱など、野趣な構えであるが、これが
千利休の茶室の特色である。 」


時雨亭 その右側の一段高いところにあるのが、「時雨亭」である (右写真)
「 時雨亭も千利休の茶室である。  入母屋造茅葺きの二階建てで、一階は大部分が土間で、残りの三畳分が板間になっている。  二階は、土間廊下から階段を上って入るようになっている。  すべて板敷きであるが、上下段に分かれており、 下段は東側に床と手前座が作られている。  天井は化粧屋根裏、床には円窓があけられていて、二階の掛戸を突き上げると、 大きく展望がひらけ、 ここからは加茂川の先に京の町並みが見えてように思われる。 」

傘亭と時雨亭は、土間廊下でつながっている。 
傘亭も時雨亭も国の重要文化財に指定されている。 
紅葉 坂を下って行くと、左側に竹林があった。 
明かりがこぼれている部分だけが、黒光りというか、濃い緑色をして、 林立していた。 
竹林を何度か撮影したが、なかなか良い写真が撮れない。  光に反射し、どうしても白くなってしまう部分が出来てしまい、 竹の持つ生命力がうまく表現できないのである。 
見上げると、頭上一杯に紅葉が広がり、その間から小さな月が見えていた (右写真)
観月台では気がつかなかったが、その時も出ていたのだろうか? 

南座 人の流れが東山安井に向っているので、人の後をついて歩いた。 
安井からは人混みと別れ、一人東大路通りを北上し、八坂神社前に出た。 
近くに宴会後の二次会でお世話になった店があるのだが、 人に連れられて行ったので、どの店か自信がなくあきらめて、南座の前にきた。  ふと見上げるとまねきがある (右写真)
京都は昔から南座で歌舞伎の役者の名を記したまねきがあがると、
「 師走ですなあ!! 」 と囁かれた。 
学生時代は金がなかったので、上階の安い席で芝居をみたことも思い出した。 
小腹が空いていたので、今日の打ち上げに、高瀬川のラーメン屋に入り、
ビールと餃子を食べて、宿に戻ると二十一時だった。 

平成20年(2008)12月


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