◎ 大酒神社
妙心寺南門を出て、時計を見ると十四時前。 広隆寺に向かって歩く。
十四時二十四分、石柱に「太秦明神」とある大酒神社の前にきた。
「 大酒神社は、太秦の地に土着した帰化人の秦氏が、
祖先神として信仰した神を起源とした大辟神社が、その後、
他の神も合祀して誕生した神社で、太秦の鎮守社である。
本殿には、秦始皇帝、弓月王、秦酒公(はたのさけのきみ)の三神、
相殿には、兄媛命、弟媛命(呉服女、漢織女)が祀られている。
大酒神社は広隆寺の桂宮院境内に祀られていたが、
明治の神仏分離令により、現在地に移転した、とある。 」
大酒神社とあるので、酒の神様と思ったが、酒公という人を祀る神社という意で、秦氏が広めた養蚕、機織、歌舞などの神様も祀られているのである。
社殿は小さなものだが、
機織りや酒造りなどの中国の文化を日本に拡げた秦氏が係わっていたことを知り、正直にいって驚いた。
境内の説明板に、その歴史が記されていたが、 面白いので全文を以下掲載したい。
「 当社は、延喜式神名帳葛野郡二十座の中に、 大酒神社(元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。 大辟と称するは、秦始皇帝の神霊を仲哀天皇八年(三五六年)皇帝十四世の孫、 功満王が漢土の兵乱を避け、 日本朝の淳朴なる国風を尊信し始めて来朝し、此地に勧請す。 これが故に 災難除け、悪疫退散の信仰が生れた。 后の代に至り、功満王の子弓月王、応神天皇十四年(三七二年) 百済より百二十七県の民衆一万八千六百七十余人統率して帰化し、 金銀玉帛等の宝物を献上す。 又、弓月王の孫 酒公は、秦氏諸族を率て蚕を養い、 呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥しく織出し朝廷に奉る。 絹布宮中に満積して山の如く丘の如し、天皇御悦の余り、 埋益(うずまさ)と言う言葉で 酒公に禹豆麻佐の姓を賜う。 数多の絹綾を織出したる呉服漢織の神霊を祀りし社を大酒神社の側にありしが、 明暦年中破壊に及びしを以て、当社に合祭す。 機織のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに力め、 農耕、造酒、土木、管絋、工匠等産業発達に大いに功績ありし故に、 其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。 今大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改む。 広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、 明治初年制令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。 現在、広隆寺で十月十日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭りは、以前、広隆寺の伽藍神であった当社の祭礼である。 尚、六〇三年広隆寺建立者 秦河勝は酒公の六代目の孫。 又、大宝元年(七〇一年)子孫秦忌寸都理が松尾大社を創立、 和銅四年(七一三年)秦伊呂具が伏見稲荷大社を建立した。 古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発展に貢献した。 秦氏族の祖神である。 」
この記述によると、一万?千人余の百済人が新羅国の迫害を避け、
日本へ帰化(i移住)していた訳で、移住した地区ではかなりの勢力を
発揮したことが想像できる。
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◎ 広隆寺
更に進むと、交差点の角に、
広隆寺の「南大門」が周囲を威圧するように建っている。
南大門は、元禄十五年(1702)の建立と伝えられ、
門の両脇には仁王像があることから、仁王門ともいわれる楼門である。
「 広隆寺は、推古天皇十一年(603)に建立された山城(現京都府)最古の寺院であり、 四天王寺、法隆寺等と共に、聖徳太子建立の日本七大寺の一つである。 当初の名は峰岡寺といい、秦寺、葛野寺、太秦寺などといわれたが、 現在は広隆寺と呼ばれている。 」
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楼門を入ると、左側には薬師堂、能楽堂、地蔵堂の建物が甍を並べている。
右側にすぐ見えるのは、通称、「赤堂」と呼ばれる講堂である。
「
講堂は永方元年(1165)に再建された、五間四面、本瓦葺、四柱造の建物で、
京都最古の建物といわれる。
内部には化粧屋根裏になっていて、内陣の中央には高い土壇を設けて、
その上に板床を張り、中央に本尊阿弥陀如来坐像を、
右に地蔵菩薩坐像、左に虚空蔵菩薩坐像を安置している。
国宝の阿弥陀如来坐像は、弘仁時代の作と伝えられ、木造漆箔である。
顔は豊満な輪郭を示し、体躯も片巾も広く、
両臂を張り、堂々とした落着きを見せ、重厚な感じを与えている。
地蔵菩薩坐像は、道昌僧都の作と伝えられ、一本彫成で、
弘仁時代の特色である全体に重厚な表現に満ちた仏像である。
虚空蔵菩薩坐像も弘仁時代の一本彫成で、
これも道昌僧都の作と伝えられ、地蔵菩薩坐像とともに、
重要文化財にしてされている。 」
石畳を進むと、 正面にあるのは、 本堂である上宮王院太子殿(じょうぐうおういんたいしでん)である。
「
享保十五年(1730)の建立、入母屋造、檜皮葺きの宮殿風の建物である。
堂内奥の厨子内には本尊の聖徳太子立像が安置されている。
日本書記に、秦河勝が、聖徳太子から仏像を賜り、
それを本尊として峰岡寺を建立したことが記されている。
この太子像には、太子の偉徳功業を景仰せられる歴代天皇が、
即位大礼の御着用の黄櫨染桐竹鳳凰御袍御束帯を贈進されるのが御例になっていて、毎年十一月二十二日に御開扉がある。 」
石畳の道を左にとって、本堂と庫裡の間を北に進むと、
弥勒菩薩半跏蔵など多くの仏像を安置する新霊宝殿へと導かれる。
広隆寺には各時代の仏像、古文書が残されているが、
盗難と火災予防のため、諸仏殿に祀られず、
このコンクリート製の和風の建物の中に保管されている。
「 ここに入る場合のみ有料であるが、
天平、弘仁、貞観、藤原、鎌倉時代の仏像があり、
京都で一番充実したコレクションである。
博物館と違うのは、仏像として祀られているので、
信仰の対象であり、御参りするということである。
単なる美術鑑賞はできなく、係の人に注意される。 」
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広隆寺で見落とせないのは、日本の国宝第一号に指定された弥勒菩薩半跏思惟像である 。
これは飛鳥時代を代表する逸品で、ドイツの実存哲学者、カール・ヤスパースが、
弥勒菩薩について、 「 真に完成されきった人間実存の最高の理念が余すところなく表現され尽くしている 」と絶賛しているのも頷けた。
この像は飛鳥時代の製作であるが、同じ名前の仏像がもう一つあり、こちらは百済国から貰ったもので、「泣き弥勒」とあった。
その他、弘仁時代の十一面千手観音立像ともう一つの像は国宝で、藤原時代の日光、月光菩薩立像を始め、多くの重文指定が祀られていた。
京都旅行の秋の定番といえば、嵐山である。
友人はしばらく嵐山には訪れていないというので、京福嵐山線の太秦駅から電車に乗り、嵐山に行った。
渡月橋から海抜三百八十一メートルの嵐山を見た。
もっと紅葉した木々が見えるかと思ったが、終わりかけなのか?、
紅葉している木は少なかった。
橋を渡ると、嵐山公園で、いつもなら修学旅行の生徒が多くいるところで、
友人もここだった、という感想を漏らしたが、当時の方が賑わっていたと思う。
京福の嵐山駅あたりに、ギャルが喜ぶ店が出来てからは、
こちらに来る人は少なくなったように思える。
秋の日は釣瓶落とし。 あっという間に暗くなったので、嵐山から四条大宮まで電車で行き、市バスで祇園バス停で降り、ぼんぼりの灯る八坂神社に御参りし、二日間の天気と旅の無事にお礼を述べた。
この後、友人が知らないと云った祇園での食事がよからうと、花見小路通りを通り、
一力の先の料理屋に入った。
おまかせ料理と日本酒であったが、二人とも満足。
「 京都の料理は、ゆば、湯豆腐、はも、など皆うまいね!! 」 という
彼の言葉に、今回の旅行企画は成功だった、と思ったのである。
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平成20年(2008)12月
目のゲストです!!