京 都 散 策
(京都名所めぐり)


「  晩秋の京都 ・ 東山 」

(清水寺、豊国神社、智積院、新日吉神宮)




平成二十年(2008)十二月九日、 友人との旅の最終日、彼は午後の列車で東京に帰るというので、 「 午前中は清水寺でどうだろう? 」 と提案すると、「 ぜひに !! 」  との返事。 

◎ 清水坂

河原町四条からタクシーで向かい、五条坂、清水坂、 三年坂が交差するところで、タクシーを下りた。 
当初の計画は、東山安井から二年坂、三年坂を歩いて、 清水へのルートを考えていたのだが、足に自信がないというので、 タクシーにした。  上りが続くので、この方が楽。
ここは交通の要衝で、「経書堂」の石の囲いの前には、「京の坂道 三年坂」、 「右清水寺 左護国神社高台寺」、「京都護国神社 近道」の三つ道標が建っている。 

「  経書堂は、聖徳太子の創建といわれ、 十六歳の時の姿をうつした太子像を本尊としている。 」

清水坂を上ると、提灯に「聖徳太子御直作厄除け阿弥陀如来」 と書いた宝徳寺のお堂がある。

「  宝徳寺は、慶長十三年(1608)に玉円上人により建立されたが、 現在は清水寺の無住寺になっている。 」

その先にあったお堂には、いろいろな額が掲られているが、 真福寺の大日堂である。 

「 小さなお堂に所狭しと座るのは、本尊の大日如来坐像で、 高さは二メートル三十センチもあり、重要文化財に指定されている。 

このあたりは、みやげ屋や甘味処が多い。 
友人は七味とうがらしを購入。 ここのは、頼めば配合を調整してもらえる。 
京漬物の店も多い。  大安、西利、土井しば漬本舗など、知っている店も多いが、知らない店もある。 
商店街のはずれに、清水寺の仁王門があるが、左手を見ると小さなお堂があり、 説明板に「地蔵院善光寺堂」と書かれていた。

説明板「地蔵院善光寺堂」
「 地蔵院は清水寺塔頭で、このお堂は十六世紀中頃の清水寺古図に描かれていて、 お堂には六地蔵の石仏が安置されていた。  以来、観音信仰の盛行により、地蔵院には鎌倉時代作の如意輪観音が祀られ、 洛陽観音第10番札所として洛中洛外の尊拝を博した。  明治中期の境内整理の際、奥の院にあった善光寺如来堂を合祀して、 地蔵院善光寺堂となった。  現在のお堂は昭和五十九年(1984)に改築されたもので、 中央に如意輪観音坐像、右側に善光寺阿弥陀仏三尊像、 左側に地蔵菩薩立像を安置している。 」

お堂の右側にある石仏は「首ふり地蔵」とあり、 願い事のある方向に首をまわして拝めば願いが叶えられるといわれ、 江戸時代以来、庶民の深い信仰が続いている、という。

三年坂 x 宝徳寺 x 地蔵院善光寺堂 x 首ふり地蔵
三年坂
宝徳寺
地蔵院善光寺堂
首ふり地蔵



◎ 清水寺

清水寺は、山号を「音羽山」と称し、南都六宗の一つの法相宗の一派で、 行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。  平安京誕生前からある、京都で一番古い寺の一つである。 
 

清水寺の誕生縁起
「 大和の国の僧・延鎮上人が夢に見た観音のお告げにより、 音羽の滝を探し当て、観音の化身である行叡に出会った。  行叡が去った後、残した霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。  これが宝亀九年(778)のことで、清水寺の始まりである。 その二年後、延鎮は猟をしていた坂上田村麻呂に出会うが、 その時、延鎮は彼に殺生を戒めた。  坂上田村麻呂は延鎮に帰依し、自邸を本堂として寄進した。  その後、坂上田村麻呂は蝦夷に遠征するが、清水の観音等の御加護により勝利し、 凱旋後の延暦十七年(798)、仏殿を建立、観音像の脇侍として、 地蔵菩薩と毘沙門天の像を造って寄進した。  」 

清水寺には仁王門があり、仁王門の脇の石段を上ると、 右手の石段の先に西門がある。
石段を上っても、西門には柵があるため、西門には入ることはできない。 

「 清水寺は寛永六年(1629)に火災に遭っているが、 西門は、火災後の寛永八年(1631)に再建されたもので、 単層、切妻造り、桧皮葺きの三間一戸の八脚門で、持国天、増長天を安置している。 」

西門の左手の石段を上ると、慶長十二年(1607)建立の鐘楼がある。

「 切妻造本瓦葺、普通の鐘堂は四本柱が多いのだが、六本柱である。  日光東照宮と似た極彩色の彫刻があり、国の重要文化財に指定されている。 」

鐘楼の右側、西門の奥に三重塔がある。 

「 三重塔は、寛永六年(1629)の火災で焼失後、 同八年三月より工事が始められ、翌九年九月本堂に先立って再建されたもので、 高さが三十一メートル弱あり、 日本最大級の三重塔で、国の重要文化財に指定されている。
一重(一階?)の内部には大日如来像が祀られ、四周の壁には真言八祖の像を描き、天井や柱などには密教仏画などで極彩色に彩られている。 」

三重塔の左奥に、平成十二年(2000)に修理された朱色の鮮やかな経堂、そして、随求堂がある。 
その先にあるのが、「田村堂」とも呼ばれる、重要文化財の開山堂である。
これもまた、最近修理されたようで、鮮やかな朱色の建物だった。 

「 清水寺建立に関係の深い坂上田村麻呂が祭られていることから、 田村堂とも呼ばれるようであるが、正面三間、側面三間の正方形で、 桧皮葺、普段は蔀(しどみ)が下ろされているが、夜間拝観の時には開けられる、 という。 」

轟門(とどろきもん)から先は、拝観料が必要である。 

「 轟門は、清水寺本堂の中門で、 寛永八年〜十年(1631〜1633)に再建されたもので、 東大寺転害門を模している、という。  切妻造り、本瓦葺、三間一戸の八脚門で、 「月舟禅師」の筆による「普門閣」の額を掲げている。 
門の左右には、持国天像と広目天像を祀り、背面には木製の狛犬を安置されていて、神仏習合時代のなごりが感じられる。 」

拝観料を払い中に入ると本堂と「清水の舞台」がある。 

轟門(とどろきもん)から先は、拝観料が必要である。 

「  本堂は寛永十年(1633)の再建であるが、間口十一間(三十六メートル余)、 奥行九間(三十メートル)、棟高十八メートルと大きく、 起り桧皮葺きの寄棟造りの屋根や軒廻りの蔀戸吊りなどに、 優美な平安王朝の宮殿や貴族の寝殿造り邸宅の面影を残している。 」

清水寺西門 x 開山堂 x 轟門 x 本堂と舞台
清水寺西門
開山堂
轟門
清水寺本堂と舞台


前述の清水寺の歴史に、 「 坂上田村麻呂は延鎮に帰依し、 自邸を本堂として寄進した。 」 と、あったが、 今から千三百年前、京から逢坂山を越えて、東国に至り、、 白河の関の先は平安人にとっては、蛮人が住む蝦夷の地、 そこに出陣した坂上田村麻呂には不安があっただろう。  それを支えたのは、観音の力を信じることだったのだろう。 

「 本堂内は巨大な丸柱の列によって、外陣と内陣、内々陣に分かれている。  内々陣の須弥壇の上の三基の厨子には、本尊の千手観音、脇侍の地蔵菩薩、 毘沙門天が祀られている。 」

格子越しに諸仏に合掌し、清水の舞台に立つ。 
かなり広い空間である。 

「 本堂は、錦雲渓の急崖に、 約百九十平方メートルの総桧板張りの舞台を懸造りにして張り出させて、 最高十二メートル強の欅の柱を立て並べて支えている。 
清水の舞台から飛ぶというのことわざがあるが、 舞台は舞楽などを奉納する正真正銘の舞台で、両袖の翼廊は楽舎である。 」

本堂と舞台は、国宝に指定されているが、ここからの京都を見下ろす眺望は、 いつ見ても絶景である。
友人も同じ思いだったのではないだろうか? 

◎ 地主神社と音羽の瀧

本堂で御参りを済ませて先に進むと、左手の石段の上にあるのは地主神社である。

「 清水八坂一帯の産土神で、元は地主権現と呼ばれ、 明治維新後に現在の名になった。 創建の時期ははっきりしないが、 奈良時代にはすでにあったようで、 平安遷都後は朝廷の崇敬を得て、弘仁二年(811)には嵯峨天皇が行幸、 天禄元年(970)には円融天皇が、永保二年(1082)白河天皇が行幸している。 
現在の建物は、寛永年間(1624〜1644)、徳川家光による再建で、 桃山時代の様式による華麗な建物である。 
本殿、拝殿、総門は国の重文指定である。 」

拝殿の中をのぞくと、天井に黒い墨で描かれた大きな龍が見えた。
傍らの柱に、「重要文化財、龍の画、狩野元信の筆」 とあり、 「 夜ごと天井をぬめ出して、音羽滝の水を飲みにいった。 」、という言い伝えが有名である。 」 と、書かれていた 

清水寺本堂内 x 清水舞台 x 地主神社 x 地主神社拝殿
清水寺本堂内
清水舞台
地主神社
拝殿天井の龍


境内には、「黄桜」の看板があり、まだ若そうな桜が植えられていた。 
円山公園のしだれ桜等の桜守として知られる、 佐野藤右衛門によって献木されたものである。

謡曲史跡保存会が建てた説明板「謡曲の中の地主の桜」
「 謡曲田村、熊野(ゆや)ほか、 多くの曲に地主権現の桜が謡われているのは地主神社の地主の桜のことで、 古くから清水寺の桜とともにその美しさを賛美しています。  田村では、東国の僧が清水寺を詣で地主の桜を賞でると、 地主権現の花守は僧賢心が坂上田村麿を檀那として清水寺を建てた由緒を語り、 田村堂の中に消えます。  僧の読経に田村麿が現れ、東夷の平定を成就し得たのは、 観音の仏力のおかげと称えます。  熊野では、平宗盛の愛妾熊野(ゆや)が、 清水寺の音羽の山桜や地主の桜の花見の供をし、 故郷の母の病気を案ずる歌を詠み、心打たれた宗盛が、熊野の帰郷を許します。 」 

その右側の「地主桜名桜」の看板

「 八重と一重が同時に咲く珍種で、 日本でも地主神社にこの一本が現存するのみ。  弘仁二年(811) 嵯峨天皇の行幸のみぎり、 あまりの美しさに三度御車を返された故事により、別名、御車返しの桜ともいう。  (以下略) 」  

地主神社は、数年前、TVで縁結びの神と紹介されたところ、大ブレークして、 全国区になった。 
当日も修学旅行の高校と中学校の生徒がおみくじを引いたり、 お守りを購入して、自分の将来を占っていたが、 将来の夢があって若いのはいいなあ!!、と羨ましく思った。 

神社の石段の下には、田村麿を祀る将軍塚への道標があるが、 清水滝の方へ向うと、 西向き地蔵堂、釈迦堂、その奥まった山際には百体地蔵堂があった。
その手前の右側には、国の重文指定の阿弥陀堂があり、その奥に濡手観音がある。
右側にある奥の院から見た本堂の舞台の左手は葉が紅葉して美しかった。 
石段を降りて行くと、音羽滝の水が柄杓で受けられるところに出た。
「 この滝の水を飲むと長寿 間違いない。 」 とあった。
しかし、長い列が出来ていたので、老人の短気もあって、並ぶのは諦めて、 更に下に下っていった。 
すると、右手に清水の舞台を支える木柱群が見えた。 
木柱の下には、道との間に囲いがあったが、その下をよく見ると、 小さな双対道祖神と思えるものや単体の石仏像の石碑があった。 
これらはもとからあったようには思えないので、 整備の際に他所から持ってきたものと思ったのだが、間違いだろうか? 
柱群を構成する部材は二十年毎に順番に替えられるという。
見上げると壮観で、上で歩いていたときは感じなかったが、 下から見ると建物を支える柱が神戸大地震などに耐え、 今日まで残っていたのは奇跡に思えた。 

黄桜 x 百体地蔵堂 x 音羽滝 x 舞台を支える柱群
黄 桜
百体地蔵堂
音羽の滝
舞台を支える柱群



◎ ちゃわん坂・日限地蔵堂・五条坂

そのまま、坂を下って行くと、東山五条に出るが、 この坂は、「ちゃわん坂」と名付けられている。 
このあたりには昭和四十年後半までは多くの清水焼の窯元があった。 
その後、公害問題などもあり、 広い土地を求めて、宇治市の郊外に移転したので、窯元はなくなった。 

「 清水焼の歴史 」
「 清水一帯に開窯を見るに至ったのは八世紀、僧の行基によって、清閑寺村茶碗坂で製陶されたのが初めてといわれ、 また、十六世紀末から十七世紀の頃、茶碗屋久兵衛が五条坂一円で、金、赤、青の彩色した陶器を作り、 これに清水焼という名を付けたのが、清水焼の始まりと、伝えられている。 」

その先で五条坂に合流するが、その角には道標「ちゃわん坂」が建っている。

「  ちゃわん坂は今や観光客が少ない閑散とした通りであるが、 京焼、清水焼の長い歴史と風土の中で、数多くの名工を輩出してきた処で、 人間国宝近藤悠三記念館や六代目清水六兵衛の家などがある。 」

道標の左にあるのが「日限地蔵堂」である。 
日限地蔵尊は、地蔵堂の大きな地蔵尊像に、「 一日に限り、 願い事をすれ必ず叶えられる。 」、とする信仰から呼ばれるようになったものである。 

「 正式には安祥院という寺で、 もとは京の南の久世大藪町にあったが、 享保十年(1725)に木食正禅養阿上人により、現在地へ移転し、再興された。 
木食上人は、蹴上から山科へ越える東海道の日ノ岡峠や 五条通南の馬町から山科へ越える渋谷越の道路改修や架橋工事などの社会奉仕活動を行った僧である。 
本尊の阿弥陀如来像は木食上人の自作である。  また、この寺は上人が創始した六阿弥陀めぐりの第四番札所である。 」

境内は狭く、本堂、地蔵堂、庫裏のみである。 
境内には、日ノ岡峠道の普請に使った車石や 西京極の旧天神川に架けた佃橋の橋桁石などが置かれている。 

五条坂を下って行くと、六兵衛窯があった。
そのまま下ると、東山五条の交差点に出た。 東山五条にはタクシーが沢山客待ちをしていた。 
友人はそれを見て、タクシーで京都駅へ向かいたい、といった。 
時計を見ると、十一時三十分過ぎである。 
昼飯でもと思ったが、少し早い。  御土産も買いたいだろうし、途中寄るところもあるかも知れない。 
了承してここで彼と別れた。 
小生は、この後、京都国立博物館まで歩き、中に入ろうとすると、 展示館建替え工事で全館休館。 
建替え工事が終わるまでは、特別展を除き、開館しないとあった。
博物館には、奈良や京都の仏像や狛犬など、寺で保管していると 、管理が大変なことから、委託しているものがあり、 久し振りに見ようと思ったのだが、当てがはずれた。 

五条坂の道標 x 安祥院 x 六兵衛窯 x 京都国立博物館
五条坂の道標
日限地蔵堂(安祥院)
六兵衛窯
京都国立博物館



◎ 豊国神社・方広寺

公衆トイレの前に、「豊国神社是より一丁」 という石柱が建っているが、 その脇の案内板には 「豊国神社260m、方広寺310m」 とあり、 石柱より多い表示になっていた。 
これまで豊国神社(とよくにじんじゃ)には行っていないので、訪問することにした。
すると、運が悪いことに雨がぱらつき始めた。

「 豊国神社は、関白太政大臣になった豊臣秀吉を祀る神社である。  秀吉は、慶長三年(1598)に亡くなったが、その翌年の慶長四年に、 その遺体は遺命により東山の阿弥陀ヶ峯中腹に葬られ、 その麓(現在の豊国廟太閤垣)には、広壮豪華な廟社が造営された。 
後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神の神号が贈られ、 慶長九年の七回忌には臨時祭礼が盛大に行われた。 
豊臣氏の滅亡後、徳川幕府により廃祀されたが、 明治政府は、秀吉は天下を統一しながら、 幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、 明治六年(1873)、別格官幣社に列格し、明治十三年(1880)、 旧方広寺大仏殿の跡地に社殿が再建された。 」

正面の唐門は、伏見城の遺構と伝えられるもので、 西本願寺、大徳寺の唐門とともに、国宝三唐門の一つとされる。 
二条城から南禅寺金地院を経て、移築されたものである。

「  豊国神社は唐門から先には入れないが、その奥に拝殿、そして、本殿がある。 
唐門の前の両脇の石燈籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである。 
なお、明治三十一年(1898)には、荒廃していた秀吉の廟墓が阿弥陀ヶ峯の頂上に再建されたが、京都女子大の奥にある豊国廟がそれである。 」

雨は相変わらずかなりの勢いで降っている。 

次に神社の北側にある方広寺を訪れた。
方広寺は天台宗山門派の寺で、大日如来と秀吉の護持仏の大黒天を祀っている。

「 豊臣秀吉は、天正十四年(1586)、 奈良の大仏に匹敵する大仏殿を京都東山山麓に建立することを計画し、 文禄四年(1595)に大仏殿を完成させた。  その際、大仏殿を守るために建立したのが方広寺である。 
大仏は高さ六丈三尺(約19メートル)の木製金漆塗坐像で、 釘などには刀狩で没収した武器を鋳つぶしたものも使われた、という。  しかし、この大仏は慶長元年(1596)の地震により倒壊。  豊臣秀頼が慶長十七年(1612)に再建した二代目の大仏は銅製だったが、 寛文二年(1662)の地震で再び小破し、寛文七年(1667)に造り直された。  しかし、寛政十年(1798)七月、大仏殿に落雷して、 本堂、楼門を焼失、木像の大仏も灰燼に帰して、大仏、大仏殿は現存していない。 」

豊国神社 xxxx 豊国神社唐門 xxxx 方広寺
豊国神社
豊国神社唐門
方広寺



◎ 方広寺鐘楼・智積院・新日吉神宮

方広寺本堂の前に鐘楼がある。
鐘楼の天井には、色鮮やかな絵が描かれていた。 
この鐘楼には、秀頼が再建のとき、梵鐘に刻まれた「 国家安康 君臣豊楽 」 の文字が、徳川家に災いを成すものと言い掛かりをつけられ、 供養を延期することになった鐘が吊り下げられている。
この「国家安康」の鐘は重要文化財に指定されていて、東大寺、知恩院とともに、日本三大名鐘の一つのようである。

「 国家安康の鐘と呼ばれるこの梵鐘は、 慶長十九年(1614)に京都三条釜座の名古屋三昌により鋳造されたもので、 高さは四メートル二十センチ、重さは八十二トン余である。 」

鐘楼の中を覗き込むと、 鐘の撞座の左上に白く囲まれている部分が二ヶ所あるのに気付いた。 
前述の銘はどこにあるのかを探す人が多いので、 予め分かりやすいようにしてくれているのだろう。
確かに、「国家安康」と「君臣豊楽」の文字がある。 
寛永寺を開山した南光坊天海から指摘を受けた家康は、 国家安康は 家康の名を二分して、国安らかにさせ、 君臣豊楽は、豊臣を君主とするの意味で、誠にけしからんと言いがかりをつけ、 豊臣氏滅亡のきっかけをつくったといわれる。  」

京都国立博物館へ向かって戻って行くと、 博物館のあたりの大きな石で組まれた石垣は、大仏殿の遺跡である。 
博物館から東に歩くと、東山七条で、智積院(ちしゃくいん)の山門に出た。 

「 智積院は、紀州の根来山の大伝法院の塔頭だった寺の名前である。
大伝法院は、真言宗の僧・覚鑁(かくばん)上人が、 大治五年(1130)に高野山に創建した寺院だったが、 覚鑁は宗教上の教義の対立から高野山を去り、根来山に大伝法院を移して、 新義真言宗を打ち立てた。 
智積院は、大伝法院の塔頭として、南北時代に真憲坊長盛という僧により、 建立された坊で、根来山内の学問所だった。 
根来寺は、僧兵を多く持つようになり、信長や秀吉と対立したため、 秀吉の天正十三年(1583)の根来攻めで、大伝法院は全山炎上したが、 智積院の住職だった玄宥は、弟子たちを連れ、高野山に逃れていた。  
玄宥は、徳川家康より、豊国神社の付属寺院の土地を与えられたため、 智積院の再興を果たすことができた。 
更に、三代目住職・日誉の時代に、豊臣氏が滅び、 隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺、祥雲寺の土地を家康より与えられ、 寺号を根来寺、山号を五百佛山とした。 
消滅させられた祥雲寺は、 秀吉が三歳で亡くなった愛児・鶴松の菩提を弔うため建立した寺で、 境内は広く、京都女子大の敷地も寺の敷地だった。 」

方広寺の鐘楼 xxxx 問題視された部分 xxxx 智積院山門
方広寺の鐘楼
問題視された部分
智積院山門


山門をくぐると智積院金堂がある。

「  現在、智積院が所蔵する国宝の長谷川等伯一派の障壁画などは、 旧祥雲寺の客殿を飾っていたものである。 
大仏殿の鐘、祥雲寺の抹殺、そして、秀吉の敵だった根来寺の復活をみると、 家康は、秀吉、秀頼憎しというか、豊臣氏の存在に恐怖を感じでいたように思われてならない。 」

智積院の右側にある道には、「新日吉神宮」の石柱が建っていた。
新日吉神宮に向かって、坂道を上って行くが、 その先に京都女子大や高校などがあるので、女の子が多く行き来していた。 
新日吉神宮の朱塗りの楼門は少し古くなった武者像が守護していた。

「  新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、 酒造、医薬、縁結びの神として崇められてきたという。 
永暦元年(1160)、後白河上皇が、法住寺殿の鎮守として、 皇居守護の山王七社の神々を坂本の日吉大社から勧請して祀ったのが始まりで、 朝廷の崇敬も厚く、小五月会の祭祀も盛大に行われた。  江戸の初め、妙法院宮堯然法親王が移転造営し、 更に、明治三十年、豊国廟復興の際に現在地に転座した。 」

新日吉神宮へ上ってくる途中で、豊国廟参道の道標を見た。 
豊国廟には興味があるが、家康の亡霊がそうさせたのか分からないが、 雨が激しくなってきたので、諦めて京都駅に向い、今日(京)の旅は終わりとなった。

智積院金堂 xxxx 新日吉神宮石柱 xxxx 智積院山門
智積院金堂
新日吉神宮石柱
新日吉神宮楼門


平成20年(2008)12月


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