旅行社から、京都の春を歩くという企画の案内があった。 北野で梅と早咲きの桜が見られるという触れ込みだが、 うまくいくものかという懸念はあったが、 歩くだけでも健康に役立つと出かけることにした。
平成十八年(2006)三月三十一日、名古屋駅前発七時二十分なので、
何時もより早く起きて出かけた。
バスに乗って見ると、定員の半分というところである。
時期が中途半端なので、参加を見合わせた人が多かったようだ。
◎ 御所と護王神社
御所前でバスを下ろされ、梅林に案内された。
しばらくの間、咲いていた紅梅と白梅を撮影。
次いて、隣に桃があるというので、そこに移動。
添乗員から今日のコースの説明があり、御所から今出川通りを歩き、
北野天満宮へ、その後、北野神社から立命館大学前に出て、
衣笠山に登り、金閣寺駐車場がゴールだが、時間までに駐車場に来てくれるなら、自由に行動してよいといわれ、地図が渡された。
この北側にしだれ桜があるといって案内されたが、
この桜はじっくり撮影したいと思ったので、添乗員一行とはここで別れた。
ここには数本の桜があったが、
その中心をなすのは「近衛家屋敷跡」に咲くしだれ桜である。
説明板「近衛家屋敷跡」
「 近衛家は、平安時代から摂政や関白を務めた貴族で、
かってはこの池の西側に大きな屋敷があり、御所炎上の際には、
仮の皇居にもなった、という。 」
池のほとりには、昔から有名な糸桜(しだれ桜の別名)があり、
孝明天皇は、安政二年(1855)、御幸の折、
「 昔より 名にはきけども 今日みれば おへめかれせぬ 糸さくらかな 」
と詠んでいる。
蛤御門を出ると、道の反対の左手に護王神社がある。
「
護王神社は桓武天皇に遷都を進言し、平安京の建設を進めた
和気清麻呂とその姉広虫を祭神とする神社である。
かっては神護寺の境内にあったが、明治十九年(1886)に現在地に移された。 拝殿の前の狛犬の代わりに猪像が祀られているが、これは清麻呂を猪が守護したという故事による。 」
今出川烏丸交差点の右側にあるのは、 同志社大学と同女子大などである。
「 明治八年(1875)、米国帰りの新島襄が山元覚馬とともに、 キリスト教の精神教育を実践するため、宣教師J・D・ディヴィスの支援を受けて開校した。 」
境内には、京都最古のレンガ建築といわれる彰栄館や礼拝堂などが 建ち並んでいる。
その北側には、相国寺がある。
「 足利義満が夢窓疎石を開祖とし、十年かけて明徳三年(1392)に竣工した寺で、法堂は大火 で焼けたが、豊臣秀頼が再建した。 桃山時代の禅宗仏堂の代表作といわれ、天井の狩野光信筆の蟠龍図で有名である。 」
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護王神社 |
◎ 宝鏡寺・妙蓮寺・本隆寺・首途八幡宮
烏丸寺之内交差点を左に入り、西に向かって歩くと、途中で道が狭くなり、
いくつかのお寺があり、「表千家不審庵」の看板があった。
その先の右側に、「寶鏡寺門跡」の石柱が建つ寺院があり、紙の看板に
「人形の寺 旧百々御所」とある。
「 宝鏡寺は、景愛寺第六世の光厳天皇皇女華林宮惠厳禅尼が開いた臨済宗の尼門跡寺院で、多くの皇女が門跡を務めたことから 百々御所(どどのごしょ)という御所号が付けられた。 本尊は、伊勢の二見浦で漁網にかかったと伝えられ聖観世音菩薩である。 」
その先は堀川寺之内交差点で、広い堀川通りを横断する。
小生が学生時代には、堀川電車が走っていたところである。
その先には、日蓮宗本門法華宗大本山の妙蓮寺がある。
「 永仁二年(1294)日蓮上人の弟子、日像上人が建立したのが始まりで、山門奥の鐘楼は元和三年(1617)の建立である。 」
その先の交差点を左折して、南下すると法華宗真門流総本山本隆寺があった。
説明板「本隆寺」
「 長亨二年(1488)に京四条大宮西に建立された寺院であるが、
天文の法乱により延暦寺の衆徒により焼き討ちに遭い、堂宇を失い、以後六年間、
京都においては日蓮宗は禁教となった。
天文十一年(1542)に京都帰還を許す再勅許が下り、本隆寺は現在地にて再建したが、
承応三年(1654)の大火焼失。
明暦三年(1657)に本堂や祖師堂などを再建した。
再建後、今日まで京都を焼けつくす大火が数回あったが、当寺は焼けなかった。
それは当山の鬼子母神のおかげで、火伏せの神として信仰を集める。 」
その先に宇佐八幡宮を勧請したのが始まりと伝えられる「首途八幡宮」という 神社があった。
「 もとの名を内野八幡宮という、誉田別尊(応神天皇)、比賣大神、息長帯姫命(神功皇后)をまつる神社である。
首途八幡宮の名の由来であるが、昔、この地に金売吉次の屋敷があったと伝えられ、
源義経が奥州平泉に赴くに際し、道中の安全を祈願して建立したことから、
首途(出発)神社と呼ばれるようになった。 」
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本隆寺 |
◎ 千本釈迦堂・北野天満宮・平野神社
神社の前をそのまま進むと、今出川通りにでたので、ここを右折して、
千本通りに向かう。
千本通りを越えると上七軒町である。
「 上七軒町は、今は色街という雰囲気はないが、
小生が学生時代は、祇園の歌舞練場の都踊り、乙部の宮川町踊りと共に、
北野踊は京都の三大踊りといわれて、有名だった。
七軒町は、室町時代初期に北野天満宮が焼失し、
再建時の残り木で七軒の茶屋を建てたのが始まりといわれる。
」
ここは西陣の繊維産業と共に成長してきたともいえ、
昭和五十年頃、バブルが弾けるまでは、大変賑わった色街だった。
しかし、スポンサーの西陣の旦那衆が元気を無くしてしまい、
かっての面影はなくしてしまっていた。
学生時代過ごした小生は、そうした姿を見るのは寂しい。
七軒町の町屋を見ながら、北に向かうと
「千本釈迦堂」という大きな石柱がある寺があった。
「 千本釈迦堂とある寺は、正式には大報恩寺、
鎌倉時代初期の安貞元年(1227)、藤原秀衡の孫の義空により創建された寺で、
本尊は、釈迦如来坐像である。 この寺は、別名、おかめ寺と呼ばれる。
本堂は、摂津の材木商の寄進をうけ完成したが、
本堂の建立の際、大工の棟梁が柱を短くしてしまったが、妻のおかめの助言で、
無事切り抜けたが、その秘密を守るため、おかめは自害した、
という話が今でも伝えられている。
本堂は、応仁文明の乱にも焼けることはなく創建当時のものであり、
洛中最古の建造物で、国宝に指定されている。
」
境内には、おかめ桜というしだれ桜が満開だった。
千本釈迦堂には、北野天満宮の門前にあった北野経王堂の遺物も保管されている。
「 北野経王堂は、足利義満が、 山名氏清による明徳の乱の戦没者供養のため、 北野天満宮に応永八年(1401)に建立したものであるが、明治の神仏分離令により、 ここに移されたものである。 」
そのまま、西に進むと、北野天満宮である。
この神社の名物は、菅原道真が愛した梅であるが、訪れた時には、
紅梅の下に白い牛の像が見えた。
「 学問の神様として有名な神社で、菅原道真の死後、 京都に天変地異が続いたため、これを道真の祟りとして祀ったのが始めと、 伝えられているが、第二次大戦中は、天皇家に関係ないと、 北野神社と改名させられたが、戦後に北野天満宮に戻った。 」
北野天満宮には、国宝や重要文化財指定の建造物が多い。
鳥居をくぐって入る楼門には、文道の大祖風月の「本主」の額が掲げられている。
楼門の西側には、算額等の絵馬が多数奉納されている絵馬所がある。
その前を進むと、重文の三光門(中門)があり、
後西天皇御宸筆の「天満宮」の勅額を掲げられている。
豊富な彫刻の中に、日月星があることから、「三光門」の名がある。
その先に、祭神の菅原道真を祀る社殿(本殿)がある。
「
社殿(本殿)は、慶長十二年に豊臣秀頼により、造営されたもので、
拝殿と本殿の間に「石の間」がある、
いわゆる、「権現造り」と呼ばれる形態である。
桃山建築を代表する建造物として、国宝に指定されている。
なお、石の間は一段下がり、拝殿と本殿の二つの建物をつないでいる。 」
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紅梅と白い牛の像 |
三光門を出て、北側に回ると、柵の向こうの廻廊の先には、
東照宮と同じような極彩色の彫刻が施された本殿の一部が見えた。
廻廊の朱色の壁と丸い提灯の取り合わせが良く、美しい。
道の反対側にあるのは「地主社」で、小さな朱色の社殿であるが、
北野の地が生まれた頃からのこの地区の神様で、
境内でもっとも古い社である、という。
その右側に、多治比文子を祀る「文子天満宮」の小さな社殿がある。
「 文子は、菅原道真の乳母をつとめた女性だが、 道真の死後の天慶五年(942)、菅原道真が夢枕にたち、 「 北野の右近馬場(現在地)に社殿を造り、自分を祀れ 」 という 神託が降りた。 その他の人にも同じことが起きたので、これがきっかけになって、 天歴元年(947)に建立されたのが北野天満宮である。 」
その南にあるのが東門で、切妻造、銅葺の四脚門で、これは国の重要文化財である。
この後、北門に行くと、門前に「西陣名技」の碑が建っていた。
ここを左折して平野神社へ行くと、正面の最近修復した大鳥居には、
「平野皇大神」の社号額がかかっていた。
「 平野神社は、平安京遷都に伴い、延暦十三年(794)、
平城京より今木大神(いまきおおかみ)、久度大神(くどおおかみ)、古開大神(ふるあきおおかみ)を勧請、遷座し、創建された神社である。
本殿は、東向きに建ち、南北に一間社春日造の社殿を四殿並べ、二殿づつが合い間
で連結される独特の様式で、
平野造あるいは比翼春日造と呼ばれる方法で建てられていて、国指定重要文化財である。 南殿の建立は寛永二年(1625)、
北殿は同九年(1632)で、北より今木大神より順に祀られている。 」
拝殿は、慶安三年(1650)、東福門院(後水尾天皇中宮・二代将軍徳川秀忠の娘)の建立である。 」
「 内部の三十六歌仙は、寛文期に近衛基煕書、海北友雪画のものである。
延喜式神名帳には、山城国葛野郡 平野祭神四社 と記載され、名神大社に列している。 また、祭神について、平野大神、皇大御神という称号も使用されていた。
皇室の崇拝は高く、、円融天皇から後醍醐天皇まで、十七人の天皇が行幸し、
例大祭には皇太子が奉幣する定めになっていた。
神紋は桜であるが、平安時代の中頃、花山天皇により境内に数千本の桜が植えられたのが始まりである。 その後、寛和元年(985)四月十日に臨時勅祭が開かれたが、
これが平野桜祭りとして今に残っている。 」
江戸時代には、夜桜見物の名所になっていたようで、 今も桜の名所として有名である。
小生が訪れた時には、三月半ば頃には開花し、彼岸頃には満開になるという
魁(さきがけ)桜が満開だった。
境内には、約五十品種のサクラの木が植えられていて、三月中旬から四月下旬まで順々に観賞することができる。
しばらく、桜を撮影した後、衣笠山へ向って歩く。
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平野神社本殿 |
◎ 堂本印象美術館・わら天神・金閣寺
平野神社から西に向かって進むと、立命館大学の校舎に突き当たる。
ここを右折し、北に向かうと立命館大バス停があり、添乗員が待っていた。
衣笠山へ上るルートの地図を渡すためである。
衣笠山の標高は二百一メートルで、第五十九代宇多天皇が、真夏に雪景色が見たい
と衣笠山に白絹をかけさせた故事から、別名、きぬかけ山と呼ばれている。
上っても展望はどうか?と添乗員は言ったので、上るのはやめた。
代わりに、近くにある斬新なレリーフが目をひく外壁の建物の京都府立堂本印象美術館に入った。
「 堂本印象は、明治から昭和にかけて活躍した、
京都出身の日本画の巨匠である。
戦後、抽象表現や障壁画の世界にも活躍の場を広げ、仁和寺や東寺、西芳寺などの襖絵や大阪四天王寺の天井絵は有名である。
また、国際展覧会に多くの作品を出展するなど国際的にも活躍した。
館内には、ステンドガラスや彫刻、陶器などが展示されていて、
日本画の画家とは思えない作品に触れることができた。 」
この後、道を東にとり、わら天神社へ行った。
「 わら天神は、正式名称は敷地神社で、
安産の神様で知られる木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
が祀られている。
創祀時期は不詳であるが、天長五年(828)に、淳和天皇がわら天神に勅旨を遣わし、
止雨を祈願したと伝えられている。
わら天神は、北山天神の丘にあったが、足利義満の金閣寺造営時に現在の地に移された。
安産祈願のお守りのわら護符に節があれば男の子、なければ女の子を授かるという
伝承からわら天神と呼ばれる。
拝殿は神楽殿で、秋の大祭には狂言が奉納される。 また、社殿隣の六勝稲荷神社は必勝祈願の神様で、
入学、入社試験シーズンには参拝客で賑わう、という。 」
そこから十分程歩くと、金閣寺(鹿苑寺)へ到着した。
出発には三十分余あったので、なかに入った。
金閣寺の池の周りは外国からきた観光客で一杯だった。
外人の目には、これだけ金ぴかの建物は珍しく、
まさに黄金のジャパングを感じることができる建物で、「 ワンダフル!! 」
といいながら、見ていた。
「 応永四年(1397)に足利三代将軍義満が、隠居所として北山殿を 造営したが、彼の死後、禅刹に改められて、鹿苑寺と命名された。 上部二層に金箔が施された三層の舎利殿が、室町時代から金閣と呼ばれていたことから、通称金閣寺として親しまれているが、 昭和二十五年(1950)、学僧による放火で、上の鳳凰を除き、全焼。 現在の建物は昭和三十年に再建されたもので、 昭和六十二年(1987)に金箔張替工事を実施された。 」
山側にある銀河泉は、義満が茶の湯に使ったと伝えられる。
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金閣寺 |
観鏡湖を回りながら、今日の京都日帰りフリーハイクは、いろいろな所を回れてよかったと思った。
目のゲストです!!