京 都 散 策
(京都名所めぐり)

「 紫陽花の藤森神社と坂本龍馬の伏見桃山(続き) 」




平成二十年(2008)九月二十日、再び、伏見を訪れた。 

◎ 龍馬の定宿・寺田屋

最初に訪れたのは、「旅籠」の看板がかかる寺田屋である。
寺田屋は伏見宿の多くあった船宿の一つであったが、薩摩藩士の定宿だった。 

「 江戸幕府は、西国大名が天皇や公家との接触を恐れて、 西国大名が参勤交代の際、京都に宿泊することを禁じたため、 東海道の大津宿から京に入らず、伏見に抜けて、淀川で大阪へ出ていっていた。 
幕末になると、伏見の薩摩藩、長州藩の屋敷が公家との接触地となり、 新撰組との間で、事件が起きてくる。 
薩摩藩の藩邸は、江戸の他に、京都、大坂、長崎、伏見の五カ所にあったが、 伏見藩邸の目的は、主に藩主の参勤交代のときの宿舎である。 」

寺田屋では、薩摩藩に係る二つの事件が起きている。 
最初の事件は文久二年(1862)四月二十三日に起きた。 

「  薩摩藩の急進派である有馬新七以下三十五名が寺田屋一階に、 関白九条尚忠と京都所司代の殺害を計画して集結した。  そのことを知った薩摩藩は、藩士を鎮圧に向かわせたが、両者乱闘となり、 有馬以下九名が死亡した、という事件である。 」

二つ目の事件は、 薩摩藩と長州藩の和解が成立した翌日の慶応二年(1866)一月二十一日に起きた。 

「 坂本龍馬が、寺田屋を定宿とするようになったのは、 慶応元(1865)年夏頃、薩摩藩からの紹介がきっかけである。 
坂本龍馬は、当時、薩摩藩と長州藩の和解を目指して奮闘していたが、 後に妻となるお龍を寺田屋の女将のお登勢に預けている。 
慶応二年(1866)一月二十一日、龍馬は、長州藩の三吉慎蔵と一緒に、 二階の一室にいた。
龍馬がいることを知った伏見奉行所は、見廻組にも応援を頼み、 配下の捕り方を動員し、大勢で寺田屋を取り囲んだ。 
風呂でその様子を見たお龍は裸のまま二階に駆け上がり、龍馬らに知らせた後、 着物をまとって薩摩藩邸に向かった。 」

襲われた部屋が今も残っている。

「 階段を上がってきた捕方達に、龍馬はピストルで、 三吉は槍で立ち向かった。 
捕方は階段が狭いのと北辰一刀流の龍馬の武芸を恐れて、 すぐには中には入らなかったが、多勢に無勢。 
闘っているうち、龍馬は傷を受けたが、なんとか裏階段を利用して逃れた。
傷を受けた龍馬は材木置場に隠れ、三吉は救助を求めて薩摩藩邸に入った。 
龍馬は駆けつけた薩摩藩士により薩摩藩邸に匿われ、難を逃れることができた。 
なお、龍馬が逃げ込んだ薩摩藩邸の跡地は松山酒造の工場になっている。 」


寺田屋      両者乱闘したと
伝えられる部屋      襲われた部屋
寺田屋
両者乱闘した部屋
襲われた部屋


寺田屋は、慶応四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦いの際、 罹災して焼失したといわれ、現在の建物はその後再建されたもの、といわれる。  それが事実なら、二階の柱にあった刀傷はなんなのだろうか? 

長州藩邸は、京阪電鉄中書島駅から竹田街道を北へ百五十メートル程のところにある、京都市伏見土木事務所が跡地である。  ここには道標と旧観月橋の橋柱が残されているが、 長州藩邸跡の表示はどこにもなかった。 

寺田屋の右側の狭い道を北に進むと、龍馬の名にあやかった龍馬通り商店街がある。 
その中に、「龍馬館」とある赤い看板の店には新撰組関連の商品が置かれている。
その他の店は龍馬や新撰組とは関係ないという感じで、ことさら、 立ち寄る程のものではなかった。 

京阪電車伏見桃山駅の右側にある魚三楼は、明和元年(1764)創業の老舗の料亭である。 
鳥羽伏見の戦いでは、この店の前の京町通りも戦場になった。  そのことを示す弾痕が今でも表格子に残っている。 

裏階段      京都市伏見土木事務所      龍馬館
裏階段
伏見土木事務所
龍馬館





平成二十年(2008)十二月八日、再び、伏見桃山を訪れ、鳥羽伏見の戦いの遺跡を尋ねた。 

◎ 桃山天満宮・御香宮神社

近鉄奈良線の桃山御陵前駅で下りて、 大手筋通りを東に上って行くと、御香宮前の交差点があり、左に入って行くと、銀杏の葉で地面が黄色になった桃山天満宮があった。
明治三十五年に建てられた石碑には、天保十二年に再建された経緯が書かれていた。

「 古くは、木幡山中腹の御香宮神社旧地の東方にあった竜幡山蔵光庵の鎮守社だった。 
秀吉の伏見城の築城により各大名の邸宅が造られるため、 蔵光庵は京嵐山の臨川寺の東に移転したが、天満宮は加賀前田家の希望により残り、 加賀前田家の邸内に祀られた。 
桃山城の廃城により城下町の伏見は衰退したが、天満宮も荒廃していった。 
天保十二年(1841)、現在の近鉄桃山御陵前駅前に社殿が再興された。 
ここは御香宮神社の境内で、天満宮がここに遷宮されたのは昭和四十四年である。 」 

天満宮の奥には、御香宮神社の社殿があった。

「 神社の誕生には諸説あるが、貞観四年(862)に、筑紫の香椎宮から、 祭神の神功皇后を伏見の御諸(みもろ)神社へ勧請されたことから、 御諸神社の御と香椎宮の香をとって、御香宮と呼ぶようになった、 というのが通説である。
御香宮神社が、安産の社として信仰されているのは、 神功皇后が新羅から筑紫へ凱旋のとき、応神天皇を無事出産したことによる。  当時の社地は、ここより東の24号線を越えた高台にあったが、 豊臣秀吉が伏見城築城の際に、鬼門の守護神として大亀谷に移していたのを、 徳川家康が慶長八年(1603)に現在地に移転し、本殿が造営された。  表門は伏見城の大手門を移築したものとされる。 」

社殿の左側に、「御香水」の説明板があり、 ペットボトルを持った人が水汲みをしていた。

説明板「御香水」
「 貞観四年(862)九月九日、境内より水が湧き出し、良い香りが四方に漂い、 この水を飲むと病気がたちまち治った。  この奇瑞により、清和天皇から御香宮の名を賜ったという伝承があり、 これもまた、神社名の一説である。 
御香水は枯れてしまっていたが、昭和五十七年に復元し、 昭和六十年には環境庁の名水百選に選ばれた。 」

桃山天満宮      御香宮神社      御香水
桃山天満宮
御香宮神社
御香水




◎ 伏見戦跡・伏見奉行所跡

慶応四年(1868)一月に起きた鳥羽伏見の戦いでは、 ここ御香宮が官軍の薩摩藩の本営となったが、本殿等は無事だった。 
境内に、内閣総理大臣だった佐藤栄作氏の筆による  「明治維新 伏見戦跡」 の石碑が建っていて、傍らに説明板がある。

説明板
「 慶応三年(1867)十二月九日、王政復古の大号令が発せられるや、 京洛の内外は物情騒然として朝幕の間に一触即発の険悪な空気が漲った。  ところが、七日の明方 、 当社の表門に徳川氏陣営と書かれた大きな木札が掲げられた。  祠官三木善郎は早速社人を遣わして御所に注進すると、 翌日、薩摩藩の吉井孝助が来て、この札を外し、ここに部隊を置いた。  やがて、年が明けて、慶応四年(1868)正月二日、徳川慶喜は大軍を率いて、 大阪より上洛せんとし、その先鋒は、翌三日の午後、伏見の京橋に着いた。  そこで、これを阻止せんとする薩摩藩との間に小ぜり会いが起こった。  その折しも、鳥羽方面から砲声が聞こえてきたので、 これをきっかけに、当社の東側台地に砲兵陣地を布いていた 大山弥助(後の大山巌元帥)の指揮により、 御香宮と大手筋を挟んで目と鼻の先にある伏見奉行所(現在桃陵団地) の幕軍に対し砲撃を開始した。  これに対し、土方歳三の率いる新撰組は砲撃の火蓋を切って応戦し、 一方、久保田備中守の率いる伝習隊は官軍の前衛部隊を攻撃し奇効を奏し、 官軍を墨染まで撃退した。  然し、翌四日、軍事総裁に任じられた仁和寺宮(後の小松宮) 嘉彰親王は 錦の御旗を翻して陣頭に立たれたので、官軍の志気大いに振い、 そのため、幕軍は淀に敗退した。  一方、鳥羽方面の官軍も一時苦戦に陥っていたが、錦の御旗に志気を盛り返し、 幕軍を淀から更に橋本まで撃退し、遂に幕軍は大阪に敗走した。 かくして、 明治の大業はこの一戦に決せられたのである。 」

昭和初期の国道24号線の拡幅工事で、境内の東側は道路になった。 
大山弥助が指揮した砲兵隊はどのあたりから伏見奉行所に向けて、 玉を打ったのだろうか?  

続いて、伏見奉行所跡に向かった。 
近鉄桃山御陵前駅の近くまで戻り、左側の狭い道を入って行くと、桃陵団地がある。 
「伏見奉行所跡」の石碑があるはずなので、近くにいた人に聞いたが知らない、 というので、近鉄の線路に沿った道をそのまま進むと、 左側の団地に入る入口の一角に塀を造り、「伏見奉行所跡」 と書かれた石柱が建っていた。
先程の御香宮神社との距離は直線で結ぶと、 二百五十メートルというところだろうか? 
ここには石碑以外は伏見奉行所に関する説明板等はなかったので、 当時の大砲の性能はどうだったのか、どの程度の被害だったのか、など、 興味はあるのだが、解明はできなかった。 

伏見戦跡      伏見奉行所跡
伏見戦跡
伏見奉行所跡


幕末の動きを知ろうと数度にわたり訪れたが、これで終了である。



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