京 都 散 策
(京都名所めぐり)

「 大山崎町 探訪 」

( 離宮八幡宮、宝寺、大山崎山荘美術館 )





大山崎町は、豊臣秀吉が明智光秀を討ち破った天下分け目の山崎の天王山の戦いの舞台になったところである。 

平成二十年九月十九日、大山崎町を訪れるため、京都駅から快速電車に乗り 、山崎駅で降りたが、あいにくの雨で、かなり強い降りである。
大山崎町歴史資料館(200円、月休)があったので、雨宿りを兼ねて、 訪問した。 
資料館の説明員が、懇切丁寧に説明してくれた。 

「 大山崎の油座が照明に使うえごま油の独占販売権を獲得していたので、この地域は明治頃までは繁栄した。 また、ここは 山と川に挟まれた狭い土地柄なため、交通の要所になっていた。 そこでの戦いが天王山の戦いだったこと。 」 を知った。 


◎ 離宮八幡宮

外に出ると、雨は小降りになっていた。 
道を引き返し、駅前を越えて進むと、交差点の右側のへいに囲まれた門の両脇に、 「離宮八幡宮」と書かれた提灯がかかっていたので、中に入っていった。  常夜燈が沢山並んでいるのを見ながら進むと、鳥居の前に出た。 
鳥居奥の右側に、石柱で囲まれた 「河陽宮故趾」 の石碑が建っていた。

説明文
「 貞観二年(860)、奈良 大安寺の僧・行教が宇佐神宮に参詣した折、 「 われ都の近くに移座し国家を鎮護せん 」 と神託し、 当地にきたところ、霊光が見えたので掘ると岩間から湧き水が出たので、 ここに神を祀り、岩清水八幡宮としたという。 
ここは、嵯峨天皇の離宮である河陽宮の跡地だったため、後に岩清水八幡宮の社号を離宮八幡宮に改称された。 
祭神は応神天皇、姫三神、酒解大神である。 」

離宮八幡宮は司馬遼太郎の歴史小説「 国盗物語 」 に登場する。

「河陽宮故趾」碑の奥に、「本邦製油発祥地」の石碑があり、 「油祖神」の銅像が建っている。

説明文
「 平安時代末に、神人(じにん)が荏胡麻(えごま)油の量産技術を確立し、中世になると生産者たちは八幡宮を本所として油座を組織し、 全国の油専売権を握り、販売を独占し、大山崎に繁栄をもたらした。  」

山崎駅 x 離宮八幡宮の門 x 河陽宮故趾碑 x 油祖神の銅像
山崎駅
離宮八幡宮の門
河陽宮故趾碑
油祖神像


ここは山城国(京都府)と摂津国(大阪府)の国境で、 古代には山崎の関や西国街道の山崎の駅舎があった。
八幡宮より少し先の関大明神に行くと、その傍に 「 従是東山城国 」 の石碑が建っている


◎ 大念寺・宝積寺

山崎駅前に戻ると、妙喜庵がある。

「  室町末期、春嶽士芳が開山した臨済宗東福寺派の寺院で、 千利休の国宝茶室「侍庵」があるが、事前予約がないと入れない。 」

脇の道を線路に沿って進み、JR宝寺踏切を越えた交差点の先に、 「霊泉連歌講跡」の石碑があった。 

「  ここは山崎宗鑑が主催していた連歌講、観音堂霊泉庵の跡地といわれる。
山崎宗鑑は、俳諧の祖といわれ、犬筑波集の編者として名高い。 」

傍らに山崎宗鑑の句碑があった。 
 「 うつききて ねぶとに鳴くや 郭公(ほととぎす) 」 

三叉路の左の道を行くと、大念寺の本堂がある。

「 大念寺は、室町時代、知恩院第二十七世・徳誉光然総欣 (とくよこうねんそうごん) 禅師を開基に、地元の井尻但馬守長助が一人で建立した寺院で、永禄元年には正親町天皇により勅願寺になった。 
禁門の変で堂宇が焼失したが、 廃仏希釈で廃寺になった西観音寺(現在はサントリー山崎蒸留所になっている)の 閻魔堂を移築して、本堂が再興された。 」

寺の脇の急な坂を上っていくと、宝積寺の仁王門に出る。 

「 宝積寺は、聖武天皇の勅願により、 行基菩薩が建立したと伝えられる古刹で、山崎の戦いで、秀吉が戦勝を祈願。  戦いに勝利した秀吉は、天王山に山崎城を築いたたが、その名を財寺城(たからでらじょう)ともいった。 」

境内にある三重塔は通称、「一夜之塔」である。
豊臣秀吉が山崎の戦いの勝利記念に一晩で建立したといわれる。

参道を進むと本瓦葺の宝積寺の本堂があり、 本堂左横には宝寺の由来になった小槌宮がある。 

「  狛犬がいるので、神社なのだろうか? 
小槌宮には聖武天皇が竜神から授かった打出と小槌大黒天とが祀られ、 三福(財、知恵、健康)が授かるといわれることから、信仰を集めている。 」

受付で拝観料四百円を支払い、本堂に上ると、本尊の十一面観音菩薩立像が祀られていて、以下の説明があった。

「 大山崎は、木津川、宇治川、桂川が合流しているため、架けた橋が度々流された。 その昔、大洪水で、民衆が途方に暮れていたとき、どこからか一人の翁が現れて、 橋を架け終わると天王山に上り、本堂の厨子に入られた。  以来、当寺の本尊十一面観音菩薩が、翁に姿を変えられ橋を架けたと評判になり、橋架観音と呼ばれるようになった。 」 

霊泉連歌講跡碑と山崎宗鑑句碑 x 大念寺本堂 x 宝積寺三重塔 x 宝積寺本堂
霊泉連歌講跡碑
大念寺本堂
宝積寺三重塔
宝積寺本堂


本堂の右手にある閻魔堂に入ったが、誰もいない。
暗い堂内には、閻魔大王などの仏像が祀られている。 
いただいたパンフレットで仏像の名前を確認しながら家内とおしゃべりをしていると、たまたまきあわせた住職から、閻魔王とそれを囲む家来達の役目を説明を受けた。 

「  奥中央の閻魔王坐像は一メートル六十センチ、 その右側の司命坐像は一メートル二十四センチ、 司録坐像は一メートル四十三センチと、 人の高さほどある大きな仏像が並んでいる。  前方の右側で、右手に筆、左手に木簡を持っているのは、 暗黒童子坐像で一メートル十センチ、 その左の倶生神坐像は一メートル十四センチである。
ここにある閻魔王坐像などは勿論、宝積寺の三重の塔、仁王像、 十一面観音菩薩立像は国の重要文化財に指定されている。 」

宝積寺からの山道を上ると天王山の頂上に出る。 

「 天王山は、標高270.4m で、古代は山崎山と呼ばれたが、酒解神社に天神八王子を祀る ようになってから、「天王山」と呼ばれるようになったという。 」

途中に、十七士の墓と酒解神社がある。 
宝積寺の境内には「十七士埋骨地 是より七丁」と書かれた道標が建っている。

「 幕末の元治元年(1864)に起きた禁門の変(蛤御門の変)で、 幕府軍に負けた長州軍の首謀者の一人・久留米水天宮の神官・ 高木泉守保臣は、天王山に立て籠もった長州兵を全て帰した後、 脱藩組の十六名とともに、この地で自刃した。 
遺骸は三重塔の前に埋められたが、明治に入り、切腹地に墓が造られた。 」

天王山に上るつもりでやってきたが、歴史資料館の係員は雨が降ると、 山道がすべると言っていたことを思いだし、又の機会にしようとあきらめ、反対側の道を下りて行くと、大山崎美術館と宝積寺が分かれる三叉路に道標があった。

閻魔堂 x 閻魔像など x 十七士埋骨地道標 x 道標
閻魔堂
閻魔像など
十七士埋骨地道標
三叉路の道標



◎ 大山崎美術館

大山崎美術館へ向って坂道を少し上ると、手入れされた日本庭園が目に入った。

「 大山崎美術館は、 実業家・加賀正太郎の別荘として造られた大山崎山荘を前身とする。 
「アサヒビール大山崎山荘美術館」というのが正式名である。  
( 美術館入館料ー700円、10時〜17時但し入場は16時30分まで、月休(祭日の場合は翌日)、年末年始 )   」

すこし歩くと、イギリス様式で建てられた本館が現れた。

「 イギリス留学帰りの加賀氏は自ら設計したという。
本館は最初に造られた建物の入り口部分など、東側部分のみを残し、 それにイギリスのハーフティンバー工法で造った新たな建物につなげたものである。  また、山荘手前の流水門の手前に、 二階建てのハーフティンバー工法でつくった車庫を設け、 山荘の裏手には蘭栽培用の温室を設けた。 
工事は1928〜29年ごろに完了し、今日の山荘の姿ができあがった。
その後、山荘は加賀氏の手を離れ、平成に入ると荒廃が激しく、 その保存が望まれた。 
アサヒビールの当時の社長、樋口広太郎氏はその要請に応えて、 山荘の修復補修し、当時の姿に戻した。 
同時に、絵画を展示する新館、地下の宝石箱を併設し、 平成八年(1996)に美術館としてオープンした。」

歩いてきたアプローチの道路はこの時変更されたもので、 美術館へ入る途中でくぐるトンネル風の門も、その時つくられたものである。 
本館の左側に、岩を多く使った池泉式庭園がある。

「 本館には、アサヒビール初代社長の山本為三郎が収集した陶器を中心としたコレクションが展示されている。 
新館の建物は、現代建築の鬼才、安藤忠雄の設計によるもので、 印象派の巨匠クロード・モネの晩年の傑作「睡蓮」や会社所蔵の絵画などが 展示されている。 」

一服するため、バルコニーの喫茶で、しゃれた椅子に腰をかけた。

日本庭園 x 本館正面 x 池泉式庭園 x しゃれた椅子
日本庭園
本館正面
池泉式庭園
しゃれた椅子


椅子もテーブルもアールヌーボーのロマンを感じる代物で、 ケーキと紅茶を味わいながら、天王山の古戦場になったあたりの淀川の風景を眺めた。
展示作品が少ないのが玉に傷だが、 バルコニーでの休憩は価値あるものなので、また訪れようか、と思った。 

下の写真は大山崎山荘美術館内の風景である。

二階屋根 庭園


バルコニー ホール





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