平成二十一年六月十五日、ホテルにあった「京都いいとこマップ」
という小冊誌にあった初夏の花咲くさんぽ道を訪れる。
この小冊誌は、京都人がつくる無料観光情報誌と書かれていたが、
花の写真が気にいったので、いこうかなと思ったのである。
◎ 梅宮大社
宿泊した四条大宮から一日バス券で、梅宮大社前で降りた。
梅宮大社前交差点には、「日本一酒造の祖神・子授け安産の神梅宮大社表参道」の看板があるので、右側の細い道に入っていった。
この細い道は何故か車が多く、その先の交差点で、車は左折して進んでいった。
交差点を越えると鳥居があるが、右側の道脇には「橋本経亮宅址」の石柱が建っていた 。
「 橋本経亮は、梅宮大社の社家に生まれ、 神社の正禰宜や宮中の非蔵人をつとめた国学者である。 高橋図南のもとで有職故実を、上田秋成について和歌を学び、 梅窓自語などの著作を残しているが、彼の居宅がここにあったようである。 」
鳥居をくぐって、そのまま進むと、赤い鳥居があり、
右側に参拝者用の駐車場があり、その先には「中門」が見えた。
梅宮大社の鳥居には「梅宮」の額が掲げられているが、
この神社の歴史は古く、延喜式では名神大社に列 し、
仁明天皇の外戚の氏神として二十二社にも列 している。
傍らの説明板
「 奈良時代の政治家、橘諸兄の母、県犬養三千代により橘氏一門の氏神として、
山城国相楽郡に創建されたのに始まりといわれる。
平安時代の初め、嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子(壇林皇后)に依って、現在地に移された。 酒解神(大山祇神)、大若子神(にぎにぎのみこと)、 小若子神(彦火火出見尊)、酒解子神(木花咲耶姫命)の四神を祀る。
酒解子神は大若子神との一夜の契りで、小若子神が生まれたことから歓喜して、
狭名田の稲をとって、天甜酒を造り、飲んだという神話から、
古くから造酒の神として有名である。 」
それを証明するように、中門の上には酒造会社の酒樽が並んで置かれていた。
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梅宮大社中門 |
中門の両脇には神祇官だとおもうが、木彫りの像が祀られていた。
中門をくぐると、拝殿の先に本殿と幣殿が見えた。
現在、この神社には本殿、拝殿、幣殿、廻廊、中門などの
建物があるが、これらは全て元禄十三年(1700)に再建されたものである。
また、この神社には「またげ石」というのがある。
「 子宝に恵まれなかった壇林皇后は、 本殿の横に鎮座するまたげ石を跨いだところ、皇子を授かったことから、 この石を跨げば子宝が授かると伝えられ、その下の白砂が安産のお守りとされている。 」
京都いいとこマップの初夏の花咲く散歩道に選ばれた理由は、
バス停を下りて三分と近いことと季節によりいろいろな花が楽しめる梅宮神苑があるからである。
中門を入って右手にあるのが、花の名所として有名な梅宮神苑である。
但し、入苑するには、ワンコイン五百円がいる。
受付で入苑料を支払い、右手にある門を開けて、中に入ると、
咲耶池と勾玉池を中心とした池泉式庭園があった。
池の周りには九千株の花菖蒲があるのだが、花の季節は終りつつあった。
池の向こうに見えるのは、「芦のまろ屋」とも呼ばれる茶室、池中亭である。
池の傍らにあった石碑には、 「 夕されば 門田の稲葉 訪れて 芦のまろ屋に 秋風ぞ吹く 」 と書かれている。
説明板
「 百人一首にある大納言源経信の歌で、当時の梅津の里を詠んだものである。 また、碑の表の文字は、新古今和歌集の選者、藤原定家の直筆である。 」
梅宮神苑は、三月には梅と椿、四月は桜やつつじ、五月は杜若など、
そして、初夏には鮮やかな花が多彩に咲き誇る。
道を歩くと、高い樹木に巣を作っていた白鷺の幼鳥が巣から落ちて鳴いているのを見たので、近くにいた園芸家に言ったが、親は助けには来られず、
巣に戻す方法がないので、見殺しにせざるをえないということだった。
かわいそう!!
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歌碑 |
道に沿って植えられている紫陽花は百十種と他では見られない品種や色々な色があり、その奥の池には睡蓮が咲いている。
まさに町中の隠れた楽園だった。
京都いいとこマップには、 「 梅雨こそ美しい松尾 −
梅雨の6月、自然の美しさに親しむなら松尾エリアへ。
松尾大社のあじさい苑が見ごろを迎えています。
雨に打たれて咲く姿に、きっと心が奪われるでしょう。・・・・」
と、あったので、
梅宮大社の見学が終えると、四条通りに出て、松尾方面に向かった。
◎ 松尾大社
少し歩くと、桂川に出た。
京都いいとこマップには、 「 晴れた日には、桂川の川べりを散策してみては。
足を伸ばして、嵐山に立ち寄ってもいいですね。 」
とあるが、下の川では、親子が多く集まり、バーベキューをしようとしていた。
天気がよいので、嵐山に向かっての散策もよいだろう!! と一人ごとをいった。
「桂川」と書かれたプレートがあり、川に架かる松尾橋を渡っていく。
橋を渡り終えると、左側に阪急松尾駅があり、その先の交差点の先に、
「松尾大社」の大きな石標と松尾大神と書かれた幣額の赤い鳥居が建っていた。
松尾大社は京都最古の神社で、太古この地方に住んでいた人々が、松尾山(標高223m)の頂上に近い大杉谷の巨石を磐座(いわくら)として祀り、
生活の守護神として尊崇したのがはじまりといわれる。
松尾神社の歴史
「 五世紀の頃、朝鮮から渡来した秦氏が山背国葛野(現在の太秦や松尾一帯)に移住し、山城、丹波の両国を開拓し、農産林業を起した。
同時に松尾の神を氏族の総氏神と仰ぎ、大宝元年(701)、
秦忌寸都理(はたのいみきとり)は、松尾山大杉谷にある磐座の神霊を勧請し、山麓の地に社殿を造営した。 平安遷都後には、皇室の当社に対するご崇敬は極めて厚く、
正一位の神階を受け、延喜式神名帳では名神大社、二十二社の制の第四位に列せられて、
賀茂氏の氏神で賀茂神社と共に、皇城鎮護の社とされた。 」
松尾神社の背後に現在も磐座は残っているが、神域なので、自由に訪れることはできない。
その代わり、神社の右手奥に遥拝所があり、そこからお参りできる。
その隣には、神使 心願盃投げがある。
盃を投げて、右側に入ると鯉のように勢いよく、
左側に入れば、亀のようにねばり強く人生が送れるという訳である。
交差点先の鳥居をくぐって、しばらく歩くと、赤鳥居(二の鳥居)がある。
その脇にはあり、「あじさいが咲いています」、という案内板が建てられていた
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松尾神社磐座遥拝所 |
赤鳥居を見上げてよく見ると、鳥居の上部に榊の小枝を束ねて垂れ下げているが、
これは「脇勧請」といわれるもので、この形は鳥居の原始形式を示すものである。
榊の束はその年の月の数(閏年は十三)だけあり、
月々の農作物の出来を占う古代の風習を今日まで伝える。
赤鳥居の左側には、酒造博物館があり、鳥居をくぐった右側に、「日本第一酒造」
の石碑が建っている。
「 秦氏は酒造の技術も日本に伝えたことから、中世以降、松尾神社は酒造の神としても信仰されるようになった。
松尾大社は、室町末期までは全国十数ヶ所の荘園、江戸時代にも朱印地千二百石、
嵐山一帯の山林を有していた。
秦氏は、明治初期に神職の世襲が禁止されるまで、当社の神職を務めた。 」
それを証明するかのように、社には全国から奉納された酒樽が積まれていた。
赤鳥居の先には、江戸時代初期の作といわれる楼門がある。
楼門の左右に配置した随神の周囲を囲む金網には、たくさんの杓子がさされているが、
これは 「よろずの願い事を記して掲げておけば救われる」 と言う信仰によるもので、「祈願杓子」ともいわれているものである。
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楼門 |
その先に拝殿があり、その奥に釣殿と両脇に回廊があり、 金箔が施された華麗なものである。
「 松尾大社の祭神は大山咋神と中津姫命である。
古事記に、 「 大山咋神またの名は山末大主神、此神は近淡海国の日枝山に座し、
また、葛野の松尾に坐す鳴鏑を用いる神 」 とあり、
比叡山と松尾山を支配される神だった といわれる。
中津姫命は、市杵島姫命の別名で、福岡県の宗像大社に祀られる
三女神の一神として、古くから海上守護の霊徳を仰がれた神である。 」
本殿は釣殿と両脇の回廊などに阻まれて、本殿前の両脇に鎮座している 極彩色の狛犬しか見ることはできなかった。
「 本殿は、建坪三十五坪余、桁行三間、
梁間四間の松尾造り(両流造)と呼ばれる珍しい建築で、
大宝元年、秦忌寸都理が勅命を奉じて創建以来、皇室や幕府の手で改築され、
現在の建物は室町初期の応永四年(1397)の建造で、
天文十一年(1542)に大修理を施したものである。
箱棟の棟端が唐破風形になっているのは珍しく、向拝の斗組、
蟇股、手挟などの優れた彫刻意匠は、室町時代の特色を
示すとして、国の重要文化財である。 」
本殿前の釣殿と両脇の回廊は、金箔が施された華麗なもので、
本殿もこれ以上に素晴らしいものだろうと思った。
なお、釣殿、中門、回廊とその前にある拝殿や楼門、神庫は江戸初期の建築である。
大学生の頃からこれまで数回訪れた松尾神社であるが、
昭和の名庭 重森三玲作の松風苑があることは知らなかった。
松尾大社の庭園について、孫の重森千青(しげもりちさを)氏の書かれたものを神社からいただいので、参考までに転載する。
「 松尾大社の庭園は、昭和五十年に昭和を代表する作庭家であった重森三玲の設計によって作庭された。 また彼の絶作でもある。
古来から神社と深く関わりのあった磐座表現による空間である「上古の庭」、
近代においては忘れられていた曲水庭園の現代的解釈による構成の「曲水の庭」、
即興的に作り上げた庭園、
日本庭園古来からのテーマであった蓬莱神仙の世界を表現した「蓬莱の庭」の四庭から
構成されている。
それらは、三玲の得意とした立体造形感を全面に押し出した石組構成を中心とし、
動と静を表現している。
庭園内における石は全て徳島、香川、愛媛県の緑泥片岩を使用した。
伝統を重んじながらも、現代的な表現を目指した重森三玲の終世の目標であった
「永遠のモダン」の、まさに最終表現の庭園が展開している。 」
本殿の右側に庭園受付があるので、五百円を支払い、 拝観券を受け取り、本殿右手の庭園入口に入ると、突き当たりの奥に、 「滝御前」の幣額のある鳥居と小さな社が祀られていて、その奥に、 白糸のような霊亀の滝が見えた。
説明板
「 この滝は始終涸れることがないといわれ、そこから流れる渓流は御手洗川と称する。 滝の近くの亀の井という霊泉は、
酒造家はこの水を酒の元水として造り水に混和して用い、
また、延命長寿、よみがえりの水としても有名である。 」
受付に戻り、最初に入ったところは、葵殿のある曲水の庭だった。
「重森千青氏の解説」
「 曲水の庭は、奈良・平安期に造られた曲水式庭園を範とした構成である。
州浜を伴った曲水の流れ、背後の築山の斜面に連続した石組、
それをつなぐサツキの大刈り込みを配した構成となっている。
三玲らしく流れの中にも
石組を施し、石橋を架けるなどの変化も忘れてはいない。
曲水の水、サツキ、州浜の緑泥片岩など、
単純な構成ながらも配色にこだわった構成となっている。
また、高木類も一切ないことから、空間上部を解放感のある構成としている。 」
日本庭園とは、こうあるもんだという既成観念しかない小生には、 この庭は銭湯のタイルのようで、余りにモダンすぎるという感じがした。
曲水の庭の上方には、宝物館があり、 その中には御神像三体(男神像二体、女神像一体)が収蔵されていた。
「神道では、
最初は山や滝などの自然物、続いて、鏡、玉、剣などを神の依代とし、礼拝の対象にしていたが、平安時代以降、神佛習合の傾向が
強くなり、仏像彫刻の影響を受け、礼拝像が造られるようになった。
所蔵されている三体の等身大坐像の御神像は、
平安初期の作の一木造りで、国の重要文化財に指定されている。 」
宝物館の左側の狭い空間にある枯れ山水のような庭は、 三玲が即興的に作り上げたという庭園である。
右側にあり、手前から奥に緑が広がる中に岩石があるのが、上古の庭である。
「重森千青氏の解説」
「 上古の庭は、松尾大社背後の山中にある磐座(日本庭園の原初形態で、
御神体とした石)に因んで、山下に新たに造られた。
据えられた石は石組ではなく、神々の意思によって据えられたものである。
磐座とは庭園ではなく、神々を巨石によって象徴したものである。
ミヤコザサが植えられたのも、人が入れない高山の趣を表している。 」
蓬莱の庭はこれらの庭とはかなり離れた赤鳥居と楼門の右手にあった。
蓬莱の庭は、曲線を描く池に多くに石を使った一つの芸術になっていた。
残念なのは、ライトアップ用の照明が視界に入り、
それがこの庭園の良さを壊していること。
これがなければ、すばらしいのだが・・・
「重森千青氏の解説」
「 蓬莱の庭は、三玲が池の形を指示し、
その後、長男の完途がその遺志を継いで完成させた。
古典の手法(石組)と現代の手法(池の護岸)を巧みに取り入れ、
蓬莱神仙の世界を池中の神仙島で表し、龍門瀑形式の生得の滝構成など、
開放的でありながら精神性の高い池泉庭園となっている。
また、最初で最後の親子合作の庭園でもある。 」
以前見た三玲の東福寺方丈庭園は、苔をモザイクのように使い、
幾何学的なモダンなものだったが、
あくまでもこれまでの日本庭園をベースにしたものだった。
それに対し、松尾庭園は、これまでの庭園をベースに
しながらも、前衛的な色彩が濃く、小生に強い印象を残した。
最後に、入口の案内にあったあじさい苑へ行ってみた。
その場所は上古の庭の右
手で、松尾山の磐座に向かって高くなっていく傾斜地である。
ロープの両脇には色々なアジサイが植えられていた。
先程見てきた梅宮大社の紫陽花が種類も多く、
花が最盛期だったということもあろうが、それを差し引いても、
ここのは花が少ない。
葉が旺盛に茂っていて、手入れが悪いのが原因のように思えた。
梅宮大社と入苑料が同じなので、三玲の庭を見るのでなければ、
梅宮大社へ行かれる方がよいだろう。
(ご参考) 「司馬遼太郎の街道をゆく」 の関連部分
司馬遼太郎は、「街道をゆく26」 の中の 「嵯峨散歩」 という表題の中で、この地を開拓した「秦氏と松尾神社」の関係を書いている。
彼は、古代の景観の章で、 「 嵯峨野を歩いて古代の秦氏を考えないのは、ローマの遺跡を歩いてローマ人たちを
考えないのと同じくらいに鈍感なことかもしれない。 」 、と書き、 「 秦氏は、日本列島に渡来した氏族で、
いまの京都市や滋賀県などに農業土木をほどこし、広大な田園をひらいた。 秦氏が渡来したのは、日本書紀でいう
応神の時代で、五世紀初頭であったろう。 」 と、推定している。
また、 「 平安初期の新撰姓氏碌に記録さ
れている畿内の氏族は千百八十二氏で、そのうちの約三割が蕃別(外国系)だった。 」 と記しているので、
この時代は、外来系の氏族が特に珍しいものではなかったようである。 ただ、畿内にいる秦氏系統の氏族は千二百戸
もあったといわれるので、一大勢力に違いない。
(この後、秦氏は秦の始皇帝の末裔であるかについて述べているが、省略する。 )
その後、渡月橋の章では、渡月橋の歴史に触れ、
嵐山の名勝が維持されてきたことに触れている。
その後の章が、「松尾の大神」である。
「 葛野とよばれた京都の西部・嵯峨野のあたりは、朝鮮から渡来した秦氏
の農民たちが草ぶきの小屋を結んで水田農村を営んでいた。 」 と書き、 「 このひとびとは、一つの神体山を
あがめていた。 松ノ尾という山である。 いまは松尾という。 」 と続く。 この地は山城国と丹波国のさかいに
ある愛宕山から南に続く山塊で、小倉山、嵐山と続き、さらに南にむかって低くなり、わずかに隆起する峰が松尾山
と、書いている。
「 山のまわりの野は、秦氏によってもっともふるい時期から耕されていた。 山のありがたさは、
水をよく保つことにある。 げんに、松尾山は豊富に水を出す。 谷々に湧水も多く、それらがまわりの水田をうる
おしていた。 (中略) 山が水を出すという機能のみでその山を神にしたのか、となると、必ずしもそれのみではない。
山が神になるには、かんなびやまとしての優美さをそなえなければならない。 この古語に漢字があてられて、神名備
とか神南備などと書く。 大和の三輪山や近江の三上山などの姿が、神であることにふさわしい。また、その山容が、
野からじかに見えなければならない。 それらの条件に、大和の三輪山や山城の松尾山は典型といっていいほどに適って
いる。 」 と書いている。
司馬氏は、この後、古代の神のしるしの磐座(いわくら)について触れている。 「
三輪山も松尾山も、古代には社殿がなく、山そのものが神の憑り代であり、とくに神との感応部を一点にしぼれば、山頂
の磐座こそそうである。 古代のひとびとは、この磐座の前で祭祀をしたらしい。 」 と記し、シャーマンに移って
いく。
話が変わるが、角倉了以が保津川の岩を砕いて、舟が通れるようにしたので、丹波側から下りくる材木が梅津に集積されるようになった、という。
江戸時代には、木場が多く、大金が動き、殺気立ちもしていたとあるが、今は
その面影はない。 梅宮大社は、そうして庶民に崇敬されていたのだろう。
司馬遼太郎は、 松尾について、
「 梅津から橋一つわたって松尾の門前町に入ると、家並みに品が出てくる。 丹塗りの大鳥居が立っていて、松尾
大神という額がかかげられている。 松尾大神は、正しくはまつおのおおかみとでも訓ものであろう。 社殿は、松尾の
美山を背負っている。 建築というものは本来、自然という神に身を寄せるべき
ものかもしれない。 」
と、賛辞を述べている。
目のゲストです!!