平成二十一年六月十五日の午後、京都府立植物園へ行くため、
四条河原町からバスに乗った。
学生時代を京都で過ごし、卒業後も
ときどき訪れる京都であるが、植物園は訪れたことはない。
京都市の公共施設は岡崎公園付近に多くあり、交通が便利なので、
よく利用したが、植物園は少し遠く離れているからである。
◎京都植物園
三十分程かかり、植物園前でバスを降りた。 左手に賀茂川が流れているが、
道を横断し、緑に覆われた並木道を北にむかう。
長い冬を終え、新たに芽吹き、木々が若々しい葉を輝かせる頃のもみじを
「青もみじ」と呼ぶ。
並木の樹木はもみじではないだろうが、重なった葉から陽光が漏れ、
梅雨時の雨が葉をきれいに洗い、きらめきと
みずみずしさを演出していた。
緑に染まりながら少し歩くと、植物園の入口に着いた。
「
京都府立植物園は、大正十三年(1924)に開園したが、戦後、進駐軍に接収され、
樹木などが伐採され、荒廃したのを修復し、昭和三十六年四月に再開にこぎつけた。
( 年末年始以外開園 9時〜16時。 入場料は200円但し、
温室入場は更に200円必要 六十歳以上は無料 ) 」
小生が大学を卒業した年であるから、行っていないのは当然である。
入って驚いたのは森の面積が多いことである。
約二十四万uという広い敷地を持つ植物園であるが、その大部分が森なのである。
小生がよく行く名古屋市の東山植物園
は園の大部分が花や木のエリアであるので、
それを想像して訪問したので、とまどった。
受付でいただいた地図を片手に前進すると、正面の左手に温室が現われた。
すごく大きなものなのに驚いたが、温室は冬のものという固定観念があり、
梅雨のこの時期に入るというのはピンとこない。
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京都府立植物園 |
まわりを見ると、月曜日の午後ということもあり、入園者の姿はちらほらだが、
右手の方面に向かっている。
まず、バラ園にいってみた。 いろいろな品種が植えられているが、
花の時期は終わりに近づき、きれいに咲いているのは少なかった。
大噴水のあるところに出て、あじさい園に行くと、道に沿って、
日本固有種のがくアジサイが咲いていた。
この種類は花は質素で華やかさはないが、暗い道にあると、
存在感を感じさせてくれる。
そうした花を近くの学校からきた学生がしゃがんで、絵を描いていた。
水を入れた小バケツ(?)には筆が入れられ、パレットには水色、淡い緑、
など何種類の色があり、画板の用紙には淡い紫陽花が描かれつつあった。
彼女等の邪魔にならないようにそっと撮影を続けた。
それにしても紫陽花はみずみずしかった。
◎ 上賀茂神社
あじさい園を出て、花菖蒲があるところを探す。
森の中をうろうろして、やっと辿りついた。 先客がいた。
どうやら、カメラクラブの撮影会のようで、半分くらいの人は撮影をせず、
話に興じていたが、残りの人は三脚を立てて、真剣な表情だった。
池の中に一人が通る位の道があるだけなので、このような状態では撮影はできない。
撮れるところで、何枚か写して、この場を去った。
時計を見ると、十五時なので、あわてて北出口に向かう。
北出口で係員の男性に上賀茂神社へいきたいといったら、
「 そこに行くバスはないよ!
道を越えて北へ向って歩いて行けばじきにつくよ? 」 といわれた。
歩くには距離があるかなあ、と思ったが、とりあえず歩きだした。
五百メートル位歩くと、石計町バス停があったので、
足を止めて、行先を見ると上賀茂神社とあるではないか?!
地獄で仏とはこういう時をいうのだろう。
次のバスには少し時間があったが、
それでも歩いていくより早いだろうと、ペットボトルのお茶を飲み、
バスが来るのを待った。
バスに乗ると、あっという間に上賀茂神社前に到着した。
いろいろあったが、三十分程で植物園から到着できた。
後で分かったのだが、北出口を出て、右に行くと地下鉄北山駅があり、
その近くにある北山駅前バス停から小生が乗ったバスに乗れたのである。
受付の人は知らなかったのだ!!
バスを降りると、その先に高札場と上賀茂神社の一の鳥居がある。
「 上賀茂神社は、奈良・平安時代の山城国の一の宮で、
延喜式の名神大社二十二社の一社である。
正式名を賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ) といい、
祭神は賀茂別雷神<である。
古代の賀茂県主氏の氏神を祀る神社であり、
下鴨神社(賀茂御祖神社) とともに賀茂神社と総称されている。 」
鳥居をくぐると、参道の両脇が緑地であるが、
ここが五月に行われる葵祭の競い馬の会場である。
参道を進むと、
二の鳥居の手前右側に外幣殿があり、右手に小川が流れている。
川の周りで小さな子供が遊んでいた。
その左手には、藤原家隆の歌碑が建てられていた。
その傍らの説明板「ならの小川について」
「 風そよぐ ならの小川の夕ぐれに みそぎぞ夏の しるしなりける
(藤原家隆卿)
小倉百人一首で有名な古歌のならの小川で、平安の昔、
神職がみそぎを修していた情景を詠んだものである。
このあたりをならの小川と称する 上賀茂神社 」
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上賀茂神社一の鳥居 |
二の鳥居をくぐると、正面に円錐形の形をした盛り砂がある建物は細殿である。
「 細殿は、
皇族方が行幸される際や斎王が到着されたときに使われた建物である。
円錐形の盛り砂は、立砂(たてずな)と
呼ばれるもので、神様が最初に降臨された上賀茂神社の北二キロにある神山を
模して作られた、と言われ、現在でも、
鬼門や裏鬼門に砂をまき清めるのはこの立砂が起源であることを知った。 」
細殿の右手手前にあるのは楽屋である。
この建物は、
神仏習合の時代に供僧方が用いたもので、「一切経楽屋」ともいわれたようである。
その奥にある建物は、「土屋」といい、往古より神主以下社司の着到殿だったが、現在は被所として用いられている。
細殿と土屋の間にある縦長の建物は「舞殿」で、
御手洗川を跨ぐように建てられていることから「橋殿」ともいわれる。
夏越大祓(なごしのおおはらえ)のお祭りでは、
橋殿から御手洗川に人形が流されるという。
橋殿の左側にある小さな橋を渡ると、右側にごつごつした平らな岩盤があり、
その脇には「岩上」の説明板がある。
説明板「岩上」
「 賀茂祭(葵祭り)には宮司がこの岩の上に蹲踞、
勅使と対面し、御祭文に対し神の御意思を伝える返祝詞を申す神聖な場所である。
太古に御祭神が天降りされた秀峰神山は本殿の後方約2kmの処に在り、
頂きには臨降石を拝し、山麓には御阿礼所を設け、厳粛な祭祀が斎行されてきた。
この岩山と共に賀茂信仰の原点であり、
古代祭祀の形を今にも伝える場所である。
神と人との心の通路でもあり、気が集中する場所である。 」
その先の突き当たりに第一摂社の 片山御子神社(片岡社)の 社殿があり、左側には屋根の付いた橋が架かっている。
説明板「片山御子神社(片岡社)」
「 祭神の玉依比売命は、上賀茂神社の御祭神、賀茂別雷大神の母にあたる。
玉依比売命は賀茂族で最も権威の高い女性で、
賀茂別雷大神に仕えて祭司を司っておられた、といわれている。
古来から縁結びの神としても有名だったようで、
紫式部が何度もお参りしたことでも知られている。 」
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社殿前には、恋愛成就を祈願したハート形の絵馬がびっしりかけられていた。
傍らには、 紫式部の歌碑があり、
「 ほととぎす 声まつほどは 片岡の もりのしづくに 立ちやぬれまし 」
(新古今和歌集:第三巻夏歌)
という歌が刻まれていた。
片岡社の手前右側の少し小高いところにあるのは摂社の須波神社で、
阿須波神、波比祇神、生井神、福井神、
綱長井神を祀っている延喜式の古い社である。
御手洗川に架かる朱塗りの玉橋は、楼門に向かってまっすぐに架けられているが、
一般人は通行できない。
その隣にある屋根付の片岡橋を渡り、朱塗りの楼門と東西廻廊前にでる。
玉橋、片岡橋、楼門と東西廻廊、そして、
これまで見てきた建物は、全て寛永五年(1628)に建て替えられたもので、
国の重要文化財である。
楼門の奥の石段の上にある建物は「高倉殿」といい、
一般の参拝者はここから本殿や権殿を拝む。
左側にあるのが権殿、右側が本殿である。
両建物とも、文久三年(1863)の造営だが、
平安時代以来の姿をよく伝えていることから国宝に指定されている。
また、ここから先は、撮影禁止になっている。
「 受付で参拝料(500円)を払うと、 高倉殿の左奥の部屋に案内され、 神職から神社の由緒などを説明してもらった後に、 本殿と権殿が見える場所から参拝することが出来る。 」
御参りを済ませた後、京都駅までバスに乗り、今回の旅は終えた。
目のゲストです!!