平成二十一年(2009) 十一月二十日、京都の秋を求めて嵯峨野に出かけた。
早朝の名古屋駅から新幹線で京都まで行き、嵯峨野線に乗り換え、
嵯峨嵐山駅で降りた。
南口はトロッコ嵯峨駅になっているが、北口は何もなく寂しい。
道角に自動販売機を見つけて缶コーヒーを購入し、歩き始めた。
◎ 清涼寺
最初に訪れたのは清涼寺である。
「 平安時代の寛和二年(986)、中国の宋の五台山を訪れた「然(ちょうねん)は、持ち帰った三国伝来の釈迦如来像(国宝)を安置する寺を建立しようとしたが、その願いを果たせないまま亡くなった。 かれの遺志を継いだ
弟子の盛算(じょうさん)は棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺の始まりである。
このあたりは源氏物語の光源氏のモデルといわれる、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融
(みなもとのゆずる)の山荘・棲霞観があったところで、
死後、「棲霞寺」として阿弥陀堂が建てられた。 」
入口の仁王門は安永五年(1776)に再建されたもので、
門上には「五台山」の額が掲げられている。
門をくぐると「嵯峨の釈迦堂」とも呼ばれる本堂がある。
「 釈迦堂(本堂)は、慶長七年(1602)に豊臣秀頼により寄進、造営されたが、嵯峨の大火により類焼し焼失。 徳川綱吉の母・桂昌院の発願で伽藍の復興がおこなわれ、元禄十四年(1701)に再建 された。 」
本堂の左手に「豊臣秀頼公の首塚」と書かれた石碑が建っている。
これは昭和に入って行われた大阪城の三の丸跡発掘現場から出土したもので、
秀頼とのゆかりから当寺で祀ることになったようである。
境内にある多宝堂は高さ13mの建物で、元禄十三年(1700)の建築で、
法隆寺の夢殿を模したものといわれる。
また、聖徳太子殿という建物もあった。
本堂の右側、公孫樹の近くにある建物は文久三年(1863)
に建てられた阿弥陀堂である。
「 旧棲霞寺の本尊・阿弥陀三尊像を祀るため建てられた建物であるが、 国宝の阿弥陀三尊像は霊宝館に移され保管されたため、この建物内にはない。 従って、この寺の前身である「棲霞寺」はこの阿弥陀堂にのみ、 その痕跡を残しているといえる。 」
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豊臣秀頼公の首塚 |
◎ 二尊院への道
清涼寺に秋を求めて訪れたが、
阿弥陀堂の先にある寺務所前にある数本の木が紅葉しているだけで、
紅葉の名所という訳ではなかった。
霊宝館などの開館は九時でそれには時間があったので、寺を出る。
仁王門の前には色々な道標が建っていた。
その中に、 「 つきあたり 小楠公御首塚の寺 」 というのがあったので、
指示通りに進むと、宝筐院(ほうきょういん)という寺があった。
境内には、「義詮の墓」と伝えられる三層石塔があるが、
隣には貞和四年(1348)四条畷の合戦で戦死した「楠木正行の首塚」
と伝えられる五輪石塔がある。
「 宝筐院は、平安時代に白河天皇により創建された善入寺が前身
。 その後、寺は衰退したが、、
室町幕府二代将軍・足利義詮の庇護を受けて、伽藍が復興した。
義詮の没後、彼の法名に寺名を代えた。
足利義詮と楠木正行は、南北朝の総大将で敵味方になるが、
楠木の人柄にひかれた義詮の遺言により、
同じ場所に葬られることになったといわれる。 」
宝筐院を右折し、清涼寺の脇の入口のところで左折して、
二尊院に向かって、西に進む。
清涼寺から西に延びるこの道は愛宕道で、両側一帯は中院地区である。
右側の民家の一角に、「江戸時代、島原の名妓の夕きり(霧)大夫遺蹟」 と書かれた石碑が建っていたが、遺蹟の内容は分からなかった。
少し行くと、「中院町会議所」の看板を掲げた慈眼堂があり、
堂前に説明板があった。
説明板「慈眼堂」
「 慈眼堂に祀られているのは中院観音。
この木造の千手観音立像は、藤原定家の念持仏で、定家の没後、
伝領した子の為家がこの地の人々に与えたものと伝えられる。 」
境内の一角には石仏群があった。
道を直進すると、三叉路に突き当たる。
その前の右側に黄土色の塀の一角に、
「中院山荘跡(小倉百人一首ゆかりの地)」の説明板があり、
その下には石仏を祀った小さな祠があった。
説明板「中院山荘跡」
「 鎌倉時代の初め、この辺りに、僧蓮生の中院山荘があった。
蓮生は、俗名を宇都宮頼綱といい、
下野国(現在の栃木県)の豪族で、鎌倉幕府の有力な御家人の一人であった。
しかし、政争に巻き込まれるのを避けて出家し、
実信房蓮生と名乗った。 (このとき郎党60余人も同様に出家した。)
後に上洛し、法然上人、次いで善恵上人証空に師事し、この地に山荘を営んだ。
蓮生は和歌の名手で、近くの小倉山麓に山荘を構えていた藤原定家とも
親交があり、彼の娘が定家の子・為家に嫁いでいる。
嘉禎元年(1235)5月、
定家は蓮生が山荘の障子に貼る色紙の執筆を依頼したのに快く応じ、
色紙の一枚一枚に天智天皇以来の名歌人の作を一首ずつ書いた。
「小倉百人一首」はこの時の選歌に、後世、鳥羽、順徳両天皇の作品を加えるなどの補訂を施して完成したものといわれている。 」
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慈眼堂 |
◎ 二尊院
三叉路には「小倉山二尊院」の石柱があった。
これまでこの前には何回か来たが、混んでいるので
敬遠して一度も入らなかった。
今回の京都訪問の目的の一つがこの寺に訪れることだった。
入口の総門に行くと、門は閉ざされたままで入れない。
時計を見ると、開門までに三十分近くあった。
「 二尊院は嵯峨天皇の勅願により、慈覚大師が開山した寺で、 本尊に釈迦如来と阿弥陀如来を祀ることから、二尊院と呼ばれている。 総門は江戸時代の豪商角倉了以が、伏見城の薬医門を移築したものである。 」
門の前には数台停められる駐車場があるが、
既に満車の状態で開門を待っていた。
周囲をみようとうろうろしている内に、開門になったようで、
開門時間に戻った時には参拝する人々は既に中に入っていた。
総門から築地塀に続く参道は、「紅葉の馬場」といわれる紅葉の名所である。
この紅葉を撮るために多くのカメラマンが押し寄せる。
小生もその一人で、一番乗りを狙っていたのだが、失敗したのである。
人を避けながらどう撮るかの工夫が必要になった。
人の流れには緩急があるので、潮が引いたと思える時、シャッターをきる。
人を入れざるをえない場合は、場所にふさわしい人物を見つけて、
シャッターをきるようにしているが、そううまい具合にはならないものである。
それはともかく、受付を済ませて入ると、左側に「西行法師庵跡」の石碑があった。
「 佐藤義清は、鳥羽上皇や徳大寺家などに仕えていたが、
保延六年(1140)に出家して、西行と名を替え、全国各地を行脚し、歌を残した。
二尊院の門前近くに庵を結んだとされるが、
この石標はその庵跡を示すもののようである。 」
石段を登った先には白塀があり、その左手に黒門がある。
黒門の先にあるのが、唐門(勅使門)である。
「 応仁の乱(1467〜1477)によって諸堂は全焼したが、 この唐門(勅使門)は約三十年後に再建されたものである。 再建の時、下賜されたという後柏原天皇による「小倉山」と書かれた勅額がある。 」
門の前に彩る紅葉は風情があった。
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西行法師庵跡 |
唐門をくぐり中に入ると、二尊院の本堂がある。
「 本堂は、唐門と同じ永正十八年(1521)に、
三条西実隆公が天下に寄進を求めて再建したもので、
京都御所の紫辰殿を模して内陣も紫宸殿のお内仏と同様に造られている。
本堂の上に掲げられている「二尊院」の勅額は後奈良天皇より下賜されたものである。
外陣の床はうぐいす張りになっている。
堂内には襖絵や駕籠があり、特別公開の大日如来像も開帳されていた。 」
本堂の右側には「九龍弁財尊天」の幟がひらめく弁財天堂があり、
石段をまたいた右側の鐘楼には「しあわせの鐘」と表示されていた。
上に続く石段を登っていくと、途中に二条家や四条家の墓があり、
登りきったところに 「法然上人御廟」 と表示されたお堂がある。
「 法然の逝去後、 荒れていた寺を再興したのは法然の高弟湛空上人で、 彼がこの寺の中興の祖といえよう。 」
お堂の左に続く細い道を行くと、 藤原定家が百人一首を選定したといわれる「時雨亭跡」に出たが、 今は石組みだけが残っているだけである。
お堂まで戻り、右に続く道を歩く。
左手に鷹司家の墓や香道の創始者である三条西家の墓がある。
更に進むと、総門を寄進した京都の豪商、角倉了以・角倉素庵父子の墓があった。
更に進むと石段があり、その奥に囲われているのは「三帝陵」である。
「 三帝陵には、土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇の分骨を安置している。 」
道は突き当たるので、右折して坂を下る。
途中に伊藤仁斎の墓や下りきったあたりには、
昭和の大映画スター坂東妻三郎の墓もあった。
築地塀の手前には八社宮という社もあったが、これで二尊院は一回りである。
二尊院を出て、祇王寺に向かう。
途中には「嵯峨村雲別院」と書かれたところがあった。
「 嵯峨村雲別院は日蓮宗で唯一の門跡寺院であるが、 今は墓地の販売にいそしんでいるという感じだった。 」
その前を通り過ぎて、突き当たりで左折して直進すると、
「檀林寺」と「祇王寺」の道標が出てくるので、奥に入って行くと、
数台とまれる場所があり、観光タクシーがとまっていた。
その前にあるのが檀林寺である。
「 檀林寺は、嵯峨天皇の后・檀林皇后が建立した檀林寺の名を継いで、近年建てられたという寺のようである。 」
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三帝陵 |
◎ 祇王寺
檀林寺には入らず、奥に続く小道を進むと受付があり、 大覚寺との共通参拝券を売っていたが、 そのまま直進すると、左に入る道に滝口寺の受付があった。
「 平家物語に登場する滝口入道(齋藤時頼)と建礼門院横笛との悲恋の舞台となった寺で、滝口入道が隠棲したこの寺を横笛は訪れたが、 入道は会わなかったので、横笛はそれを悲しんで自分の指を切った血で歌を書いたという歌石がある。 」
右の道を進むと、祇王寺の受付があった。 受付で三百円支払い中に入る。
祇王寺は、昔の「往生院」の境内にある寺院である。
「 往生院は法然上人の門弟良鎮によって開創されたと伝えられ、
山上山下に至る広い領域を占めていたが、
その後荒廃してささやかな尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれるようになった。
その寺も明治に入り廃寺になったが、明治二十八年、
それを惜しんだ京都府知事北垣氏が、
嵯峨にあった別荘の一棟を寄贈したのが現在の建物である。 」
建物(一部茅葺の庵u)の前にはほとんど葉を落とした楓の林があり、
樹下にある苔の上に散り紅葉がぱらぱらと乗っていた。
戴いたパンフレットには、「 晩秋初冬の頃又晩春の頃がよい 」
とされているが、もう少し経つと葉がすっかり落ちて、
枯葉が赤く見え、茅葺の寺の全容が見通せるということだろう。
その様子を
「 五十年の 夢とりどりの 落葉かな 」(智照尼)
と詠んでいる。
建物に入ると仏間には、本尊の大日如来、「清盛公」、「祇王」、
「祇女」、「母刀自」、「仏御前」の木像が安置されていた。
祇王、祇女の像は作者は不詳のようだが、鎌倉時代末期の作とあった。
県知事から寄贈を受けたこの建物は元は茶室だったようで、 仏間の隣の控えの間には「吉野窓」 という大きな窓があり、影が虹の色に表われるので、 「虹の窓」とも称される、とあった。
平家物語には、祇王、祇女についての悲話が綴られている。
「 祇王、祇女は、都に聞こえた白拍子で、 祇王は当時の権力者の平清盛の寵を受けて、妹の祇女も有名となり、 安穏に暮らしていた。 所が、仏御前と呼ばれる白拍子が現れて、清盛の西八条の館に行き、 舞いをお目にかけたいと申し出た。 祇王がいるので、 清盛は門前払いをしたが、祇王がとりなしたので、 呼び入れて今様を謡わせたところ、声も節も上手だったので、 清盛はすぐに虜になり、祇王を館から追い出した。 その後も清盛の仕打ちに耐えかねた祇王は、祇女と母刀自と共に、嵯峨の山里に移り、仏門に入った。 ところが、母子三人が念仏していると、竹の編戸を たたく音がするので、出てみると仏御前<だった。 祇王の不幸を思うにつれ、無常を感じた仏御前は剃髪して訪れたのであった。 四人は草庵に籠って朝夕の仏前に香華を供えて、往生の本懐を遂げた。 」
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仏壇 |
◎ 野宮神社
建物を出ると、墓地があり、その一角に、「清盛公供養塔、左祇王、祇女、母刀自」 と表示された木札が建っていた。
「
右の五輪塔は清盛公の供養塔で、左の宝しょう印塔は祇王、祇女、母刀自三人の墓で、鎌倉時代のもののようである。
祇王は三高寮歌の中で、月見草と共に出てくるが、
このような墓があるのは知らなかった。 」
境内には見事な竹藪があった。 パンフレットに、 「 緑一色の祇王寺の苔庭、
草庵そして山門。
若竹の緑の風が静かに流れていく。 」 とあるので、
新緑の五月にもう一度訪問したい、と思った。
もと来た道を引き返す。
二尊院の先を直進すれば、落柿舎や常寂光寺に至るが、今回は訪問しないので、
道を変えて野宮神社に行った。
「 野宮とは、伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)
に選ばれた皇女が身を清めるため、こもった場所である。
源氏物語の賢木の巻にも出てくることや縁結びの神、野宮大黒天を祀る神社なので、
若い女性に人気がある。 」
境内には相変わらず多く参拝の人がいた。
野宮大黒天社の左にある触ると願いが叶うという亀石には恋人達が触っていた。
野宮神社の鳥居はクヌギを使った黒木で造られているが、
原始信仰のなごりと思われる。
楓の木が多い訳ではないが、色よく紅葉し、すばらしかった。
ここまで来ると、嵐山が近いため、観光客の数がどっと増えた。
人力車で廻る人も多い。
京福の嵐山駅に向かう途中で餅を買い、歩きながら食べた。
天龍寺の看板があるが、人が多いので写真にはならないと入るのをあきらめた。
久し振りに渡月橋を渡る。
橋の上から遊覧船のりば方面を見ると、紅葉した嵐山が一望できた。
渡月橋を渡ると、島になっている嵐山公園がある。
遊歩道になっているが、料亭やお土産屋や飲食店がある。
お昼には少し早いなあと思いながら歩いていると、
阪急嵐山駅へ通じる橋を渡っていた。
「中華まん」という旗がひらめき、
湯気が出ていたのに吊られて、肉まんを買ってしまい、それが昼食となった。
ボリュームもあり、けっこう旨かったので、当りと思った。
そのまま、阪急嵐山駅へ行き、今回の嵯峨野の歩きは終わった。
早朝出発で人が少なく、
紅葉もよかったので大いに満足した旅だった。
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黒木の鳥居 |
目のゲストです!!