京 都 散 策
(京都名所めぐり)

「 紅葉の光明寺 」



平成二十一年(2009) 十一月二十日、紅葉の嵯峨野を見た後、 阪急嵐山駅でもらった  「 阪急電車で行く京都   嵐山・嵯峨野の彩り 桂・西山地区  」 というパンフレットには、  「 隠れた名所が連なる洛西地区もまた違った趣の散策が楽しめます 」  とあった。   その中に今年のJR東海のキャンペーン対象になっている 「 光明寺 」  を見つけたので、行くことにした。 


◎ 光明寺

阪急長岡天神駅を降りると、バス停前に開田城址があった。

「説明板」
「 開田城は、戦国時代(15世紀後半〜16世紀)に活躍した国衆の一人である中小路氏の居城である。 
乙訓・西岡地域の土豪、地侍たちはそれぞれの村のリーダーとして活躍し、 また国衆として、地域の自治的運営を目指す国一揆を結んだことで全国的にも著名。
国衆の居館は彼らの活動の基地として重要な役割をはたしたが、開田城は そうした居館の遺構が残る貴重な事例である。 」  

西山浄土宗の総本山光明寺は、長岡市西山のふもと、粟生広谷にある。
観光シーズンともあって、来たバスは光明寺までの直行の臨時便だが、 バス停を降りてしばらく歩くと、「総本山光明寺」の標柱と常夜燈に迎えられた。
その先には、「西山忌」と「御遠忌」と書かれた高い木札が立ち 、多くの参拝客が訪れていた。 
参道に「浄土門根元地」と書かれた大きな石標があった。

寺の説明板
 「 この地は、法然上人がお念仏の教えを最初に説かれた場所であること。 
また、法然上人のご遺体を火葬し、光明寺を上人の御本廟としたことから、 正親町天皇から浄土門之根元地という綸旨を賜わったことによる。 」 

その先の総門の前の楓は色づいていた。
この寺は通常は無料であるが、紅葉時は五百円の拝観料をとられる。 

「 光明寺は西山浄土宗総本山である。  法然上人がこの粟生の里でお念仏の教えを始めたことから、 法然が当寺の開山ということになっているが、建久二年(1198)に熊谷蓮生法師(平家物語に登場する熊谷次郎直実)が結んだ草庵の念仏三昧院がこの寺の前身である。 」

開田城址 x 光明寺標柱と
常夜燈 x 光明寺総門 x 表参道
開田城址
光明寺標柱と常夜燈
光明寺総門
表参道


総門をくぐると石段になっていて、御影堂まで続いているのが表参道である。
比較的なだらかな坂道だが、両側の数本の楓が黄色からオレンジまでのグラデーションになっていた。 
石段を登りきると、左側に石柱が数本建っているが、その前に塩田紅果の句碑
    「 うつし世の 楽土静けし 花に鳥 」  が建っていた。 

楓が数本あったが、その先の大きな楓の木がひときわ目立った。
右手の白い建物は宝永四年(1707)に建立された経堂である。 
その前に「法然上人袈裟掛之松」の碑が立ち、一本の松 が植えられているが、この松は最近になってここに移されたようである。 
参道の稚気あたりにあるのは、御影堂でその左手に阿弥陀堂が建っている。 
御影堂とは法然の姿を描いたものを祀るものである。 

「 御影堂は宝暦三年(1753)に再建されたもので、 御本尊として法然上人御自作の張子の御影が祀られている。
法然が七十五歳の時、建永の法難と呼ばれる弾圧により讃岐に流される前に、 弟子の願いに応えて、母からの手紙を張り合わせて自らの姿を像に作り、 形見として与えたというものである。 」

阿弥陀堂の対面あたりに 「円光大師の御石棺」 と書かれた石棺が置かれていた。 

「 円光大師とは円光大師源空で、法然上人の大師号である。 
法然は建暦二年(1212)に八十歳で亡くなったが、 京都東山の大谷の地に埋葬された遺骸が対立していた比叡山の門徒達により 暴かれる恐れが生じたため、嘉禄三年(1227)に高弟達は嵐山の二尊院や太秦の西光 院に隠したが、隠しきれなくなったので、京から離れた西山の粟生の念仏三昧院に石棺を移し、荼毘に伏したのである。 」

阿弥陀堂は寛政十一年(1790)に再建された総けやき造りの建物で、 高さ六尺七寸もある大きな阿弥陀如来が本尊である。 
熊谷蓮生法師が琵琶湖湖畔の堅田浮御堂から背負って帰ってきたという言い伝えがあるという。 
御影堂の裏手にあるのは御本廟である。 
石段を登った先の高台にあるが、一般人は侵入禁止。 

「 法然上人が荼毘に伏せられたことは既に述べたが、その遺骨を安置しているのが 御本廟である。 また、その右手にあるのは勢至堂である。 」

勢至堂へは屋根の付いた参道が続いたが、その屋根にかかる紅葉は美しかった。

楓の木 x 御影堂
x 円光大師の御石棺 x 勢至堂への参道
楓の木
御影堂
円光大師の御石棺
勢至堂への参道


御影堂から続く廊下を下って行くと、釈迦堂がある。

「 ご本尊の釈迦如来像は類焼の釈迦如来と呼ばれるものである。  淀の水津村の漁師で、悪太郎とあだ名されたほどの乱暴者が、 托鉢の僧(実は釈迦如来)と出会って心を入れ替えるという 物語に登場する仏像で、顔に悪次郎に焼火箸で焼かれた跡という傷がある、という。 」

釈迦堂の前にあるのは信楽庭で、大小十八の石を白州に配した庭である。

説明板
「 この庭は、阿弥陀如来の慈悲に包まれながら、生死の海を渡る念仏行者の姿を表現しているといわれ、一番大きな三つの石は阿弥陀三尊、 また、十八という石の数は、阿弥陀如来が私達に約束してくださっている四十八の願いのうちの十八番目、「念仏往生の願」を象徴している。 」 

庭の向かうに見える門が勅使門で、右側にあるのは大書院である。 
玄関を出ると、左手に法然を焼いた火葬場の跡があった。 
その先の左手の信徒会館の一帯では、 出店が出ていて、京都付近のあるとあらゆるお土産が販売されていた。 
また、休憩所も設けられていたので、 団体客はそこで時間調節しているように思えた。 
ここから薬医門を経て、総門に至るゆるやかな坂道の参道は、「もみじの参道」と呼ばれている。
参道は、両側から楓の木々が大きく枝を伸ばし、 華やかな紅葉のトンネルになっていた。 
その他、紅葉のきれいな場所で写真を写して、光明寺をあとにした。

信楽庭 x もみじの参道
x もみじの参道 x 紅葉の光明寺
信楽庭
もみじの参道
もみじの参道
紅葉の光明寺




◎長岡天満宮

バスで長岡京市内に戻り、長岡天満宮を訪れた。 

「 菅原道真が太宰府に左遷される時に、名残を惜しむために 訪れた地といわれ、没後祠が祀られたのが始まりと伝えられる神社で、 十月九日に例祭が行われる。 」

現在の社殿は、昭和十六年に平安神宮の社殿を拝領移築したものである。
車道から本殿へ入る途中には八条ヶ池というのがあり、その脇に植えられているキリシマツツジは有名で、毎年四月下旬には咲き誇るとあった。 
八条ヶ池は寛永十五年(1638)に桂離宮を造った八条宮智仁親王が開いたものである 。

これで今日訪れようと思ったところは見終わったので、JR東海道本線の長岡駅まで歩くことにした。 
阪急の踏切を越えた先にあった道はかっての山陽道のようで、 それを示す道標も残っていた。 
機会があれば、山陽道を歩きたいと思っているうちに駅に着き、今回の旅は終えた。

長岡天満宮 x 八条ヶ池
長岡天満宮
八条ヶ池




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