◎ 東福寺駅から東福寺中大門
平成二十三年(2011) 六月十九日、東福寺の塔頭の庭園を見ようと、
京阪電車東福寺駅で降りた。
駅の東側にある通りは京都五条を起点とする伏見街道であるが、
道幅が狭いので車は一方通行になっていた。
右折して南に向かって歩き、九条通りのガードをくぐり、
しばらく行くと左側に東福寺の北門がある。
訪れる塔頭は東福寺の中門付近なので、
そのまま進むと左側に民家のような門の寺院があった。
浄土宗西山禅林派の大悲山一音院法性寺という尼寺である。
「 この場所は、摂政関白を勤めた藤原忠平が、
延長三年(924)に公家恒例被行脚読経の寺として創建した、
旧法性寺があった所である。
旧法性寺は創建後、藤原家一門の氏寺として栄え、
藤原忠道の時には東福寺周辺から稲荷山、西では鴨川までの広大な敷地には、
四本の川が流れ、金堂や五大堂など百棟をはるかに超える大伽藍を構え、
京洛21ヶ寺の一刹に数えられていた。
しかし、嘉禎五年(1239)、九条道家(摂政・鎌倉将軍藤原頼経の父)が
境内に臨済宗の東福寺を建立する。
東福寺は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ採って、寺名とした。
旧法性寺は母屋を取られた形で、江戸時代には寺屋敷と呼ばれたといわれる。
東福寺は、数度の大火を蒙り、また、明治の廃仏希釈で、寺域は小さくなったが、今でも二十五の塔頭が残っている。 」
当寺(法性寺)は明治維新以降、旧名を継いて再建されたもので、 本堂(観音堂)に安置される国宝の千手観世音菩薩像は、 旧法性寺の潅頂堂の本尊と伝えられ、厄除観世音の名で知られている。
その先の右側には連子格子の建物があり、「 京都地焼酎 上野商店 」 の看板があった。
左側には宮内庁が管理する 「 東山本町陵墓参考地 」 の看板と塀があった。
少し行くと 「 東山区本町通り九条下る 」の標識があったので、
この通りは本町通りと呼ばれているのだろうと思った。
その先には 「 伏水街道第三橋 」と書かれた橋が現れた。
「 伏見街道には四つの橋があったようである。
第一の橋は、東福寺の北側の滝野川に架かっていたが、現在は暗渠になり、
橋柱は一橋小グラント北にあるという。
第二橋はこの橋より南一町になったようだが、
橋柱は九条通りの高架下に保存されている。
第三之橋がこの橋で、ニの橋から南二町ばかりで、
東福寺の通天橋下から加茂川に流れ下る。
第四橋は、伏見区深草直違橋一丁目の七瀬川に架かっている。 」
このあたりの川は伏流水が多いので、伏見を伏水ともいうようだ。
橋を渡ると左側に門が見えたので、近づくと 「東福寺中大門(桃山時代)」
の標柱があった。
その門をくぐると、東福寺の塔頭が両側に並んでいた。
x | x | x | ||||
伏水街道第三橋 |
◎ 雪舟庭園のふん陀院
右側に「 雪舟寺 」「 ○陀院 」の看板がかかる山門がある。
( ○はくさかんむりに分という字で、ふんと読む )
傍らの説明板
「 ふん陀院は東福寺の塔頭で、元亨年間(1331〜1324)に時の関白一条経通公が、
東福寺の開山である聖一国師の法孫・定山租禅和尚を開山に迎えて創立した。
水墨画などで有名な雪舟等楊禅師が東福寺に参るときは必ず当院に身を寄せ、
庭を作ったので、雪舟寺ともいう。 」
山門をくぐり、両脇が苔に覆われた石畳の参道を歩き、 左折すると大玄関があった。
「 当院は一条家の菩提寺として今日まで続くが、
元禄四年(1691)に羅災した時は関白一条兼輝により復興した。
この建物は宝暦五年(1755)の火災後、
桃園天皇の皇后・恭礼門院の御殿の一棟を賜って、移築し、
明治二十二年(1899)昭憲皇大后から御内帑金を下賜されて改築したものである。
唐門も同じく、恭礼門院の御所から移転したものである。 」
拝観料三百円を支払い、中に入ると、 方丈の南側に寛正年間に雪舟が作ったと伝えられる庭があった。
「 雪舟は備中の産で、少年時代は備中の宝福寺で過ごした後、 京都の相国寺で修業し、 享徳三年(1454)頃、守護大名大内氏の庇護を受けるため、周防に下った。 応仁二年(1468)、遣明船に同乗して明国に渡り、中国の画法を学び、帰国後、 独自の山水画を確立した人物である。 」
この庭園が作庭された寛正年間(1460〜1466)は、雪舟は京都を去り、
山口に画室を構えていたはずだが、備中の宝福寺が東福寺の末寺だったので、
訪れる機会があったのだろう。
この庭園は「鶴亀の庭」とよばれる禅院式枯山水庭園である。
手前に白砂、その奥は苔で覆われ、その奥に皐月と借景になっていて、
苔の上にある石組が亀と鶴を表している。
右の亀島は二重基壇により亀の姿を、左側の鶴島は折鶴を見事に表徴している。
なお、現在の鶴亀の庭は、重森三玲氏が昭和十四年(1939)に復原修理したものである。
当院でいただいたパンフレットには、
「 雪舟が本山に参りました時は当院に起居していたということです。
当院の大檀徒であった一条兼良公は、雪舟が少年時代、
涙で鼠を描いたという逸話を思いだし、亀を描くことを所望されましたが、
雪舟はなかなか筆をとらず、日を過ごしていた。
ある日、雪舟は庭に出て砂を整え、石を動かし、数日後には絵の代わりに、
石組の亀を作りだした。
この亀が夜になると動き回ることに驚いた鶴栖和尚が雪舟に話すと、
雪舟は亀の甲に大きな石を載せて抑えたので、
その後は動かなくなった。 」 と書かれていた。
x | x | x | ||||
雪舟庭園「鶴亀の庭」 |
東庭は重森三玲氏が作庭した枯山水庭園である。
「 ウマスギゴケを一面に敷き詰めた中に岩が点々とあるが、 これらは鶴亀の島を意味するもののようで、 近景の鶴島を中心に蓬莱の連山を表徴しているといわれる。 」
東庭の奥に見える丸窓の建物は「茶関白」といわれるほど茶道を愛した、 一条恵観(昭良)好みの茶室・図南亭である。
「
一条昭良(恵観)は、後陽成天皇の第九皇子で、一条家第十四代の当主で、
東福寺に参詣の際は図南亭にて茶を楽しまれたと伝えられる。
彼の薨去後、恵観の御像を図南亭に安置していたが、
図南亭は宝暦の火災で本堂と共に焼失した。
現在の図南亭は、昭和四十四年(1969)、恵観の三百年忌の法要の際、
復原されたものである。
恵観堂と称することにしたといい、
四畳半の茶室の中には恵観像が祀られている。 」
明りとりの窓は四角のもあったが、丸窓からは東庭が見ることができた。
西側にある庭は辻庭のように狭かったが、そこには敷石がうまく配置され、
その奥に恵観の愛好した曲玉の手水鉢と崩家形燈籠が置かれていた。
これらの道具は当院と一条家の深いきずながあること、
そして、一条恵観公の在りし日が偲ばれるものと感じた。
当院を出ると、民家の前に白い花が咲いていた。
六枚の花弁で、葉がみずみずしいので、クチナシだろうが、美しかった。
x | x | x | ||||
西庭 |
◎ 桔梗の寺・天得院
東福寺に向かって歩いていくと、左側の山門に東福寺保育園の看板の脇に 「 桔梗の寺天得院 特別拝観期間6月中旬〜7月上旬 」 の看板も架けられていた。
「 天得院は、南北朝時代の正平年間(1346〜1370)、 東福寺第三十世住持・無夢一清禅師により創建され、 東福寺五塔頭の一つとして隆盛した。 その後、一時衰退したが、大機慧雄禅師により再興された。 慶長十九年(1614) 東福寺長老、南禅寺長老だった文英清韓が、 住持(住職)になったが、文英清韓が方広寺の鐘銘事件で失脚すると、 天得院は取り壊された。 」
方広寺の鐘銘事件
「 文英清韓が豊臣秀頼の依頼により、方広寺の鐘銘を撰文したが、
銘文中の「国家安康 君臣豊楽」の部分が徳川家を呪うものとして、
家康の怒りを買い、大仏供養が延期され、清韓は南禅寺を追放され、
天得院は取り壊された。
現在の堂宇は徳川幕府の誕生から百数十年たった天明九年(1868)に再建されたものである。 」
山門前の塗壁塀の前にはカシワアジサイの白い花と、
季節的には少し早い気がするが、萩の赤い花が咲いていた。
花の寺として知られる天得院らしいと思った。
山門を入っていくと左側に建物があった。
天得院は桔梗と萩が咲くこの時期と紅葉の十一月しか中に入ることができない。
今年は二日前の十七日(金)にオープンしたばかりで、
拝観料五百円を支払って中に入ると、
建物の左側(西側)にスギゴケの庭園があった。
この庭園は桃山時代に作庭されたといわれる枯山水庭園で、
庭全体を覆うみずみずしい杉苔、それに、
石組と常夜燈と奥の樹木で構成されていたが、
今日この庭に訪れた人のお目当ては桔梗である。
x | x | x | ||||
天得院 |
庭のスギゴケの中に多くの桔梗が植えられているが、
公開されて三日目の今日は咲いている花はわずかだった。
それでも、咲いてる花は、清廉で愛しかった。
廊下の先にはかわった形の明かりとり窓があり、
そこから庭をみることができた。
お目当ての桔梗はわずかしか咲いていなかったが、
しっとりした苔の風情が悪くなかったので、しばらく座って庭を眺めていた。
建物を出たところに植栽がある。
その一角に 「 お父ちゃんが笑ったときは仏さまの顔だよ
お母ちゃんが笑ったときは仏さまの顔だよ 東福寺保育園へ 花岡大学 」
の石碑があった。
「 花岡大学は奈良県吉野の浄迎寺の住職だが、 仏教経典に基づいた童話を数多く創作した童話作家・小説家である。 」
そこから少し離れたところに 「 石のしたしさよ しぐれけり 井泉水 」 と書かれた歌碑がある。
歌碑の句は天得院に隠棲時代に詠まれたものという。
「 荻原井泉水は明治十七年東京に生まれ、
同四十一年(1908) 東大文学部を卒業、同四十四年、
自由律俳誌 「層雲」 を主宰し、そこから種田山頭火や尾崎放哉を輩出した。
同年、谷桂子と結婚したが、大正十二年に妻子、翌年、実母を亡くしたため、
仏門を志し、大正十三年〜十四年に天得院に隠棲した。
また、西国巡礼も行っている。
井泉水は昭和四年に再婚し、翌年長男海一が誕生し、
昭和五十一年に享年九十一才で延命地蔵のお告げ通り天寿を全うしている。
長男の海一さんはどういう経緯かは知らないが、トヨタ自動車販売に入社され、
小生は同じ職場で数年間一緒であった。
当時は荻原井泉水の子息であることは知らず、
職場の先輩としてたまに飲みに行くという関係だったが、
温厚ないつも笑みを絶やさない紳士だったと記憶している。 」
天得院の対面には秋の紅葉で有名な東光寺がある。
紅葉時期に特別公開があるようだが、今日は拝観を受け付けていなかったので、
覗きこむだけで終わった。
x | x | x | ||||
花岡大学の石碑 |
◎ 東福寺
正面に東福寺の日下門があったので、門をくぐると左側に鐘楼と経堂があった
その先にある三門(山門)は応永十二年の建立で、京都五山の中で最も古く、
国宝に指定されている。
「 足利義持揮毫の「妙雲閣」の扁額を掲げる三門は、 南禅寺、知恩院と共に京都の三大門と称され、 上層には釈迦如来と十六羅漢が安置されていて、 登ると雄大な景色が楽しむことができる。 」
三門の先には東福寺の本堂がある.
「
本堂は昭和九年(1934)に再建されたものである。
明治十四年の大火で焼失したのを起工から竣工まで十七年をかけて復興させた、昭和の木造建築中最大の建物である。 」
「 貞和三年(1347)に再建された単層、裳階付の切妻造の建物で、 日本で最大で最古の禅堂ということから、国の重要文化財に指定されている。 」
x | x | x | ||||
本堂 |
左に三門を見ながら進むと六波羅門があり、そこから外に出て、 左折すると勅使門があった。
「 勅使門は、桃山時代の天正十五年(1594)に建立された門で、 明治十八年に移建されたという。 」
門前の右側には 「 維新戦役 防長藩士の墓所 ↑」 「 仲恭天皇九条陵 崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵 参道 」 という道標が建っていた。
「 仲恭天皇は鎌倉時代の天皇だが、
わずか八十一日で廃されたので、九条廃帝と呼ばれたが、
明治維新の見直しで、仲恭天皇と追号された天皇である。
深草本山町の九条陵が陵墓に指定されているが、
先程通ってきた東山本町陵墓参考地が陵墓という伝承があり、
その方が有力のようである。 」
その先の交叉点を渡ると左側の石段の上に東福寺塔頭の正覚庵がある。
「 正応三年(1290)に、東福寺五世・山叟恵雲を開山として、 鎌倉時代の武将、伊達政依(伊達政宗の五代前の祖先)が創建した、 と伝えられる寺である。 」
境内の威徳堂(?)の隣に江戸時代後期の文化年間(1804-1818)に築造された
筆塚があった。
「筆の寺」として有名で、毎年十一月二十三日に筆供養が行われるが、
その時以外は非公開の寺である。
x | x | x | ||||
正覚庵 |
◎ 光明院
更に南下すると左側に「雲嶺庭」「摩利支尊天」の石碑があり、 山門には「光明院」とあった。
「 光明院は東福寺の二十五ある塔頭の一つで、 明徳二年(1391)に金山明昶(きんざんみょうしょう)により、 創建された寺である。 」
石段を上って山門をくぐると植え込みのある玄関に出た。
玄関に竹筒があるので、志納(お金)を入れて中に入ると、
白砂と苔の間に岩を並べた庭が広がっていた。
「
この庭は昭和十四年(1939)に重森三玲により作庭された、「波心の庭」と名付けられた庭園で、このことから光明院は 「虹の苔寺」 とも言われるようである。
庭園の背後にサツキやつつじが植えられているが、
よく見ると変わった形をしているが、
この刈り込みは「雲紋」になぞられているとのことだった (右下写真)
秋には樹木が紅葉し、吉野窓を通して見る紅葉に風情があるようなので、
機会があればその時期に訪れたいと思った。
x | x | x | ||||
波心の庭 |
以上で、東福寺の塔頭の庭めぐりは終了である。
大変見ところが多い処で、満足した。
目のゲストです!!