◎ 六角堂
KKR京都くに荘で開かれた舎友会(同窓会)の翌日、平成二十七年(2015)
一月十九日、ホテルを出ると六角堂へ歩いて行った。
六角堂は烏丸四条から北に三筋を右に入った六角通りに面する寺で、
正式には紫雲山頂法寺といい、用明天皇二年(587)に聖徳太子により創建されたと伝えられる。
説明板「六角堂」
「 聖徳太子が四天王寺建立の用材を求めて当地を訪れた時、
霊告によりこの地に御堂を建て、
守護神の観音像を安置したのが始まりと伝えられ、
弘仁十三年(822)には嵯峨天皇の勅願所となり、
長徳二年(996)には花山法皇の御幸があり、
西国33ヶ所観音霊場となったと伝えられる。
本堂が六角の建物なので、六角堂と呼ばれ、華道池坊で知られる。
数多くの火災により寺院は焼失したが、その都度再建され、
現在の建物は明治十年(1877)の建物である。
本尊の如意輪観音は御丈八分(約5.5cm)と小さい。 」
境内には聖徳太子を祀った太子堂があり、 聖徳太子の二歳の頃の南無仏像が安置されている。
「
この地は聖徳太子が沐浴した池の跡ともいわれ、
池のほとりに小野妹子を始祖とする住持の寺坊があったことから
池の坊と呼ばれ、この池の坊の代々の執行により、いけばなが完成したので、
六角堂はいけばな池の坊の聖地である。
室町時代前期の寛政三年(1462)、六角堂の僧侶・池坊専慶が武士に立花を挿し、京都の人々の間で評判になってから、
これまでの仏前供花や神の依代といった枠を越えた座敷飾りの花として、
日本独特の文化・いけばなが成立した。
江戸時代に入り、十六世紀後半、池坊専応はいけばな理論をまとめ、
花伝書を弟子に相伝するようになった。
江戸時代後期、池坊専定が理想的な樹形を作る幹作りによる立花の革新、
生花の伝授形態の整備などが行われ、
池坊は数万人の門弟をかかえるようになった。 」
六角堂 | |
◎ 今宮神社
六角堂で御朱印をいただいた後、御池通りに出て二条城まで歩いた。
二条城の東大手門前にくると工事中でそこからは入れないとあった。
北側に入口はあるが、この時期は咲いている花もないので、入るのはやめて、
千本北大路へのバスにのり、今宮神社に向う。
京都にはしばしば訪れているが、洛北にはあまり行っていなかった。
下鴨神社〜上賀茂神社へは行っているが、鷹ヶ峯には亡くなった妻が池坊から免許皆伝の看板を頂き、
その後、六角堂と光悦寺、源光庵、常照寺と訪れたが、
小生は仕事に熱中していた時代で、
茶道には関心はなく、光悦垣という独特の竹組みが印象に残った程度だった。
その時、大徳寺にも立ち寄っただろうと思うのだが、記憶にない。
妻に聞ければ笑って答えてくれるのだが、もうそれも出来ないのは悲しい。
そんなことを思っているうちに、今宮神社もよりのバス停に到着し、
地元の人に道を伺い、今宮神社へ向った。
「
今宮神社は平安時代、一条天皇の正暦五年(994)、厄病を払うため、
当社地の厄神を二基の神輿にお祓いをこめて
船岡山に安置し、神慮を慰め奉って悪病退散を祈ったのが紫野御霊会であり、
今宮祭の起源である。
長保三年(1001)に船岡山から現在地に奉遷され、
新たに設けられた神殿三宇とともども今宮社と名付けられた。
これが今宮神社の起源である。
徳川綱吉の生母桂昌院はこの地の八百屋の娘で、
元禄七年(1694)、荒廃していた社殿の造営などを行ったことから、
祭礼も往時のような盛況を取り戻したと伝えられる。
明治二十九年本社殿を焼失したが、同三十五年に再建し、その後も西陣をはじめ多くの人々の崇敬を集めている神社で、
玉の腰神社の異名もある。
また、毎年四月に厄病退散を祈願して、やすらい祭が行われている。 」
小生が訪れた目的の一つが門前のあぶり餅である。
門前の一文字和助事 一和に入り、食べた。
「
あぶり餅はきな粉をまぶした親指大の餅を竹串に刺し、
炭火であぶったあと白味噌のタレをぬった餅菓子である。
一文字和助事 一和は、
現在で二十三代目という老舗で、
長保二年(1000)、神社の神前にこの餅を供え、
持ち帰って食べれば厄病から逃れるといわれ、
今宮神社参道で応仁の乱や飢饉のとき庶民に振舞ったといういわれがある。
また、あぶり餅で使われる竹串は今宮神社に奉納された斎串(いぐし)で、
今宮神社で毎年四月に行われるやすらい祭の鬼の持つ花傘の下に入ると、
御利益があるのをたとえとし、
食べることで病気・厄除けの御利益があるとされる。 」
あぶり餅はお茶付きで500円。 腹の足しにはならない少量だが、 これで今年も健康で送れそう!! である。
今宮神社 | あぶり餅 |
◎ 大徳寺
大徳寺に向う。
「 大徳寺は鎌倉時代末期に宗峰妙超により開創された寺であるが、 応仁の乱後荒廃した。 文明年間に一休宗純が復活した臨済宗大徳寺派の大本山である。 桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、 信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、 それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。 」
大徳寺は勅使門から山門、仏殿、法堂、唐門、大方丈へと続き、 周囲に二十三もの塔頭が並ぶ姿は荘厳である。
「
勅使門は後水尾天皇の寄進と伝えられ、前後唐破風、左右切妻、屋根桧皮葺きの四脚門である。
山門(三門)は応仁の乱後、一休禅師の参徒連歌師宗長等が一階部分を寄進、
のちに千利休居士により二階部分が設けられ、金毛閣と名付けられた。
利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい、
利休居士が自決する原因になったと伝えられる門である。 」
京都の他の寺院と違い、入れるのは龍源院、瑞峯院、高桐院、 大仙院の四塔頭だけである。
「
龍源院は室町時代の文亀二年(1502)、畠山義元、大友義親らにより創建。
方丈を囲んで四つの庭園があり、北は竜吟庭、南は一枝担の庭という。
瑞峯院は大友宗麟が天文四年(1535)に創建した寺で、
方丈を囲む三方に独座庭、茶庭、閑眠庭がある。
高桐院は慶長六年(1601)、細川忠興により建立された。
千利休邸を移築した書院の意北軒や黒壁の茶室の松向軒がある。
大仙院は永正六年(1509)に創建された寺院で、
国の特別名勝となっている枯山水庭園が方丈を取り巻くように展開している。 」
大徳寺には大徳寺納豆の店があり、
大徳寺納豆本家 磯田は十八代続く老舗だという。
大徳寺は格式が高くて気楽に入れない気がして、
そこくさと大徳寺をあとにして、京都駅から自宅の船橋市へと帰宅した。
大徳寺勅使門 | 山門 |
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