平成三十年(2018)一月二十二日と二十三日、 娘の刀剣乱舞の御朱印巡りに付き合って、神社、仏閣を御参りした。
一月二十三日(火)、昨日に続き、新春の神社・仏閣めぐりを行う。
最初に向ったのは深草の藤森神社である。
◎藤森神社
四条大宮のホテルを出て、バスで四条京阪、京阪電車で墨染駅で降り、
歩くこと五分で到着した。
「勝馬 馬の社」の看板があり、「藤森神社」の石柱と燈籠の先に
石造りの鳥居があった。
「説明板」
「 正徳元年(1711)の銘がある。 この鳥居は額がないが、
昔は水尾天皇宸筆の額が掲げられていて、前の道が江戸時代、
西国大名が参勤交代の際、通る街道になっていたので、
各大名はこの前で駕籠から降り、拝礼して槍などを倒して通行した。
幕末の動乱期に新撰組の近藤勇がそうしている時ではないと、
額をはずしたといわれる。 」
鳥居をぐくると左手に絵馬堂があるが、馬の大きな絵馬がある。
手洗い場脇には新しいと思うが、馬の銅像がある。
「 征討将軍・早良親王が陸奥で反乱が起こったとき、 当社に詣でて戦勝を祈願し、出陣の日が五月五日である。 毎年五月五日に行われる藤森祭は菖蒲の節句発祥の祭と言われ、 各家々に飾られる武者人形には藤森の神が宿るとされる。 菖蒲は尚武に通じ、尚武は勝負に通じるので、勝運を呼ぶ神として信仰を集め、 藤森祭に奉納される駈馬神事が、馬の神事であることから、 馬の神として信仰され、 馬主、騎手、競馬ファンの祭典が毎年行われて多くの人々の参拝がある。 」
勝馬にあやかりたい人が多いのだなあと思った。
その先に藤森神社の拝殿があった。
拝殿のそばに「 むらさきの 雲とぞよそに 見えつるは 木高き藤の
森にぞありける 」
という待宵の小侍従作の歌碑があり、古に藤の叢林があったと思われる。
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歴史をさかのぼれば、近郊にあった三つの社が合祀され、
現在の藤森神社となった。
そのことを示すのは本殿で、東、中、西の三座から成りたっている。
本殿の前の左側には「重要文化財 藤森神社 旧御所建所」の標札と
「日本書紀編纂者 学問の祖 神舎人親王御神前」の石柱が建っている。
中殿は正徳二年(1712)に中御門天皇より下賜された宮中内侍所で、
現存する賢所としては最も古い。
「
本殿の中殿(中座)の祭神は、素盞鳴命、別雷命、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、
神功皇后、武内宿禰の七柱である。
神功皇后が摂政三年(203)、新羅から凱旋した際、
山城の国深草の里藤森の地を神在の聖地として撰び、戦旗(軍中の大旗)を立て、
兵具を納め、塚を造り、神祀りされた、
それが当社の始まりである。
本殿東殿(東座)の祭神は舎人親王、天武天皇の二柱である。
天平宝字三年(759)、深草の里藤尾の地に、
崇道尽敬皇帝(舎人親王)を祀る神社として創建されたもので、
元は「藤尾社」と称していた。
永享十年(1438)、後花園天皇の勅により、
時の将軍足利義教が山頂の稲荷の祠を三麓の藤尾の地に移し、
ここにあった藤尾社の藤尾大神は藤森の当社に遷座し、東殿に祀り、
官幣の儀式が行われ、当社に合祀された。
本殿西殿(西座)の祭神は早良親王、伊豫親王、井上内親王の三柱である。
早良親王はかねてから当社を崇敬していたが、陸奥で反乱が起こったとき、
征討将軍となり、当社に詣でて戦勝を祈願され、
出陣しようとすると、これを伝え聞いた反乱軍は畏怖し、
乱は戦わずして平定された。
早良親王は、延暦四年、事に座して淡路に流される途中で亡くなった。
延暦十九年(800)、親王は崇道天皇と追号され、
早良親王を祀る神社として塚本の地(東山区本町)に創建された。
天長三年、伊豫親王、井上内親王の二柱を合祀し、官幣の儀式が行われた。
塚本の宮は、たびたびの火災により、小天王の地(深草西出町)へ移り、
応仁の乱で焼失したため、三柱は藤森に遷され、
文明二年(1470)に当社の西殿に合祀された。 」
本殿の右奥(東)に神功皇后凱旋の旗塚がある。
延暦十三年(794)、桓武天皇より「弓兵政所」の称が授けられ、 遷都奉幣の儀式が行われた。
本殿の左右後方に、末社の八幡宮、大将軍社の社殿がある。
八幡宮は国の重要文化財に指定されている。
永享十年(1438)、 足利義教により建られた当時は本殿と並んで一列に建っていたとみられている。
吉田兼倶の「藤森社縁起」、あるいは『拾遺都名所図会』巻五等によると、
「
光仁天皇の天応元年(781)に異国の蒙古が日本へ攻め寄せ、
早良親王が大将軍となり率いた軍勢がこれを退けた。
その際当社に祈願したことより当社に「弓兵政所」の異名がつき、
また、境内にある蒙古塚はこの時の蒙古軍の大将の首を埋めたものと伝わる。 」
刀剣乱舞の御朱印めぐりの一つになっているのはうなずけると思った。
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深草の藤森神社参拝後、宇治にむかった。
「 宇治は源氏物語の宇治十帖の舞台になったところであり、 藤原家の栄華を極めた鳳凰堂がある地である。 」
京阪宇治駅を降り、橋は渡らずに宇治川の左を川沿いに進むと、 橋寺放生院(はしでらほうじょういん)があった。
橋寺放生院は真言律宗の寺院で、正式の名前は雨宝山常光寺で、
本尊は地蔵菩薩立像である。
橋寺の由来は、
近くの宇治川に架かる宇治橋をかつて当寺が管理していたことによる。
寺伝によれば、 「 推古天皇十一年(603)、
聖徳太子の命を受けた秦河勝が、宇治橋を架けた折、当寺も開創された。 」
とする。
但し、境内にある「宇治橋断碑」の碑文によると、
「 宇治橋は元興寺の僧・道登によって大化二年(646)に架けられた。
鎌倉時代後期の弘安四年(1281)、
勝宝山西大寺(南都西大寺)の再興などで知られる僧・叡尊によって、
当寺も再興された(感身学生記)が 文明十一年(1479)、兵火に遭い、
室町幕府の援助などにより復興されたが、江戸時代の寛永八年(1631)にも火災に遭い、焼失した。 」 とある。
その先に、「正覚院」という小さな寺があるが、「開運不動尊」の石柱があり
、開運というので御朱印をいただく人が多いようである。
由緒などは不明だが、
江戸初期の「京名所絵巻」に載っていることから
この頃には存在していた、とされる。
「境内の説明板」
「 その昔、暴れ川と呼ばれた宇治川を船で往来する際には、
必ず当院に立ち寄って安全祈願したといわれ、
このいわれから交通安全の寺として親しまれるようになった。
当院の本尊・不動明王は交通安全のみならず、
新たな道を歩もうとする人々を導くともいわれ、
当院に結びわらじと呼ばれる 願いを込めた草鞋を奉納する慣わしが残っているとされる。 」
未多武利神社(またふりじんじゃ)の小さな社があった。
「説明板」
「 宇治は無常さを意味する「憂し」に通じるともいわれ、
藤原一族の栄華の舞台となる一方、
この宇治の地は失意にひしがれた人々も受け入れてきた。
宇治民部郷と呼ばれた藤原忠文もその一人で、天慶二年(940)に参議となり、
翌年、征夷大将軍として、関東の平将門の乱の平定に向ったが、
到着以前に将門は討たれ、事件は解決していた。
大納言藤原実頼により、恩賞の対象から外された忠文は実頼を深く恨み、
死後もその一族にとりついて祟ったといわれる。
未多武利神社はこの忠文の怨霊を鎮魂する祠といわれている。 」
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◎宇治上神社・宇治神社
この角を左折して坂道を上っていくと、
右側に「早蕨之古蹟」と書かれた小さな石碑と石柱がある。
ここは紫式部が書いた源氏物語の宇治十帖の四、
「早蕨」にゆかりのあるところで、源氏物語の早蕨の章の一部が記されていた。
「 年改まり、宇治の山荘にも春が来た。 今年も山の阿闍利(あざり)から蕨や土筆などが贈られてきた。 中君は亡き父君や姉君をしのびつつ、 「 この春はたれにか見せん亡き人の かたみにつめる峰の早蕨 」 と返歌された。 二月の上旬、中君は匂宮の二条院へ迎えられた。 行先に不安を感じつつも幸福な日々は続く。 夕霧左大臣は娘の六君を匂宮にと思っていたので、失望し、 薫君にと内意を伝えたが、 大君の面影を追う薫君はおだやかに辞退した。 花の頃、宇治を思いやる薫君は二条院に中君を訪れては懇ろに語るが、 匂君は二人の仲を疑い始める。 」
ここまで来て、亡くなった妻が源氏物語を通読し、
とくに宇治十帖は気に入り、小生に宇治に連れていって!!といわれ、
宇治十帖のゆかりの地を探して歩いたことを思い出した。
そういえば、この先に源氏物語の記念館があるのだが、同行した娘は興味がないので、ここはパスして、宇治上神社に向う。
宇治上神社の本殿は平安時代後期の造営で、神社建築としては現存最古とされ、
国宝に指定されている。
「 宇治上神社の創建年代などは明らかではないが、
その下にある宇治神社と二社一体の存在だったようで、
延喜式神名帳で宇治神社二座のうち一座に比定される古社である。
本殿の外側は桁行(正面)は五間、梁間(側面)は三間の流造、檜皮葺きで、
内殿の覆屋にあたる建物で、
その中に一間社流造の内殿三棟が左右に並ぶ構造になっている。
内殿と覆屋は構造的に一体化しており、
左殿と右殿の側廻りや屋根部分は覆屋と共通になっている。
左殿と右殿は組物が三斗で、組物間に蟇股を置くなど、形式、規模はほぼ等しいが、
細部の様式から左殿の方が年代が上がるとみられる。
中殿は左右殿より規模が小さく、組物を舟肘木とし、蟇股を用いないなど、
形式にも違いがある。
左殿の扉絵は唐装の童子像二体、右殿の扉絵は束帯、持笏の随身像二体で、
剥落が多いが、
平安時代にさかのぼる垂迹画の作例として貴重で、建物とは別個に絵画として、
国の重要文化財に指定されている。
内殿の左殿には菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)、
中殿には第十五代、応神天皇、
右殿には第十六代、仁徳天皇の三神が祀
古事記では宇遅之和紀郎子と表記されているが、
応神天皇の子で、天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、
異母兄の大鷦鷯尊(仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺した、という美談で知られる。 」
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本殿前にある拝殿は鎌倉時代前期の造営で、寝殿造の遺構といわれる。
「 切妻造、檜皮葺き、桁行六間、 梁間三間の主要部の左右に各一間の庇が付けられている建物で、 桁行六間のうち、向かって左端の一間は柱間が狭く、 隣接する庇部分とともに閉鎖的な一室を構成している。 建物右端の庇部分も一室となり、これらに挟まれた中央の桁行五間、 梁間三間は広い一室になっている。 切妻造平入りの屋根の左右端に、 片流れの庇屋根を設ける縋破風(すがるはふ)屋根である。 周囲には榑縁(くれえん)をめぐらし、内部は板床と天井を張り、 蔀戸を多用した住宅風の構えの建物で、 本殿と共に国宝に指定されている。 」
拝殿前の清め砂は妻と訪れた当時は富士山のように大きく積まれていたが、
今回は結界で囲まれ小さなものになっていた。
境内には「桐原水」と呼ばれる湧き水があり、
宇治七名水のうちでは唯一現存するものである。
鳥居を出て、下に行くとその下の斜面に宇治神社がある。
「
延長五年(927)h編纂の延喜式神名帳の山城国宇治郡に
「宇治神社二座 鍬靫」の記載があるが、
この二座は宇治神社と宇治上神社に比定される。
神名帳の「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬や靫の奉献があったことを意味する。
近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。
明治以前は宇治上神社は上社とか本宮、宇治神社は下社とか若宮と呼ばれたほか、
両社を合わせて宇治離宮明神(八幡)と総称されたが、
明治に入り、宇治上神社とは分離し、現在名になった。 」
鳥居の奥にある本殿は、鎌倉時代初期の建設で、国の重要文化財になっている。
「 三間社流れ造り桧皮葺きの社殿である。
殿内中央には平安中期の菟道稚郎子命の木造彩色坐像が安置されている。
坐像は等身大の男神像で、衣冠、笏を持つ坐像俗体像で、
国の重要文化財に指定されている。 」
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境内の中央にあるのは桐原殿で、宇治神社の拝殿であるという。
「 この境内は、山城国風土記にある菟道稚郎子の離宮・ 桐原日桁宮の旧跡であると伝えられ、両社旧称の離宮明神もそれに因むといわれる。 」
宇治上神社や宇治神社の境内には、
「天降石」や「岩神さん」と呼ばれる巨石があり、
磐境信仰による創祀という説もあるようだが、
宇治神社の建つ場所はそれを象徴する雰囲気だった。
鳥居を下に降りると、正面は宇治川で、「宇治十帖」の石碑があった。
妻と訪れた時、記念写真を撮ったところである。
橋を渡り、中州に出た。 平等院には右手の道が近いのだが、工事中なので左に迂回して、対岸に出た。
このあたりは御土産物屋や食べ物やがある。
昼に近かったので、喜撰茶屋で茶そばと天婦羅の定食を注文し、しばらく休憩した。
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◎宇治平等院
休憩後、平等院に向い、平等院南門駐車場側から入った。
説明板「平等院旧南門」
「 南門は伏見桃山城からの移構とされ、
江戸時代初期伝来の古図と比較しても場所、規模ともに変動はない。
垂木等も江戸時代以前の特徴である先端が細く大胆な反りで、
天井板を備えた古式武家門の姿を良く残す。
平成二十二年夏の古典技法による再塗装工事の際、
主要部材の殆どが稀少な赤樫の巨木であることが判明。
固く火に強いことから戦国期の城門などに使用されたことが記録に残るが、
ねじけが起きやすい樫材による建造物はこれまで日本で確認されたことがなく、
城造りの天才として知られた秀吉による城門「薬医門」の現存する最古の建築として注目される。 」
以前訪れた平等院は寂びれた感じだったが、
その先の右側に博物館が作られたりして、お金を取る仕組みに変わっていた。
その結果、外国人も多く訪れ、大変な賑わいである。
その先の左側に「養林庵書院」の説明板があったが、非公開なので、入れない。
「 国の重要文化財 単入層入母屋造飛檜皮葺き 養林庵書院は慶長六年(1601)加傳和尚が伏見城から移建したと伝えられる。 広縁中央には寛永の三筆の一人、松花堂昭乗の「養林庵」の扁額がかかり、 内部には狩野山雪工房による「籬に梅図」山楽による床壁絵「雪景桜閣山水図」が 描かれている。 落着いた書院と仏間、茶室という三つの要素を持ち、随所に桃山様式を残す、 細川三斎(忠興)の作といわれる洗練された平庭枯山水と見事に調和する。 」
その先の左側に浄土院がある。
「
浄土院は平等院の塔頭で、浄土宗の栄久上人が明応年間(十五世紀後半)に平等院の修復の為に開創したと伝わり、
都名所図会には平等院奥院、浄閣などと示されている。
江戸時代には養林庵や知覚院など、
浄土宗の子院が鳳凰堂の西南に多数存在したというが、
現在の平等院は、天台宗系の最勝院と浄土宗の浄土院という二つの寺院が共同で管理している。 」
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浄土院本堂には復元された救世船乗観音が祀られていた。
「
江戸時代以来、現在の鳳凰堂の南西角あたりに旅の安全と無事を祈願し、
浄土院の子院として観音堂が建立されていた。
本尊は波型の台座に船に乗る、俗に言う「船乗観音」である。
旅の安全を祈る旅人や家族の方、航海の無事を祈る方、
人生を長い旅路として一生涯を無障に願う人々など、
交通の要衝である宇治の鳳凰堂の中で、大変篤い信仰を受けていた。
戦後まもなく盗難にあい、それ以後、厨子と台座と守護札だけが残った。
ここに祀られているのは仏師村上清氏により復元されたものである。 」
羅漢堂は、寛永十七年(1640)に宇治茶師の星野浄安道斎父子が京の大工や仏師に依頼して建立したものである。
「 桁行三間、梁行二間の単層入母屋造本瓦葺きで、 その位置や主要部材は建築当時のままとされ、 内部の天井には龍の彩色画が描かれている。 和様が主流の鳳凰堂内の建築群の中で禅宗様を主体とした特異な存在である。 」
その先に天台宗系の最勝院・不動堂があり、境内には源三位源頼政の墓があった。
「
源頼政は保元平治の乱で武功を挙げ、平清盛の奏請により、
源氏として初めて従三位に叙せられた。
歌人としても名高く、勅撰集に優れた和歌を多く残している。
治承四年(1180)五月二十六日、平家追討の兵を挙げた頼政は宇治川で、
平和盛の軍の追撃を受け、平等院の境内で自刃した。
(辞世の歌) 埋もれ木の花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ悲しかりける 」
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平等院鳳凰堂を見学するには受付で予約し、二十分ごとにまとめて堂内に案内される。
「
平等院は永承七年(1052)、藤原頼通が父、道長の別荘だった宇治殿を寺院に改めたのが始まりである。
創建当時は大日如来を御本尊とする本堂が鳳凰堂の北にあり、
永承八年(1053)に西方極楽浄土を具現化した阿弥陀堂(鳳凰堂)が建立された。
当時末法思想が蔓延していて、頼通も死後の世界で極楽往生することを願って建立した訳で、周辺には浄土式庭園が広がっている。
堂内には仏師定朝による阿弥陀如来像が祀られ、周りで五十二体の雲中供養菩薩像が音楽を奏している。 」
前回訪れた時と色々なところで変わっていた。
「
まず、池の形だが調査の結果に基づき、創建当時の姿に戻したという。
その結果、建物が池の中に浮ぶ姿はなくなった。
鳳凰堂への入堂も池の北岸から二つの小橋を渡る当初の形式に復されている。
また、剥がれ落ちそうに劣化していた壁扉画は復元され、
屋上に戴く鳳凰と雲中供養菩薩像の半分がレプリカに変わり、
本物は鳳翔館(博物館)に収納されている。 」
娘と二人で鳳凰堂の中に入り、阿弥陀如来にお参りをした。
境内北側、表門を入って左側に建つ観音堂は、本堂跡に建てられた鎌倉時代初期の建築で、
国の重要文化財に指定されている。
以前は平安時代後期の作である本尊十一面観音立像が安置されていたが、
今は鳳翔館に移されている。
これで新春の神社・仏閣めぐりは終了である。
平等院鳳凰堂 |
今日いただいた御朱印です。。。。
藤森神社 | 宇治上神社 | 鳳凰堂 |
目のゲストです!!