◎ 随心院
醍醐寺からバスに乗り、十六時二十分過ぎに随心院に到着した。
「大本山随心院」の看板がある総門がある。
「 総門は宝暦三年(1753)に二条家より移築したものである。 」
門を入ると、丹精を込めた生垣があり、右側は小野梅園である。
初春には美しく香りの高い梅の花が咲くのだろう。
「
随心院は、京都市山科区小野御霊町にある真言宗善通寺派の大本山である。
仁海僧正が、正暦二年(991)に一条天皇より、
小野氏邸宅の隣を寺地として下賜され、
一寺を建立し、牛皮山曼荼羅寺と称した。
その後、第五世、増俊の時代に曼荼羅寺の塔頭の一つとして随心院が建てられた。
ついて、第七世親厳大僧正の時、門跡寺院となり、以後、
一条家、二条家、九条家などから、多く入寺し、多くの伽藍が建造され、
また、多くの寺領も有した。
しかし、承久の乱・応仁の乱により、伽藍はことごとく焼失した。
慶長四年(1599)に本堂が再建され、以後、九条二条両家より、門跡が入山し、
両宮家の由来をもって寄進再建された。 」
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その先に「拝観入口」とあるが、左側に「弘法大師」の石柱があり、
山門のある寺は大乗院である。
この寺の詳しいことは分からないが、真言宗善通寺派の寺院で、
頂妙寺の塔頭のようである。
「拝観入口」右側に進むと、随心院の薬医門がある。
「 寛永年間(1624〜1631)の建立で、
九条家ゆかりの天真院尼の寄進である。 」
「拝観入口」から中に入ると、「小野小町歌碑」の石碑があり、 その左側に
「 花のいろは うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 」
と刻まれたれた歌碑が建っている。
その左には、「謡曲・通小町と随心院」という説明板がある。
「 謡曲「通小町」の前段、即ち、深草少将が小町の許に百夜通ったという伝説の舞台がここ随心院である。
その頃、小町は現在の随心院の「小町化粧の井」付近に住んでいた。
積もる思いを胸に秘めて訪れて来た少将であったが、小町は冷たかった。
少将は、「あなたの心が解けるまで幾夜でも参ります。
今日は第一夜です」と、その標(しるし)に、門前の榧の木の実を出した。
通いつめた九十九夜 − その日は雪の夜であった。
門前にたどり着いた少将は疲れ切って、
九十九個目の榧の実を手にしたまま倒れ、再起出来なかった、という。
随心院の境内には思い出の「文張地蔵尊」「文塚」があり、
道筋にはかやの大木がある。
謡曲史跡保存会 」
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随心院の庫裏から中に入る。
「 庫裏は、宝暦三年(1753)に二条家より、 同家の政所御殿であったものを移築した。 」
庫裏に入ると小野小町像が描かれていて、 この寺は小野小町一色である。
「 小野小町は絶世の美女として知られ、美人の代名詞である。
ここは小野氏一族が栄えたところで、小野小町は小野篁の孫にあたり、
出羽の国司を務めた良実の娘であるとされる。(色々な説あり)
宮中で仁明天皇に更衣として仕え、歌人として有名である。
仁明天皇が崩御された後、三十歳を過ぎた頃、この小野の里に引きこもり、
晩年の余生を送った、と伝えられている。
江戸時代の「都名所図会」では、 「 小野随心院、勧修寺の東なり、
曼荼羅寺と号す。 また、小野水、門内南の藪の中にあり・・・ 」 と、紹介しており、江戸時代には小野小町のゆかりの地として有名であった。 」
案内に従い進むと、その先に表書院がある。
「 寛永年間(1624〜1631)に再建されたもので、 襖絵は狩野永徳時代のもので、九条家ゆかりの天真院尼の寄進である。 「花鳥山水の図」「四愛の図」が描かれている。 」
表書院には、大玄関があり、そこに出ると対面に先程見た薬医門が見えた。
「 玄関の左右に小玄関、使者の間がある。
大玄関も、薬医門と表書院と共に、
寛永年間(1624〜1631)に天真院尼より、寄進されたものだが、
天真院尼の出自は詳らかでない。 」
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表書院から本殿へ向かうと右手は庭園である。
その先に能の間があり、極彩色の小町絵図がある。
「 能の間は、宝暦年間(1751〜64)に九条家寄進より造営された。 平成三年(1991)に改修工事が行われた。
平成二十一年には絵描きユニット「だるま商店」が
小野小町の生涯を描いた鮮やかな薄紅色の襖絵を奉納され、部屋の四面を囲っている。 」
能の間に隣接しているのは、随心院の本堂である。
「 本堂は、慶長四年(1599)に再建されたもので、桃山時代の建築で、
寝殿造りである。
庭に面した仏間には本尊の如意輪観音と諸仏が奉安されている。 」
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本堂からは、心字池を中心とする池泉式庭園がよく見えた。
本堂の仏間の裏側の部屋には、鎌倉時代に恵心僧都により造られたられた卒塔婆小野坐像があった。
「 随心院では外以外は撮影禁止なので、紹介はできないが、 小野小町の晩年の姿を写したものと言われ、座り方が古代の風習を伝える珍しい像、とあった。 」
この後、奥書院を訪れた。
「 奥書院は江戸時代初期の建物で、 狩野派の絵師による襖絵、「舞楽の図」「節会饗宴の図」「虎の図」がある。 」
随心院を出て、薬医門前で右折すると、左側に「小町化粧井戸」の石柱があり、 下に降りると、周りを小石で固めた井戸がある。
「 小野小町の屋敷跡に残る井戸で、
小野小町がこの井戸を使い、化粧をしていたと伝えられてきた。
江戸時代の「都名所図会」には 「 小野水、門内南の藪の中にあり、
此の所は出羽郡領小野良実の宅地にして、
女小野小町つねに此の水を愛して艶顔を粧ひし 」 と、記されている。 」
化粧井戸の西側にある道は、「深草少将百夜通いの道」といわれ、
深草から小野に通じる小径として、かっては鄙びた茶屋が跡を守っていたようだが、
今は跡形もとどめていない。
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この先の門を出て、左折し、Uターンするように狭い道を行くと、
清滝権現のものと思う鳥居があり、鳥居をくぐって進む。
清滝権現はこの先の三叉路で、右折するとある。
「 清滝権現は真言宗の守護女神で、清滝大権現とも呼称される。 インド神話に登場する八大龍王の一つで、沙掲羅(シャカラ)の第三王女であり、 美女龍王である。 空海が唐から帰国する際、船中に現れ、密教を守護することを誓ったため、 京都の高雄山に勧請された。 その後、真言宗の寺の真言密教を守護する女神として、分祀されている。 」
三叉路を左折すると、「史跡 小野御苑」の標柱が道の両側にある。
道なりに進むと、本堂の裏の位置あたりで、
右手を見ると「小町文塚」の説明板があり、
その奥に丸い石が四つ串刺しになったような多宝塔が建っている。
ここは深草少将をはじめ、当時の貴公子たちから小町に寄せられた千束の文を埋めたところ、と伝えられている。
説明板「小町文塚」
「 百夜通いで有名な深草少将をはじめ、当時の貴公子たちから小町に寄せられた恋文を埋めた
ところと伝えられています。
このように丁寧に供養された理由として、当時は思いを伝えるために書かれた恋文は、
思いが籠ったものであり、粗略な扱いをしては相手に恨まれたり、祟られたりするのではと考え、
受け取った者は責任をもって大切に扱っていたと考えられております。
(中略)
また、当院では同じく小野小町が人々から寄せられた文を下張りして作り、
罪業消滅を願うとともに有縁の人々の菩提を祈ったとされる文張地蔵尊などが伝えられております。 」
駐車場の近くに、仁海僧都供養塔があり、そこに深草少将の百夜通いの榧の実を小町が播いた
榧の大木があることを後日知った。 見てみたかった。
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◎ 花山稲荷神社
随心院を出た時、すでに十六時五十分を過ぎ、すっかり暗くなっていた。
花山稲荷が開いているか心配になる。
十七時十五分、なんとか神社に着いた。
「 花山稲荷は、延喜三年(903)に、醍醐天皇が神託を受け、山科花山の地に
社殿を造営させて、宇迦之御魂大神、神大市比売大神、大土御祖大神の三神を
勧請されたのが始まりとされる。
古くは西山稲荷と呼び、「花山」の社号は御神詠から、
また花山天皇の名による、或いは当地の旧名「花山」によるともいわれる。
平安時代には三条小鍛冶宗近が参籠参詣し、ついに稲荷大明神の御神助を得、
名刀「小狐丸」を鍛え上げ、それを聞いた諸国の刀鍛冶、金物師達が競って
参詣したといわれる。
寿永二年(1183)、盗賊の放火で社殿、旧記等が全て焼失。
貞和年間(1340年頃)、一色六郎定員が社殿の復興に尽くしたと伝えられる、
とある。 室町時代に入ると、参詣者が増え、江戸時代の元禄時代には
稲荷講が設立されて、洛中の人々が団体で参詣され、大いに賑わった」という。
この頃、大石良雄がこの付近に隠棲していたが、度々参詣し、
復讐計画の成功を祈願したと伝えられている。 」
本殿の右手の赤い玉垣の中に「稲荷塚」の石柱と、
元禄十二年の銘のある石灯籠の基部があるのだが、
すでに暗闇に没して確認できなかった。
このあたりは弥生時代の円墳の跡ではないかといわれ、
また、稲荷大明神が勧請される前に、鍛冶の神として祭られていたのでは
ともいわれるようで、おもしろい。
機会があれば、また訪れたいと思う。
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