令和四年(2022)十一月十六日(水)、曼殊院と真如堂を見学終えると、
もう十三時前であった。
これから金戒光明寺へ向かう。
◎ 金戒光明寺
尾根の道を進むと、左側に「会津藩殉難者墓地」の石柱が建っている。
中に入ると数多くの墓標が建っていた。
中央の奥に「会津墓地の由来」と書かれた立派な石碑が建っていた。
石碑の文面
「 幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、徳川幕府はついに新しい職制を作り、
京都の治安維持に当らせることになった。
これが京都守護職である。
文久二年(1862)閏八月、会津藩主松平容保公は、十四代徳川家茂から
京都守護職に任ぜられ、同十二月二十四日、家臣一千名を率いて、京都に到着。
京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受けて、
本陣の黒谷金戒光明寺に威風堂々と入陣した。
黒谷金戒光明寺は、自然の要塞になっており、御所や粟田口にも近く、
軍事的要衝の地であった。
また、大きな寺域により、一千名の軍隊も駐屯することができた。
当時の京都は尊攘激派による暗殺の坩堝(るつぼ)と化していたが、
守護職となった会津藩の活動には目を瞠るものがあり、
翌年8月十八日には激派の宮卿を追放し、
元治元年(1864)六月には守護職配下の新撰組による「池田屋騒動」、
七月十八日十九日の「禁門の変」の勝利などで、治安は回復されてきた。
しかしながら、会津藩の犠牲は大きく、
藩士や仲間小者などで戦死、戦病死する者が続出した。
そこで本陣の金戒光明寺の山上に、三百坪の墓地が整備され、葬られた。
その数は文久二年から慶応三年までの六ヵ年に、
(亡くなられた)二百三十七霊をかぞえ、後(明治四十年三月)に慰霊碑を建立し、
鳥羽伏見の戦いの百十五霊を合祀した。
松平容保公は、孝明天皇の御信任厚く、
禁裏洛中を挙藩一致して大義を明らかにし、
会津軍の忠誠は歴史にその名を残した。
この忠烈なる真義に徹した英魂の遺徳を顕彰せんが為に、
この碑に由来を記す。
松平容保公 都の歌会にて御詠
窓前竹
さす月よ うつるのみかは 友ずりの
こゑさへ きよし 窓の呉竹 」
墓地の右側にあるのは金戒光明寺の塔頭・西雲院である。
会津藩墓地の先は西雲院の墓地ある。
そこを過ぎると、三重塔の文殊塔が建っていた。
「 寛永十年(1633)に、
二代将軍秀忠公菩提のために建立したもので、
本尊として運慶作と伝えられる文殊菩薩と脇侍像を安置した。
経年の傷みや剥落が著しく、修復後は御影堂に移し、安置されている。
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金戒光明寺の西方に御所、更に西には小倉山があり、
ここは西山連峰の中でもっとも低い鞍部で、彼岸の中日の頃、
真っ赤な夕日が沈むことができる絶好の位置にある。
法然上人が承安五年(1175)の四十三歳の時、この地に草庵を結ばれた。
これが浄土宗最初の寺院である。
ここから下に石段があり、両側は全て墓標で埋め尽くされていた。
かなり急な石段で、注意しながら降りた。
一番下に到着する手前の左側に、五劫思惟(ごこうしゅい)阿弥陀如来石像がある。
「
江戸中期の作で、独特の頭髪の形状から「アフロ阿弥陀」と通称されている。
阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、
もろもろの衆生を救わんと五劫の間ただひたすら思惟をこらし、
四十八願をたて、修行されて阿弥陀仏となられたとされ、
五劫思惟をされた時の姿をあらわしたものである。
その先の突き当たりに池があり、極楽橋があるので、橋を渡り、
大きな道を右折する。
東坂の石段を上って行き、左折すると左側にあるのはは阿弥陀堂である。
「 慶長十年(1612)に豊臣秀頼により再建された建物で、 祀られている阿弥陀如来像は、恵心僧都源信が、 仏像の彫刻に必要なのみを胎内に収めて、 以後の仏像彫刻を止めたことから、のみおさめの如来、お止めの如来と 呼ばれる。 」
昼を過ぎていたので、お参り前に突き当たりにある茶屋で、
薬味にしょうが付いているきつねうどんを食べた。
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食事を終え、拝観受付で、本堂とお庭の見学券を購入し、御影堂(本堂)へ行く。
ここは一方通行なので、靴をビニール袋に入れ、階段を上り、
堂内に入った。
堂内は撮影禁止である。
説明板「御影堂(大殿)」
「 当山くろ谷金戒光明寺は、法然上人ゆかりの地、
内陣正面には、法然上人七十五歳三味発得(さんまいはっとく) のお姿を
お祀りしています。
以前の御影堂は昭和九年に火災にて全焼。
すぐさま再建に取りかかり、京都大学名誉教授天沼俊一博士の設計にて、
お堂の中が明るく、音が響かないように木の一本一本に付いても吟味され、
昭和十九年に落慶致しました。
昭和時代の代表的な木造建築と言われています。 」
お参りをした。
本尊は阿弥陀如来で、洛陽三十三所観音霊場第6番札所本尊の千手観音(吉備観音)
も祀られている。
「 徳川家康は京都を直轄地とし、
二条城を造り、所司代をおき、何かあった時には軍隊が配置できるように、
知恩院と黒谷にそれとわからないように城構えをほどこした。
建物はこの時、知恩院と共に、城郭風構造に改修された。
黒谷に大軍が入ってこられないように、南には小門しかない。
西側には立派な高麗門が城門のように建てられた。
寺域は約四万坪あり、千人の軍が駐屯できる。
大小五十二の宿坊があり、駐屯のために、
大方丈及び宿坊二十五ヶ寺を明け渡したという、文書があるという。 」
御影堂の先に大方丈があり、庭には唐門がある。
唐門は国の登録有形文化財である。
「 大方丈も昭和九年に焼失し、昭和十九年に再建されたもので、
国の登録有形文化財である。
ここには久保田金せんの虎図の襖絵と今津景祥の松図の襖絵を見ることができた。 」
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大方丈の東北に「紫雲の庭」がある。
紫雲の庭は、法然上人800年大御遠忌記念として、
法然上人の生涯やゆかりの人々など
を大小の庭石で表現した枯山水である。
白砂とスギコケを敷きつめた庭園部は、大方丈から右側が美作の国の少年時代、
左側は比叡山延暦寺での修業時代を、
真中が浄土宗開宗・金戒光明寺の興隆を表した、
一つの絵巻物のような構成になっているという。
2006年に作庭されたもので、通常は非公開である。
靴を履いて、庭を見学する。
道の右側は上記の写真にない部分で、法然の美作時代を表現したもので、
白砂とスギコケの対比が見事である。
左には比叡山時代で、中央の白い大きな石が法然上人(源空)である。
道に沿って進み、橋を渡ると右側に池が広がっている。
紅葉の時期なので、特別公開したようで、いい時に来た。
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茶室なのか分からないが、紫雲亭があった。
のんびり歩いた後、大方丈に戻り、出口に向い、大玄関から退出した。
左側に新撰組の旗があり、
「御朱印志納所」の看板があるので、入りご朱印をいただいた。
「 会津藩主松平容保は京都守護職に就き、この寺を本陣にした。 会津藩兵だけでは手がまわらないため、守護職御預かりとして、 新撰組を支配下に置き、治安の維持に当らせた。 なお、この頃、中間として出入りしていた侠客が、会津小鉄こと、 上坂仙吉である。 」
最後に山門に行った。
応仁の乱で焼失し、万延元年(1860)に再建されたものである。
掲げられている扁額「浄土真宗最初門」は後小松天皇の宸筆である。
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◎ 岡崎神社
岡崎神社から永観堂・南禅寺水路閣を経て、疏水駅へ行く。
山門からもときた道を少し戻り、丸い池から文殊堂への道に入り、
その先で右折すると、左の小高いところに、金戒光明寺の塔頭・勢至院がある。
そこを過ぎると、左手の岡崎神社に入ると、兎の提灯があり、
狛犬変わりに兎、社殿の狛犬を兎が代わりをしていた。
愛くるしいので、女性に人気がある神社である。
説明板「岡崎神社」
「 祭神として、素戔鳴尊(すさのをのみこと)、
櫛稲田媛命(くしいなだひめのみこと)及びその御子三女五男八柱神を祀る。
延暦十三年(794)、桓武天皇の平安京遷都の際に、
王城守護のため平安京の四方に建立された社の一つといわれ、
都の東方に鎮座することから、東天王と称した
清和天皇が、貞観十一年(869)に造営し、
播磨国(現在の兵庫県)の広峯から祭神を迎え祀ったといわれる。
治承二年(1178)に、中宮の御産の奉幣を賜ったことから、
安産の神として信仰され、また創始時の王城守護方除けの勅願により、
今も方除厄除神としての信仰が絶えない。
古くから、うさぎが氏神の使いと伝えられ、祭神が子宝に恵まれ、
うさぎが多産であることから、子授けの神として祈願信仰されている。
境内にはうさぎの彫刻が多く見られ、
特に手水屋形にある子授けうさぎ像は参拝者の人気を集めている。
京都市 」
岡崎神社の道の反対に、東本願寺岡崎別院があり、 南の丸太町通りまで続いていた。
説明板「親鸞聖人岡崎草庵跡(岡崎別院)」ー 真宗大谷派(東本願寺)宗史跡
第二号」、
「 大谷遺跡録や二十四輩順拝図会によれば、
親鸞上人は法然上人の吉水の禅坊に通われたころ、
この岡崎の地に草庵を結ばれたといわれています。
この草庵跡は、のちに「親鸞屋敷」と呼ばれましたが、
享和元年(1801)、東本願寺第二十一代蓮如上人の時に、
「岡崎御坊」と呼ばれるようになり、
明治九年(1876)に岡崎別院となりいました。
本堂の西脇には石の柵で囲まれた小さな池があり、
これを鏡池、または、姿見の池といいます。
言い伝えによると、聖人は越後御流罪のとき、
この池に姿を映して、名残りを惜しんだと伝えられています。
また、鏡池の西側には紅梅があり、その初代は聖人のお手植えと伝えられています。 一つの花に八ツつの実がなることから、「八房の梅」と呼ばれています。
真宗大谷派(東本願寺)宗宝史跡保存会 」
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◎ 禅林寺(永観堂)
丸太町通りを東に向い、天王町交叉点を直進し、鹿ヶ谷通りに出る。
右折して、鹿ヶ谷通りに出ると、左手に禅林寺(永観堂)があるので、左折する。
山門の前付近は、紅葉の見学者でごったかえしていた。
禅林寺(永観堂)には何度か訪れているが、紅葉の盛りにきたのは始めてである。
「 禅林寺(永観堂)は、浄土宗西山禅林寺派の総本山である。
正式名称は聖衆来迎山無量寿院禅林寺である。
貞観五年(863)、清和天皇より禅林寺の勅額を賜る。
当初は真言宗の寺院であったが、中興の祖とされる七世住持の永観律師の時代に
念仏の寺へと変化をとげる。
永観律師は境内に薬王院という施療院を建てるなど、
貧乏の人々の救済活動を続け、
この寺が永観堂と称されるのは永観律師に由来する。
鎌倉時代に入り、浄土宗の寺院になり、法然上人を宗祖に、
証空上人を派祖として、浄土宗西山禅林寺派の総本山になった。 」
山門を入ると、左側に「特別公開 五劫思惟阿弥陀仏」の看板があり、
塔頭の智福院があった。
その先に仮テントがあり、中に入ると拝観券売場であった。
コロナの流行は続いているが、旅行クーポンの再開もあり、京都の観光名所は
往時の盛況を思わせる混み方である。
入場制限をしていると思ったが、制限はなかった。
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少し行くと、中門のところに二人の係員がいて、拝観券の半券をちぎり、
中に入った。
時計を見ると15時10分である。 天候はくもりで、
東山にあるせいか、うすぐらい。
寺務所と鶴寿台の前には紅葉があり、きれいでベストショット場所と思うが、
人を入れないで写すのはむずかしい。
鶴寿台に近づいて写した。
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もみじの永観堂として知られ、境内を染め上げる色あざやかな紅葉は、
岩垣紅葉というものらしい。
その先に大玄関があり、そこから室町時代の建築である釈迦堂、
みかえり阿弥陀の安置されている阿弥陀堂、
臥龍廊を上って多宝塔を巡るのが順路であるが、
すでに訪れているのと、参拝者が密の状態になり、
コロナになる心配があるので、敬遠し、
脇の道に通してもらった。
釈迦堂の前にあるのが江戸時代に造られた唐門である。
説明板「唐門」
「 勅使を迎える四脚形式の向唐門であり、
江戸末期の文政十三年(1830)に再建された。
入母屋造り、檜皮葺の前後を大唐破風に納め、
軒先の木鼻に架空の動物の獏を置き、各所を雲龍や唐草の彫刻で飾る。
江戸末期の形式をよく示す建築である。
唐門の内側には、釈迦堂庭園があり、
白砂を小判形に盛って市松模様をあしらった盛砂がある。
勅使はこの盛り砂を踏んで身を清めて入堂したという。 」
多宝塔へ向かう道に入ると、お堂の上から参拝者が紅葉を眺めていた。
ここの紅葉は葉が小さいように思えたが、間違いだろうか。
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その先に阿弥陀堂がある。
「 慶長十二年に大坂から移築された。
堂内は極彩色で、格天井には百花が描かれているが、
両端の長方形部分だけは白く塗った、散り蓮華となっている。
ここに祀られているのが、「 永観、遅し 」 とふりかえりざま、
見つめているみかえり阿弥陀である。
永保二年(1082)のことというから、当時の建物はなくなり、
江戸時代初めに移築されたこの建物を阿弥陀堂として、祀られたということだろう。 」
放生池の周囲を回ると、池の先に多宝堂が見えた。
放生池からの流れにある紅葉も印象的であった。
その下にある茶屋には人が多くいた。
今回は二十分程のあっという間の見学であったが、
永観堂の紅葉のすごさに圧倒された。
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◎ 南禅寺
総門を出て、南禅寺に向う。
三時五十分だが、すでに暗くなり始めていた。
南禅寺は何度か訪れていたが、水路閣はしっかり見たという記憶がなかったので、
寄ることにしたのである。
ここは多くのサスペンスドラマに登場したため有名になったが、
煉瓦造りの橋には琵琶湖から引かれた琵琶湖疏水の水が流れている。
橋の下では借り衣裳の着物姿の若いカップルがあちこちで、
記念写真を撮っていた。
地下鉄疏水駅に向うと、右側に「史跡及名勝 金地院庭園」の石柱があり、
「東照宮 鶴亀庭園 拝観」の看板が掲げられている山門があった。
「 金地院は臨済宗南禅寺派の寺院で、大本山南禅寺の塔頭である。
徳川家康の京都での活動を支えた以心崇伝が住したことで知られる。
僧録司が置かれ、一塔頭寺院に留まらず、江戸時代を通じて、
五山十刹以下全ての住職の任命権を持つ、事実上の最高機関とされた。
また、十万石の格式を持ち、寺大名とも呼ばれた。
金地院庭園は小堀遠州の作で、国の特別名勝に指定されている。 」
そのまま車道を進むと、右側に東照宮の楼門がある。
「 東照宮は寛永五年(1629)に創建されたもので、 京都唯一の権現造りの遺構で、国の重要文化財に指定されている。 」
そのまま進むと、
琵琶湖疏水が上に流れる煉瓦造りの構築物(トンネル)をくぐる。
ここには「ねじりまんぼ」の説明板がある。
「 ねじりまんぼは、
三条通りから南禅寺へ向かう道路の造成に伴って建設され、
明治二十一年(1889)六月に完成しました。
「まんぼ」とはトンネルを意味する古い言葉で、
「ねじりまんぼ」は、ねじりのあるトンネルという意味です。
上部にあるインクライン(傾斜鉄道)と斜めに交わる道路に合わせ、
トンネルも斜めに掘られるとともに強度を確保する観点から、
内受のレンガを螺旋状に積む工法が採られています。
トンネルの東西には、トンネルの完成を祝い、
第3代京都府知事の北垣国道が揮毫した扁額があります。
西口の「雄観奇想」は、見事なながめとすぐれた考えである。
東口の「陽気発処」は精神を集中して物事を行えば、
どんな困難にも打ち勝つことができるという意味です。
このような英城のトンネルは旧国鉄東海道本線の敷設工事など、
関西で多く見られますが、鉄道以外での施行例は希少です。
「ねじりまんぼ」は、明治時代の土木技術を物語る貴重な遺産といえます。
京都市 」
ねじりまんぼを抜けると、三条通りを左折、地下鉄東西線の疏水駅に到着。
このあと、二条駅で下車し、市バスで四条大宮のホテルに帰った。
今日一日は京都の紅葉を満喫することができた。
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目のゲストです!!