三の鳥居から北に一直線の参道があり、その先に石清水八幡宮の社殿がある。
三の鳥居の先の参道両脇に、重森三玲により、 昭和四十一年(1966)に造られた鳩峯寮庭園がある。
「 その石組には、
三十数個に割れた他の石材も使用されている。
重森三玲といえば、昭和を代表する造園作家であるが、手入れが悪いのか、
がらくた石が無造作に置かれているという印象しか受けなかった。 」
三の鳥居の先の参道に「一ツ石」の標札があり、 その下にしめ縄に囲まれた石があった。
「 かっては走馬や競馬の出発点であり、
勝負石とも呼ばれる勝運の石である。
お百度参りの地点ともいわれる。 」
百メートル程の参道の両脇には四百の常夜燈が続いている。
その先の右側にあるのは御鳳輦舎(ごほうれんしゃ)である。
御鳳輦とは天皇が乗られる乗り物の総称で、ここでは神様が乗る神輿で、
9月15日に行われる石清水祭で使われる三基の神輿が納められている。
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常夜燈 |
その先にあるのは御羽車舎(おはぐるましゃ)で、
その先、書院、社務所が並ぶ。
御羽車舎は慶長年間(1596〜1615)に淀君が再興した一切経の経堂であったが、
明治の神仏分離で、羽車ニ基が収納される場所に変わった。
書院には非公開の重森三玲の石庭がある。
「 昭和二十七年(1952)に作庭されたもので、南北約八メートル、
東西約六メートルの方形の中に、男山から採取した石を十四個配し、
三尊石を組んだものである。
石庭の東南角には「永仁三年(1295)の銘が入った、鎌倉時代の石灯籠がある。
もともとは裏参道の東総門の下にあったもので、
この神社にある多くの石灯籠の中で、
この石灯籠だけが国の重要文化財に指定されている。 」
参道を進むと、正面に赤い回廊に囲まれた、
昭和十三年(1938)に再建された南総門がある。
現在、修理中とあり、赤い回廊は見えなかった。
なお、手前の左側には、手水舎とその奥に供御所があった。
「
供御所は、文禄元年までは御本殿西門外にあった竈神殿のところにあったが、
地震で倒壊したため、飯殿があった現在の場所に移された。
現在の建物は慶長二年(1597)の再建である。 」
南総門をくぐって中に入ろうとすると、神官達が列を作って出てきた。
「
石清水八幡宮は、空海の弟子の南都大安寺の僧・行教律師が、
宇佐神宮に参詣した折に、
「 われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん 」 との神託を受けて、
清和天皇の命により社殿を建立したのを創建とする。
皇室や朝廷より篤い信仰を受け、天皇、上皇、法皇などの行幸は二百五十を越える。 」
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南総門 |
神楽殿では、巫女が神楽を舞い、厄除け祈願の人達に八幡御神矢を授けている。
石清水八幡宮の社殿は、「国宝 御本社 寛永十一年(1634)造営」
の標板がある正面の建物である。
創建当時は、宇佐八幡宮と同じような本殿でだったが、
天皇家の崇敬を受け、その後、大きな建物になっていったが、
火災や打ちこわしなどで何回も立て直された。
桧皮葺きの本殿は前後二棟から成る、「八幡造り」という建築様式で、
その前に幣殿、舞殿、楼門と続き、
周囲を百八十bに及ぶ回廊が囲んでいる。
説明板「国宝 石清水八幡宮 御本社」
「 石清水八幡宮の御本社は、
国内で現存する最大かつ最古の八幡造の神社建築です。
寛永十一年(1634)、徳川三代将軍である徳川家光公により修造されました。
石垣の上全体を「本社」といい、
本殿をはじめとする十棟の建造物と棟札三枚が国宝にしてされています。
正面の楼門からつながる丹塗の廻廊は、
神社建築として類例が少ない大規模なもので、
その中の建物主要部は朱漆塗です。
石敷きの舞殿・幣殿の奥に御本殿があります。
御本殿は国内に数例しかない八幡造です。 切妻造の建物が前後に並んだ形式で、
前の外殿と奥の内殿は中でつながっています。
前後の殿が横に三つ連なり、中央に応神天皇、向って左に比淘蜷_、
右に神功皇后が祀られています。
二つの屋根の間には、天正八年(1580)に織田信長公が寄進した「黄金の雨樋」が、
かけられています。
欄間や蟇股など随所に一五〇点余りもの、極彩色の彫刻が施されており、
華麗な四季の草花のほか、
麒麟、犀や蟷螂といいた珍しい題材、
左甚五郎と伝わる「目貫きの猿」が見どころです。 」
廻廊の東北部分の土台の石垣は、鬼門封じのため、
角が切り取られる構造になっている。
御本社の奥にある校倉は江戸時代中期に再建された建物で、宝蔵である。
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鬼門封じが施された石垣 |
校倉の右側に、住吉社と一童社がある。
住吉社は江戸時代前期の再建で、国の重要文化財に指定されていて、
住吉三神を祀っている。
若宮社(祭神仁徳天皇)、若宮殿社
(祭神応神天皇の皇女)などの社殿が祀られていた。
その右にあるのは北総門で、江戸時代前期の建設で、国の重要文化財である。
一番右側に横向き(西向き)に二つあるのは、水若宮社と小さなの気比社である。
水若宮社は江戸時代前期の建設で、国の重要文化財である。
その奥に正面を向いて建っているのは若宮殿社で、祭神は応神天皇の皇女である。
若宮殿社は江戸時代前期の再建で、国の重要文化財に指定されている。
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気比社と水若宮社 |
若宮殿社の隣にある大きな社は若宮社である。
祭神は仁徳天皇で、江戸時代前期の再建で、
国の重要文化財である。
本殿でお参りを済ませ、南総門を出ると 右手に降りていくところがあるので降りていくと、 その先には朱塗りの一間社流造りの三女神社が ある。
「 三女神社は石清水八幡宮の末社だが、 歴応二年に福岡の宗像神社から勧請されたもので、 航海の神といわれる宗像三女神が祀られている。 」
その先にケーブルの山頂駅があるが、引き返すことにすると、 大塔跡の説明板が建っていた。
説明板「大塔跡」
「 大塔は、天永二年(1111)に完成した巨大な塔です。
平安時代後期、
初めて院政を開き権勢を振るった白河法皇の御願により建てられました。
慶長10年(1605)には、豊臣秀吉の子・秀頼が再建します。
その絵図面によると、
現存する和歌山県岩出市 根來寺の大塔(国宝)と、
ほぼ同規模の、日本最大級の真言形式の大塔でした。
側柱一辺14.9m、高さ27.1mもありましたが、今から約150年前の明治の初め、
神仏分離令のため、取り除かれました。
平成22年(2010)の発掘調査で、塔の周りに四角く巡らせた雨落ち溝と、
柱を支えた礎石やその抜き取られた穴が確認されたことから、
大塔の位置と大きさが正確にわかりました。
現在、生垣の通路に見えている丸い花崗岩(礎石@)は、
落ち縁(廊下状の縁側)の礎石です。 」
その先に広場があり、石翆亭という建物に入ると、
厄除けしるこや厄除けうどんがある。
参道に戻ると、社務所の横に入る道があり、その先に石段が続く裏街道がある。
裏街道は太子坂ともいわれ、下って行くと、
源頼朝の手植松のところに出る。
その先は表街道を歩けば駅に直行であるが、寄り道をする。
放生川に出て、右折し、相槌神社を越え、左折すると三叉路になっていて、
右折して進むと、右側に「松花堂旧蹟」の石柱があり、
「 松花堂 泰勝寺 」 の説明板を掲げた寺院があった。
説明板「松花堂 泰勝寺」
「 天正十八年、松花堂昭乗は九才の時、男山に入山し清水坊の阿闍梨となった。
特に書画茶道作庭に長じ、自らの草庵を松花堂と称したた。
小堀遠州、沢庵、石川丈山、林羅山等と親交があり、
寛永の文化人として屈指の人物である。
当寺は昭乗の墓所を中心に建立、俗に松花堂と呼ばれる境内の宝物館には
昭乗遠州沢庵光悦等の墨蹟を始め多くの寺宝が展示されている。
(以下省略) 」
この寺に彼の墓があり、宝物館があるのだが、
予約制のようなのであきらめ、八幡市駅に向かい、
石清水八幡宮の参拝は終わった。
駅前には「東高野街道」の道標があり、「石清水八幡宮一ノ鳥居まで約0.1km
善法律寺まで約1km、正法寺まで約1.7km、松花堂庭園まで約2.7km、
円福寺まで約4.1km 」 とあった。
今回の旅で見損なったのは、
裏参道から少し入った石清水社(今でも清水が出ている)と瀧本坊跡である。
相槌神社と泰勝寺が通る細い道が東高野街道であったことは駅前の道標で知った。
その先に、石清水八幡宮社務職が建立した善法律寺や、
石清水八幡宮の社家で、尾張藩主徳川義直の母・お亀の方の実家、
志水家の菩提寺として建立された正法寺があることも分かったが、
もう一度戻るのもと思い、あきらめた。
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泰勝寺 |
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