◎ 清明神社・一条戻橋
烏丸今出川の交叉点で、今出川通りを西に向うと、右側に上京区役所があり、
その先の右手には白峯神社がある。
堀川今出川交叉点で、交叉点を越えて右折すると西陣織会館がある。
西陣の地名は、応仁の乱の際、堀川を挟んで、東軍と西軍が対峙したが、
西軍の陣地があったところが西陣の名となり、残ったとされる。
堀川通りを南下すると、右側に
「清明神社」の石柱と「五芒星」の社紋」がある一の鳥居が建っている。
鳥居をくぐると、
左側に「一条戻橋」に説明板と「一条戻橋」と刻まれた石橋が置かれている。
また、その左側には、戻橋ゆかりの式年像がある。
説明板 旧 「一条戻橋」
「 この欄干親柱は、大正十一年から平成七年まで実際使用されていたものです。
御祭神安倍晴明公ともゆかり深い橋ゆえ、境内に復元しました。
現在の戻橋は、神社から南へ百米の処に架かっています。 」
その先は左右に小路がありその先にまた、「清明神社」の石柱と
「清明社」の額を掲げたニの鳥居、そして、五芒星が書かれた提灯がある。
「 平成二十九年(2017)に、ニの鳥居の社号額が新調され、 安政元年(1854)土御門晴雄により奉納されたものを忠実に再現したものになった。 」
鳥居の左手には「千利休居士聚楽屋敷趾」の石柱がある。
「 寛弘二年(1005)、安倍晴明が亡くなると、
一条天皇は晴明の遺業を讃え、寛弘四年(1007)、その屋敷跡に神社を創建した。
当時の敷地は東は堀川通り、西は黒門通り、北は元誓願寺通り、南は中立売通りと、
かなり広大であったが、度重なる戦火と豊臣秀吉による都市整備で縮小し、
社殿があれたままになった。 また、隣接して千利休の屋敷があった。
本殿の北側に晴明井があり、伝承によると、晴明の陰陽道の霊力により、
湧き出たとされ、千利休が茶会で、この井戸から汲んだ水を沸かし、
茶の湯として使用し、豊臣秀吉もその茶を服されたと、伝えられる。
幕末以降に、氏子をを中心に社殿や境内が整備され、
昭和二十五年(1950)の堀川通りまで境内が拡張された。
」
社殿の左手には安倍晴明の銅像がある。
若い人達に人気があり、社殿には、若いカップルがほとんどであったが、
参拝のため、列を作っていた。
「 すごい人気の神社であるが、
ブームのきっかけは、夢枕獏の小説の映画化と漫画化である。
平成十七年(2005)に、安倍晴明没後千年として、安倍晴明千年祭が行われた。 」
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二の鳥居 |
晴明神社を、跡にし、堀川通りを南下し、百メートルの信号交叉点を左折し、
堀川通を横断すると、その先にあるのが一条戻橋である。
この橋は平成七年に架け替えられたものである。
橋を渡り、左折すると、小公園があり、その脇に川に降りる道があるので、
下りていく。
下には枝が複雑に曲がっている樹がからみあっていて、そこに小さな水路があった。
水路は、その先南に急に流れ落ちていって、平らになり、戻橋の下を流れていく。
堀川は遊歩道になっていて、戻橋をくぐると、
左側に「伝説の橋 一条戻橋」の説明板がある。
説明板 伝説の橋「一条戻橋」
「 延喜18年(918) 文章博士・三善清行が亡くなった時、
父の死を聞いた熊野の僧「浄蔵」が紀州熊野から馳せ帰ってみると、
その葬列は丁度この橋の上を通っていました。
浄蔵は柩にすがって泣き悲しみ、神仏に熱誠を込めて祈願したところ、
不思議にも父清行は一時蘇生して父子物語を交わしたという伝説かり
戻橋と名付けられたと言われています。
太平記、剣の巻によれば、その頃、源頼光の四天王の一人であった渡辺綱が深夜、
この橋の東詰で容貌美しい女子に「夜更けが怖いから送って欲しい」と、
頼まれたので、馬に乗せたら女はたちまち鬼と化し、渡辺綱が腕を切り落した、
と記されています。
また、一条戻橋は「あの世」「この世」をつなぐ橋とも言われていました。
伝説では、平安時代の天才陰陽師として名高い安倍晴明の父である保名が、
毒殺された場所であり、
晴明が呪法を駆使して保名を蘇生させた場所とも言われています。
以上のような歴史を持つ一条戻橋ですが、
現在の橋は平成7年に新築されたものです。
京都市 」
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堀川用水と一条戻橋 |
堀川に沿って続く遊歩道を南下すると、二百メートル先が堀川中立売交叉点で、 その下の橋の袂に説明板がある。
説明板「市電堀川線の記憶」
「 明治28年2月、我が国初の電気鉄道(京都電気鉄道)が京都に走りました。
同年9月、堀川線(通称北野線)が東堀川通りに開通し、堀川中立売と、
堀川下立売を結びました。 その後は路面距離と乗降客を順調に延ばし、
市民に親しまれてきました。
しかし、昭和36年7月末、自動車の普及などによる利用者の減少によって、
ついに廃線となってしまいました。
堀川第一橋の下流に今でも残るレンガ積みの橋台は、
幅の狭い方(コンクリートのアーチ橋が架かっている部分)が単線時のもので、
幅の広い方(両岸が南北にずれている)が複線化されてからのもので、
日本で最初の電車が堀川に沿って走っていた記憶として、
これからも次世代へ歴史を語り続けていくことでしょう。 」
説明板 鶴の橋「堀川第一橋」
「 石造りのアーチが一際目をひく堀川第一橋は、
二条城と御所を結ぶ公儀橋として、明治6年に架橋されました。
今でも残るその美しく重厚なデザインは、堀川の歴史と文化を感じさせてくれます。
また、下流の下立売には、
翌年の明治7年に架橋された同じく石造りのアーチ橋である
堀川第二橋が残されていますが、南北に新しく拡張されているため、
その姿は橋の下からしか確認できません。
第一橋は「鶴の橋」、第二の橋は「亀の橋」と呼ばれ、
古くから人々に親しまれてきました。
京都市 」
更に二百メートル歩いたところで、 上に上ると堀川下長者町通りに出た。
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堀川第一橋 |
◎ 聚楽第跡
堀川下長者町通りを西に向って歩くと、
右側の智恵光院下長者町通り角に辰巳(和楽)公園がある。
地元の人達が子供を遊ばせる小公園である。
京都には戦災はなかったと思っていたが、公園内に「空爆被災を記録する碑」 があそれによると、「 昭和20年6月26日の昼に、B29による空襲があり、
この一帯の約400uで、三百戸程に家屋が被災した。 」 という。
交叉点を右折し、公園の入口を越えたところに、聚楽第に関する説明板があった。
説明板「発掘された聚楽第の石垣」
「 この場所は天正十九年に豊臣秀吉が造った聚楽第の本丸南堀北側にあたります。
聚楽第は桃山文化を代表する○○な城館で、その美しい姿は、
「聚楽第○○○」などに描かれています。
しかし、完成からわずか数年後に、秀吉自身の手によって破壊され、
地上から完全に姿を消してしまいました。
平成24年(2012)、この敷地の発掘調査で、
聚楽第の石垣が東西約32mの長さにわたって見つかりました。
石垣の石材は非常に大きく、高度な技術で積まれていました。
秀吉の栄華を物語る貴重な遺構です。
調査の後、石垣は地下にそのまま保存されました。
この案内板の横にある石材の真下に、
写真の石垣が保存されています。
平成26年5月 京都府警察本部 」
更に北上し、中立売智恵光院交叉点に出て、交叉点を左折して、
中立売通りを西に向う。
少し行くと左に正親小学校があるが、
フェンスの左端に「此付近聚楽第跡」の石碑と
「聚楽第本丸西濠跡」の説明板があった。
説明板「聚楽第本丸西濠跡」
「 かってこの一帯には、平安時代に平安宮(大内裏)があったことから、
「内野」と呼ばれていた。
その後、安土桃山時代に平安宮跡北東部分に、豊臣秀吉によって築かれ、
聚楽第と呼ばれた館があった。
秀吉は、羽柴秀吉と名乗っていた天正一四年(1586)に、聚楽第の築城を開始し、
翌一五年に正室の北政所(おね)母の大政所とともに大坂城から館に移り住み、
政治を執るようになった。
その後、秀吉と甥で後継者である秀次の二代にわたる関白の城として使われ、
豊臣家による洛中支配の象徴として機能した。
この館は、幅二〇mから四三m 深さ六mから八mもある水を湛えた大規模な濠と、石垣で守られ、白壁の土塀や多重櫓で囲まれた内側に、
檜皮葺の本丸御殿と金箔瓦で飾られた天守や櫓が聳える絢爛豪華な城郭であった。
城は内郭と外郭の二つに分かれ、
内部はさらに本丸、南二之丸、北之丸、西之丸に分かれる。
これまでの考古学的な調査により、この石碑が立つ本丸の西側の濠をはじめ、
本丸の東側と南側の濠、南二之丸の南側と西側の濠、
さらに北之丸の濠と石垣などが明らかにされた。
天正一六年(1588)には後陽成天皇の行幸も行われた。
この豪壮な城郭も秀次の失脚に伴い、築城者である秀吉の命令により、
文禄四年(1595)に破却され、わずか九年の短い歴史で閉じている。
平成二十年 六月 」
聚楽第は北は一条通りに北之丸があり、北立売通りから下長者町通りまで、
本丸で、その南に南二之丸があった。
本丸の東は堀川通り、西は正親小学校までで、
西之丸は現在の智恵光院あたりにあったと思われる。
発掘が行われ、石垣などが確認された所には、説明板や石柱が建っているが、
秀吉が徹底的に破壊したため、金箔瓦と堀跡の石垣しか、発掘されないようである。
更に右の中央部に行くと、「平安宮大蔵省跡」の石碑と、 「平安宮大蔵省跡 大宿直跡」の説明板が建っている。
説明板
「 大蔵省は今制八省の一つで、多くの倉庫があった大蔵を合わせて、
平安宮の北八町を占めていた。
出納・収納・度量衡などを職務とし、諸国から貢進される調庸・銭ないし
金銀以下の貢献物を、正倉などの倉庫に納め、
官人給与の録やさまざまの財源に充てられた。
大宿直は平安宮内に置かれた内裏警固人の詰め所で、
一町(120m四方) の規模があった。
長和三年(1014) に焼失し、内裏寮・掃部寮なども類焼している。
なお、正親小学校(せいしょうしょうがっこう) の校内西は大蔵省跡、
東は大宿直跡に当り、
さらにこの付近は安土桃山時代に築かれた聚楽第の本丸西濠跡に当る場所である。
平成二〇年三月 京都市 」
また、フェンス前の一角に「唐津小笠原藩邸跡」の石碑があったので、 江戸時代には、ここには唐津藩の京都藩邸があったことになる。/p>
「 唐津藩は長崎港を警護する長崎見廻役を任されているため、
老中には就任できない取り決めがあった。
幕閣就任を希望していた水野忠邦が実録の低い浜松藩へ移封願ったのも、
そのためといわれる。
その後に唐津藩主になったのが、小笠原長昌で、
小笠原家が明治時代まで藩主となる。
幕末になると、主な藩は京都に藩邸を構えた。
唐津藩もこの場所に藩邸を構えたことは慶応四年の絵図で確認できる。
その時の唐津藩の藩主は小笠原長国。
小笠原長昌の子・小笠原長行は、長国の世嗣(養子)という関係にあったが、
彼は文久元年(1861)老中・外国事務総裁を兼務して幕政を担った。
第一次、第二次長州征伐では長州征伐に京都や小倉に出向き、戦った。
戊辰戦争が起きると、唐津藩主・小笠原長国は世嗣・長行との養子関係を義絶して、
新政府軍へ降伏した。
恭順の意を表した将軍・慶喜に対し、徹底抗戦を主張した長行は遠ざけられ、
老中を辞任した。
その後は旧幕府軍と行動を共にし、各地を転戦、箱館戦争で負けると、
米国船で脱走して、五年後に帰国と、最後まで幕府に忠義を尽くしている。 」
この後、千本中立売交叉点まで歩き、 市バスで宿泊するホテルのある四条大宮まで行き、今回の探訪は終えた。
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平安宮大蔵省跡 |
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