令和6年のNHK大河ドラマは紫式部をテーマにした「光る君へ」である。
令和六年(2024) 一月十三日(土)、紫式部が源氏物語を執筆した邸宅跡とされる
廬山寺(ろざんじ)を訪問した。
◎ 廬山寺
市バスで市立医大病院前バス停で降り、北に少し歩き、左折して次の交叉点を 右折すると、左側に「紫式部邸宅址」の石柱があり、廬山寺の山門があった。
「 廬山寺は、天慶年間(938〜44)に船岡山に創建されたが、 天正年間(1573〜1593)に当地に移転してきた天台園浄宗の大本山で、 開山は元三大師良源である。 」
門を入ると、左手には開祖を祀る元三大師堂が建っている。
「 元三大師堂は正面3間、奥行4間で、 前面1間通りを畳敷きの外陣とする。 その先が内陣で、奥に元三大師が祀られている。 この建物は、江戸時代天明の大火後の天保六年(1835)の再建である。 」
門をくぐった先にあるのは、紫式部の歌碑である。
歌碑の文字は、雨露で汚れてよく読めないが、
上部に めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれし夜半の月かな
紫式部
下部に 有馬山ゐなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする 大弐三位
と書かれているようである。
紫式部の句は、幼友達に送った句で、思いがけず出逢って、雲の中に隠れて
しまう夜中の月のように、お姿が確認できないまま、お帰りになってしまいました。
大弐三位は、小倉百人一首の歌人で、紫式部の娘である。
親仁親王(後冷泉天皇)の乳母となり、
後冷泉天皇の即位に伴い、従三位に任じられた。
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廬山寺には特別参観料800円を支払い、
別の窓口で4種類の御朱印から、
御本尊の弥陀三尊と紫式部邸宅址の2つをいただいた。
入ったところに金色の紫式部の座像があった。
「 紫式部は、平安京の東部の中河のち、現在の廬山寺境内全部に住んでいた。
紫式部の曽祖父・権中納言、藤原兼輔が建てた邸宅であり、
ここで育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み、
長元四年(1031) 五十九歳で亡くなったとされる。
紫式部は、藤原香子と呼び、源氏物語、紫式部日記、紫式部集などのほとんどが
この地で執筆された。
源氏物語に出てくる花散里の巻の屋敷はこのあたりに<あっただろうと、
いわれている。
花散里で右大臣の圧力が強まり、心休まらない源氏は、
花散里に逢いに出かける場面で、「中川のほどおはし過ぐるに」とあることから、花散里邸はこの辺りと推定されている。
花散里は姉の麗景殿女御と住んでいた。
また、箒木の巻では、光源氏が方違えで紀伊守邸を訪れ、
空蝉に出会う場面があるが、この屋敷があった場所も中川である。」
建物内は撮影禁止である。
最初に元三大師堂に案内され、お参りをした。
続いて、本堂(御仏殿)に入り、御本尊の弥陀三尊に手を合わせた。
「 現在の本堂(御仏殿)と黒戸(尊牌殿)は、
寛政六年(1794)、光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、
女院・閑院宮の御下賜で造営されたものである。
御本尊の阿弥陀如来と観音菩薩と勢至菩薩の両脇侍像坐像は、
平安時代末〜鎌倉時代初期の作で、国の重要文化財に指定されている。
黒戸とは宮中で云う仏間のことで、
仁孝天皇が宮中で祭られた光格天皇と新清和院皇后の御尊碑が安置されている。
」
本堂と黒戸の前には源氏庭が広がっている。
6月から9月初めまでは、紫の桔梗が苔の間に咲いている。
「 昭和四十年、廬山寺境内に紫式部の邸宅址の顕彰碑が建てられると共に、 源氏庭が整備された。 源氏庭は平安期の庭園の「感」を表現したもので、 白砂と苔の庭である。 源氏物語に出てくる朝顔は、今の花では桔梗のことで、 紫式部に因み、桔梗が植えられている。 」
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紫式部座像 |
◎ 清浄華院
廬山寺を出て、北に向うと右側に「大本山 清浄華院」の石柱と門がある。
清浄華院では慈覚大師を創立開山、親鸞上人を改宗開山としている。
説明板「清浄華院」
「 浄土宗八総本山の一つ。 浄華院ともいう。
貞観二年(860)、清和天皇の勅願により、
慈覚大師円仁が創建した禁裏内道場に始まる。
後に後白河・高倉・後鳥羽の三天皇から帰依を得た法然上人が、
この道場を賜り、浄土宗寺院に改めたとされる。
室町時代には皇室や公家。将軍家の帰依を得て、
浄土宗の筆頭寺院としての地位を築いたが、
応仁の乱により一時荒廃、天正年間に現在地へ移転した。
その後も皇室の帰依を受け、境内墓地には東山天皇母君敬法門院の他、
皇子、皇女の墓が多数営まれている。
幕末には、御所警備を担当した会津藩・薩摩藩・徳島藩。熊本藩の宿所の一つと
なり、会津藩主である京守護職となった松平容保が半年間過ごしている。
山科言継、姉小路公知などの著名人の墓も多い。 (以下省略) 」
門を入ると、右側の近代的な建物の前の入口門前に「松林院旧跡」の石柱が
建っている。
その先の右側に、法然上人800年大遠氏忌記念再建の華水手水舎がある。
正面の受付で御朱印を依頼すると、館内を自由にお参り下さい、
との話があり、大殿の不動堂をお参りした。
左手にある建物は大殿で、法然上人の像が安置されていた。
正面右側の不動堂には、
国の重要文化財「泣不動縁起絵巻」に由来するとされる、
泣浮動尊像が安置されていた。
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大 殿 |
◎ 梨木神社(なしのきじんじゃ)
清浄華院を出て、南に向い、十字路を右折し、細い道を南下する。
御所の東側は公家衆屋敷が建ち並び、梨木神社と御所の間にある梨木通りは
朝夕御所に参内する公家たちの参内道であったという。
左手に神社が見えてきたので、途中からであるが、境内に入ると、
神門があり、手前左側に「萩の宮 梨木神社」の説明板がある。
説明板「萩の宮 梨木神社」
「 御祭神は三条実萬公と三条実美公。
実萬公は光格・仁孝・孝明三天皇に仕え、皇室の中興に尽し、
王政復古の大義を唱えて、明治維新の原動力ともなられ、
安政の大獄の折、幕府より圧迫を受けて一乗寺村に幽居の後、
五十八歳で亡くなった。
明治二年その功績をメデ、天皇より忠成公のおくりなを賜り、
同十六年十月旧邸の地名にちなみ、梨木神社として創祀せられるに至った。
実美公は、父実萬公の遺志を継ぎ、朝威回復、
攘夷決行の急進派少壮公卿の中心人物として活躍。
しかし、文久三年八月十八日の政変で頓挫し、
同志の公卿と共に長州西国に赴かれ、
艱難辛苦を経て維新の大業を達成された明治の元勲である。
公は明治二年、東京へ遷都の際、御所廃止論が起きるも、
これに極力反対された。 今日なお栄えてある京都の大恩人である。
のち、大正四年、大正天皇即位ご大典の折、合祀された。 」
」
門をくぐって中に入ると、神楽殿があり、その奥に社殿があった。
「 境内の辺りは、平安時代前期、最初に摂正に任じられた藤原北家の 藤原良房の邸宅「染殿第」があった場所とされる。 染殿第は良房の娘・明子(文徳天皇の后、清和天皇の生母)の御所として、 使用されたといわれる。 」
参道を戻り、入口に向うと、右側にテークアウトのコ―ピーを出すところがあり、ところとごろでコ―ピーを楽しんでいた。
「 大正四年、宮中の賢所旧春興殿の一部が払い下げられて、 茶室として使用されていたが、昭和六十年に虚中庵が新設された。 」
その先に社務所があり、御朱印をいただいた。
その前に染井の井戸がある。
「 京都三名水「染井」「佐女牛井(さめがい」「縣井」の 一つである染井(そめい)井戸は、平安時代、 御所染殿第の宮中御用の染所の水として使用されたといわれる。 染井の水はまろやかで甘く、茶の湯にも適する水として知られている。 」
鳥居を出たところには、
日本で初めてノーベル賞を授賞された湯川秀樹博士の歌碑があり、
「 千年の昔の園も かくやありし 木の下かげに 乱れさく萩 」
とある。 梨木神社は別名「萩の宮」と称され、境内には数百本の萩が繁殖。
九月中、可憐な花が咲き乱れるという。
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