坂本龍馬と幕末の伏見の史跡めぐりで、伏見と中書島を歩いた。
◎ 大手筋通から油掛通り
その先の交差点を越えて進むと、左側に伏見区役所があり、
信号交差点になっている。 。
左右の毛利橋通を横断した先の道幅は狭くなっている。
前方上方に大きな円盤のようなものが見えてきたので近づくと、
その下にSOLOR ZONE とあり、大手筋と書かれていた。
左右の道は大手筋通である。 最初の道まで戻ってきたことになる。
大手筋通を西に向うと、浄土宗 大光寺の山門があり、
その前に「徳川家光 傳役 青山伯耆守屋敷跡」の石柱が建っている。
その先は西大手町で、願生寺や阿弥陀寺があった。
その先で左右が竹田街道の信号交叉点を越える。
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浄土宗 大光寺 |
大手橋を渡ると右側の民家の前に、 「坂本龍馬 避難の材木小屋跡」の石柱が建っていた。
「 慶応二年(1866)一月二十四日未明、 龍馬の捕縛を試みた伏見奉行所の役人が、龍馬がいた寺田屋を取り囲んだ。 しかし、その動きにいち早く気付いた龍馬の妻・お龍がすぐに知らせ、 龍馬は持っていたピストルで応戦。 三吉は槍を構えて戦いましたが、乱闘になり、 龍馬は両手首を切られてしまいます。 気絶した龍馬を肩に掛け、 裏口の物置を抜けて、隣家の戸を破り、小路に出て、 逃亡した三吉達は途中の寺に探索者がいるのに気付いて、 濠川沿いの材木小屋に身を潜めました。 三吉は伏見薩摩藩邸に駆け込みました。 その後、報せを聞いた薩摩藩は、 川船を出して龍馬を救出、ギリギリのところで、難を脱することができました。 」
来た道を戻り、竹田街道大手筋交叉点を右折して、南下する。
信号交叉点を左折すると、室町時代の寛正二年(1461)創業という、
「練羊羹 駿河屋本店」の看板を掲げる店がある。
店の左側に「電気鉄道事業発祥の地」の石碑と「油掛通」の説明板がある。
説明板「油掛通」
「 通称「油懸地蔵(西岸寺)の東西の通りを指す。
町名としては、上・中・下の3ヶ町からなる。
絵所時代、伏見港に近く、京・大坂へ行き交う旅人で賑わった。
明治時代、第一銀行が京都支店に続いてここ中油掛通に伏見支店を開設した。
明治28年には、下油掛より京都駅まで、
我が国最初の電気鉄道(後の市電)が営業を開始した。
大正時代に明治天皇の桃山御陵築営に伴い、
北一筋目の大手筋にその賑わいが移っていった。
この付近が物資集散地であったので、車町・塩屋町・本材木町・納屋町
といった当時の繁栄ぶりを示す町名が散在する。 」
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練羊羹 駿河屋本店 |
◎ 龍馬通りから長建寺
油掛通を東に向うと、左側に油掛地蔵を祀る西岸寺がある。
「 西岸寺は天正十八年(1590)に建立された浄土宗のお寺で、 慶応四年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで、地蔵堂を残して燃失した。 油懸地蔵は鎌倉時代の作と考えられる石造りの地蔵立像で、 油をかけると願いが叶うとされて信仰を集め、油の為に黒光りしている。 芭蕉の句碑が地蔵堂の北側にある。 」
油掛通を東に向うと、左右の道のポールに「龍馬通り」の看板が付いている。
左折して龍馬通りに入ると、飲食店が多くあった。
塗り壁の古い家は少ししかなく、幕罰志士を扱う土産屋・龍馬館は
月曜日のせいか、休業していた。
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虫籠壁の格子の家 |
龍馬通りを南下し、油掛通を越し、交叉点を左折すると、
左側に黄桜(株)の建物が建ち並ぶ。
伏見は古くから酒造りが行われたので、黄桜もそうと思っていたが。
戦後の昭和二十年というので、伏見では新参者なのだ。
右側に黄桜カッパカントリーがあり、
展示館では漫画家・清水昆に描かせたカッパをテーマに、
コマーシャル映画の上映や世界の河童に関する資料を展示している。
かってはこの展示館が目玉だったが、久しぶりに訪れると、
酒と食事を出す酒場がメインに変わっていた。
食事時間には早かったので、展示だけを見てあとにする。
黄桜に寄ったついでにこの南東にある月桂冠大倉酒造記念館に向かう。
この界隈食事処が増えていて、三叉路を右に曲がったところに京の台所月の職人
や左折したところには鳥せい本店がある。
月桂冠には三叉路を右折し、伏見銘酒共同組合の酒蔵を横目に見て過ぎると、
左右に月桂冠の酒蔵が建っている。
「 月桂冠は寛永十四年(1637)に、
月桂冠(大倉酒造)の創業者・大倉治右衛門が、
笠置の里(現相楽郡笠置町)から伏見に出てきて、酒造りを始めた。
伏見は、江戸時代には伏水と書かれたほど、伏流水に恵まれ、
酒造りの町として発展し、兵庫県の灘とともに醸造業が盛んである。
また、ここは旅人の往来する街道筋に面し、
舟着場の京橋と目と鼻の先の南浜の馬借前であり、
地の利もよかった。
羽柴秀吉は、伏見城をつくるため、淀川を巨椋池から切り離し、
城山の真下へ迂回させ、その一部を町の中に引き入れ、
城の外堀とするなど河川の大改修を行った。 明治の終わり頃までは、
米、薪炭、樽材などの原材料から酒樽までの全てが、
濠川を上下する船で運ばれていた。 そうしたことから、
現在も、ほとんどの酒蔵は、この濠川(ほりかわ)に接して建てられている。 」
月桂冠大倉記念館は、酒造りの歴史を伝えるために作られた施設で、
600円の入場料がいるのだが、訪れた時は改修中で、施設の一部だけの見学であった。 売店もきき酒コーナーもなかったので、あっという間に見学が終了した。
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月桂冠の建物 |
月桂冠大倉記念館を出て、南に進むと濠川に架かる弁天橋を渡る。
渡り終えた先の右側に楽なん保勝会の説明板があり、
川の向うには十石船の舟乗場が見えた。
説明板の一部
「 ここは弁天浜といい、向う側は大倉浜といい、
明治二十二年東海道線の開通まで、この浜で米が降ろされ、
酒が積み込まれたところである。
この浜の北側は伏見南浜港で、江戸時代には参勤交代の大名の御座船を初め、
三十石船、伏見船の発着点として日本でも珍しい河港であった。 」
水のない濠川には復元された十石船がビニールカバーで包まれて四隻あった。
左側の一段低いところに長建寺がある。
中に入っていくと、「弁財天」の幟がひらめいていた。
「 長建寺は、真言宗醍醐派属する寺で、
鎌倉時代後期に造られた弁財天を本尊としている。
元禄十二年(1699)伏見奉行建部内匠頭政宇が中書島を開拓するに当り、
深草大亀谷即成就院の塔頭・多聞院をここに移し、
弁財天を祀ったのが始まりである。
洛南三大奇祭の一つといわれた弁天祭の船渡御は、
神輿を乗せた船や篝火を焚いた船団が弁天浜から出発し、宇治川・淀川へ出た。
淀川の流れが変わったことなどから、昭和二十六年で終了している。 」
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十石船 |
◎ 寺田屋から伏見港公園
寺を出て、濠川に沿って北西に進むと蓬莱橋があるところにでる。
橋を渡ると、先程歩いた龍馬通りの先に出る。
最初の交叉点を左折すると、右側に「旅籠 寺田屋」の看板を掲げる寺田屋があり、わずかに船宿の名残をとどめている。
家の右手の門の右側に「史跡 寺田屋」と「薩摩七烈士殉難の址」の石碑と、
左側に「寺田屋騒動址」の説明板が建っている。
説明板「寺田屋騒動址」
「 文久二年(1862)四月、尊王攘夷派の先鋒だった薩摩藩士九名が殺傷される
という明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こったのである。
薩摩藩には、藩主の父・島津久光を中心とする公武合体を奉ずる温和派と、
勤王倒幕を主張する急進派との二派があった。
久光は急進派の動きを押さえようとして、兵千余名を率いて京都へ入った。
これを知った新七ら三十余名の急進派志士は、
関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を殺害するべく、
文久二年四月二十三日、薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助宅に集った。
これを知った久光は、藩士奈良原ら八名を派遣し、
新七らの計画を断念させるべく説得に努めたが失敗、
遂に乱闘となり、新七ら七名が斬られ、二人は重傷を負い、翌日切腹した。
奥の広場にある殉難碑は明治二十七年(1894)の建立で、
有栖川宮たるひと親王の筆になるてん額を掲げる。 」
事件の舞台になった一階の奥の部屋は残っていて、
庭には、寺田屋騒動の記念碑が建っていた。
二階にはお龍などの写真や頼山陽の額などが掲げられていて、
坂本龍馬が使用した部屋が残っている。
「 寺田屋は坂本龍馬の定宿でもあった。
慶応二年(1866)一月二十一日、
龍馬と長州藩の三吉慎蔵がいることを知った伏見奉行所は、
見廻組にも応援を頼み、二階の龍馬の部屋を襲ったが、
許嫁のお龍の機転により、龍馬はかろうじて脱出することができた。 」
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寺田屋騒動記念碑 |
寺田屋を出て、西に向うと右側に子安観世音菩薩など、石像・石碑群があった。
交叉点を左折すると濠川に架かる京橋に出る。
「 東海道(京街道)の伏見宿は、 西国大名が参勤交代の際、必ず通るところで、その中心は、 現在の京橋付近だったようである。 京橋北詰には高札場、南詰には幕府公認の過書船(かしょぶね)番所や 船高札場などがあり、本陣は四軒、脇本陣は二軒、 旅籠が三十九軒あったという。 」
橋の袂にある長岡京小倉山荘の隣に、
「伏見口の戦い激戦地跡」の石柱が建っている。
京橋を渡ると、左側に木で組まれた鳥居のようなものがあり、
伏見公園と書かれているので、中に入ると、濠川に出た。
伏見みなと公園は、三十石船乗り場跡である。
「 濠川は宇治川・淀川に通じていて、
慶長年間に角倉了以が京都市中と伏見との間に高瀬川を開削するに及んで、
この付近は旅人や貨物を輸送する船着場として大いに賑わった。
淀川を行き来して貨客を運ぶ三十石船や高瀬川をを往来した高瀬舟、
更に宇治川を下ってきた柴舟などが、この辺りにひしめきあい、
数十軒の船宿も建ち並び、昼夜の別なく雑踏を極めていた。 」
伏見から大阪高麗橋までの京街道を旅する人は歩く人もいたが、
多くの人は三十石船のお世話になり、旅を続けたのである。
公園に降りて、右手に龍馬・お龍 愛の旅路像があった。
説明碑「龍馬とお龍 愛の旅路像」
「 薩長同盟を締結させた直後の慶応二年(1866)、
寺田屋に宿泊していた坂本龍馬は奉行所配下の捕り手に囲まれます。
この時、危機を察知したお龍により、
命を救われた龍馬は、しばらく伏見薩摩藩邸にかくまわれていましたが、
右手の儀図をなおすため、ここ寺田屋浜から三十石船に乗り、
お龍とともに、九州の霧島へと旅立ったのである。 」
この像は新しく、
平成25年に地元のライオンズクラブにより建立されたものである。
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伏見みなと公園 |
公園入口に戻ると、県道の対面に京都市伏見土木みどり事務所がある。
建物の一角に「伏見長州藩邸跡」の石柱が建っている。
また、、道路に面した花壇の脇には、観月橋の橋柱が建っていた。
島津、毛利などの西国大名は伏見で宿泊する屋敷を持っていた。
ここは長州藩伏見藩邸跡である。
「 長州藩邸は、元禄十二年(1699)の中書島新地開発以降に、 伏見城近くから京街道に面するここに移転してきたと思われる。 元治元年(1864)七月に起きた禁門の変で、京に進軍した兵が敗れ、 敗走し藩邸に逃げ帰ったが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃し、 伏見長州藩邸は焼け落ちてしまった。 」
その先、県道を歩いて行くと、頭上に「中書島」の標識が現れ、
道は三つに分かれている。 左は京阪本線中書島駅へ行く道で、
直進すると伏見港公園がある。
左手の京阪電車中書島駅には、「幕末のまち伏見」と「名酒のまち伏見」の
大きな看板があり、坂本龍馬のパネルと空の酒樽が積まれたオブジェがあった。
また、駅前には、「日本最古の市電 中書島駅」の説明板が建っていた。
「 我が国最古の電車路線であった伏見線(塩小路〜中書島)7.1km
と稲荷線(勧進橋〜稲荷)0.7kmは昭和四十五年三月三十一日に廃止された。
伏見線の歴史は古く、最初は京都電気鉄道の手によって、
塩小路東洞院〜油掛町が明治二十八年二月一日に日本初の路面電車として開通し、大正三年に延長部分開通して、中書島に達した。
(一部省略)
この路線は、由緒ある路線だけに専用軌道区間や酒蔵の並ぶ風格のある街並を
走っていて人気があった。 」
県道に戻り、中書島駅横の踏切を越え、南下すると、
信号交叉点の左手に伏見港公園がある。
公園は広く、中央に総合体育館があるが、その先まで進んで行くと、
「祝平成6年伏見港開港400年記念」と書かれた看板が金網にかかっていて、
その奥に復元された船が繋がれていたが、 熱気が冷めたのか、
放置されたようになっていた。
「
伏見港は秀吉の伏見城築城の際に造られ、大坂との水運の拠点となった。
江戸時代の1614年、角倉了以の高瀬川開削で高瀬舟が運航するようになり、
京都市中との往来が盛んになった。 十七世紀末には、幕府の援助で、
商人の共同出資で伏見舟が登場し、港はますます発展、
三十石舟が盛んに出入りし、沿岸に多くの問屋が建ち並びました。
明治時代には外輪船(蒸気船)が就航し、活況は続いた。
しかし、陸上輸送の近代化により、舟運は衰退し、
昭和三十年半ばで港の機能は幕を閉じた。 」
濠川に視点 を移すと、川の両脇は伏見港の歴史をしのび、
港の風景を再現したと思える公園になっていた。
屋根付きの休憩施設は、伏見港から浪速へ下った三十石船を、
また、時計塔は川灯台を イメージしたもののように思えた。
「宇治川派流一級河川 伏見港」 というイラストには、
江戸時代の中書島は離れ小島で遊所があったことや 、
京橋の近くには寺田屋のような船宿が多くあったことが描かれていた。
総合体育館もテニスコートも伏見港跡とあったので、
当時の伏見港は大きなものだったと思えた。
以上で、龍馬と幕末の史跡めぐりは終りである。
中身の濃い旅だった。
中書島駅から丹波橋で乗り換え、京都駅に出て、帰宅した。
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京阪中書島駅 |
目のゲストです!!