京 都 散 策
(京都名所めぐり)

「 インクライン・金地院・南禅寺 」




令和六年(2024) 一月十三日(土)、インクライン・金地院・南禅寺を訪問した。 

◎ インクライン

インクラインへは地下鉄東西線で、市役所前から乗り、蹴上駅で下車。
地下道をエスカレーターで上り、県道143号に出ると、左折して山科方面に 向う。
「式内日向大神宮」の石柱があるところを左折すると 、疏水が流れてくるところに出て、 安政六年(1859)三月建立の「大神宮」の常夜燈がある。

「 日向大神宮とは、顕宗天皇の時代に、 筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移したのが始まりとされ、 天智天皇がこの山を日御山と名づけ、清和天皇が天照大神を勧請した、 といわれる神社で、延喜式にも記名がある。 」

疎水に架かる太神宮橋に登って、大津方面を見ると、トンネルと 煉瓦造の建物がある。
このトンネルは琵琶湖疏水第3トンネル西口で、 煉瓦造りの建物は旧御所水道ポンプ室である。

「 明治に入ると、大津港から南禅寺溜まりまで、 琵琶湖疏水を利用して、船に人や荷物を載せたまま運ぶ輸送が行われた。 
しかし、ここから南禅寺船溜りまでは坂の傾斜が大きくて、 そのまま運ぶことができない。  そこで採用されたのがインクライン方式である。 
蹴上船溜り場から南禅寺船溜り場までの640mに、 土砂で傾斜を付けて、レールを敷き、 レールの上に船を載せた台車を置き、ケーブルカーのようにケーブル で引っ張って上下させるという方法(である。 
動力には蹴上発電所の電力が使用された。 
第3トンネルを出たところにびわ湖疏水船蹴上乗下船場があり、  人はここで乗下船していた。 
船は下流の蹴上疏水船溜り場まで行くと、荷物を乗せた船は持ち上げられ、 インクラインにある台車に乗せられ、 ロープを動かして、下の南禅寺船溜場まで運ばれた。 」

インクラインのレールは、南禅寺に向って、続いている。

日向大神宮参道橋 x トンネルと煉瓦造建物 x インクラインのレール
日向大神宮参道橋
トンネルと煉瓦造建物
インクラインのレール


橋を降り、蹴上船溜へ行くと、鉄のパイプで囲まれ、水がない空地で、 ロープを引っ張る装置があり、台車に高瀬舟が乗っていた。 インクラインの台車があった。 
インクラインは、鉄道などの発達により、需要が減り、 昭和二十三年(1848)に休止された。  電気設備やレールも撤去されたが、昭和五十五年に産業資産として、 復元され、復元された台車二台が展示されている。
その先の左側は本願寺水道水源地で、正面には義経地蔵が祀られている。 

説明板「蹴上 義経地蔵」
「 平安時代末期、義経は鞍馬山を離れ、平家打倒を胸に秘め、 金売吉次とともに奥州に向う途中、日ノ岡峠に差し掛かりました。  行く手から馬に乗った平家の関原与一ら九人の一団とすれ違った時、 一団の一人が誤って泥水を蹴り上げ、義経の衣服を汚してしまいました。  謝ることなく通り過ぎた一団の無礼に怒った義経は、 九人を切り殺したと伝えられています。 
斬り殺された九人の菩提を弔うために、村人が九体石仏を安置しました。  また、異説では九人を切り殺した後、 我にかえった義経が自分の行為を悔み、 村人に菩提を弔うよう頼んで、旅を続けたとも伝えられています。  九体の内、一体がここに祀られています。 
この地はもと九体町と呼ばれていて、花入れには義経大日如来と刻まれています。 
蹴上の地名は、この馬の蹴り上げか、 力を入れて蹴り上げる「蹴り上げ」が由来と伝えられています。 
    京 都 市                         」

蹴上船溜 x インクライン台車 x 義経地蔵
蹴上船溜
インクライン台車
義経地蔵



◎ ねじりまんぼ

県道(三条通り)に戻ると、道の右下に煉瓦造りの蹴上発電所の建物が見える。 

「 蹴上発電所は、 日本で最初の商用発電所で、琵琶湖疏水の水を利用して水力発電を行った。  明治二十三年(1890)一月に、工事を着工し、 明治二 十四年(1891)の八月に運転開始したが、明治四十五年(1912)二月に、 第二期に工事が完成すると、最初の建物は壊されたといい、 煉瓦造りの建物は、第二期のものである。 」

地下鉄蹴上駅の入口に戻ると、 左側に「雄観奇想」と書かれた煉瓦造りのトンネルがある。

説明板「ねじりまんぽ」
「 ねじりまんぽは三条通りから南禅寺へ向う道路の造営に伴って建設され、 明治二十一年(1888)六月に完成しました。  まんぽとは、トンネルを意味する古い言葉で、 ねじりまんぽはねじりのあるトンネルという意味です。
上部にあるインクライン(傾斜鉄道)と斜めに交わる道路に合わせ、 トンネルも斜めに掘られるとともに、強度を確保する観点から、 内壁のレンガを螺旋状に積む工法が採られています。 
トンネルの東西には、トンネルの完成を祝う第3代京都府知事の北垣国道が 揮毫した扁額があります。  西口の「雄観奇想」は、見事なながめとすぐれた考えである、 東の「陽気発処」は、精神を集中して物事を行えば、 どんな困難にも打ち勝つことができる、という意味です。 
このような形状のトンネルは旧国鉄東海道本線の敷設工事など、 関西で多く見られるますが、鉄道以外での施工例は希少です。  ねじりまんぽは、明治時代の土木技術を物語る貴重な遺産といえます。 
  京 都 市                           」

トンネルを抜けて、南禅寺に向うと道が左に曲がるが、 道の両側にある建物は法華経寺である。 

ねじりまんぽ x トンネル内部 x 法華経寺
ねじりまんぽ
トンネル内部
法華経寺



◎ 金地院

その先の左側にあるのは南禅寺・金地院の東照宮に通じる楼門である。 
扁額には「東照宮」と書かれていて、寛永五年(1628)の建立である。 
中に入るには更に進むと、「東照宮 鶴亀庭園 参観」と書かれた、 金地院の大門がある。 

「 金地院は、応永年間に大業和尚が足利義持の帰依を得て、 北山に開創した禅寺である。 慶長の初め、崇伝が南禅寺塔頭に移築し、 現在に至る。 本尊は地蔵菩薩である。  江戸幕府の法律や外交を担った僧・以心崇伝が住したところとして知られ、 僧録司が置かれ、江戸時代には五山十刹以下全ての寺の住職の任命権を持つ 最高機関であったという。 また、10万石の格式を持ち、寺大名に異名を 持っていた。 」

正面にあるのが金地院方丈(本堂)である。 

「 桁行11間、梁間7間の大規模な建造物であるが、 平面形式は禅院方丈に典型的な6間取りである。  前列中央に室中、その奥に本尊の地蔵菩薩像を安置する。  慶長十六年、崇伝は伏見桃山城の一部を徳川家光より賜り移築したもので、 襖絵は狩野探幽並びに尚信の筆である。 」

東照宮楼門 x 金地院大門 x 金地院方丈
東照宮楼門
金地院大門
金地院方丈


受付で拝観料を支払い、拝観入口の矢印に従い進むと、明智門がある。 

「 この門は、天正十年(1582)、明智光秀が母の菩提のために、 大徳寺方丈に寄進したもの。  ここに建っていた唐門を豊国神社へ移築した 為、明治十九年(1887)に大徳寺から買得し、移築された。 」

門に入ると弁天池があり、石橋の先には弁財天が祀られている。

「 元は東照宮と開山堂の間にあった(現在は竹林になっている ところ)が、明治初期に現在地に移された。 」

左折して、樹木の庭を進むと、東照宮の楼門に出た。 

明智門 x 弁天池 x 東照宮楼門
明智門
弁天池
東照宮楼門


東照宮の参道には常夜燈と石の鳥居があった。 
鳥居をくぐると、東照宮の回廊が現れた。
中に入ると、金色の打ち抜き金具と黒一色に統一された拝殿と本殿があった。

「 崇伝が徳川家康の遺髪と念持仏を奉載して、 寛永五年造営したものである。 現存する拝殿・石ノ間・本殿等は 京都に遺る唯一の権現造り様式である。  拝殿天井の鳴龍は狩野探幽の筆・三十六歌仙の額は土佐光起の筆であり、 歌は青蓮院宮尊純法親王の御筆跡である。 」

常夜燈と石の鳥居 x 東照宮回塀 x 東照宮拝殿
常夜燈と石の鳥居
東照宮回塀
東照宮拝殿


東照宮を出ると、開山堂まで、形が違う飛び石が続いている。 
これは小堀遠州が選んだものか、否かは確認しなかったが、風情がある。
開山堂は崇伝の塔所にして、後水尾天皇の勅額を掲げ、 左右に十六羅漢像が安置されている。 
開山堂から方丈に出ると、正面に白砂が広がり、奥に長く連なる石組の庭がある。 これが鶴亀の庭である。

「 寛永七年、小堀遠州の作である。 
桃山時代の風格を備えた江戸時代初期の代表的な枯山水にして、 古来名声高き庭園である。 
前面の白砂は宝船を象徴し、かつ、海洋を表す。  長方形の大きな平面石は東照宮の遙拝石である。  その右の石が鶴島、左が亀島である。  中間に群仙島を象る石を点在させて、 前方には崖地を利用して蓬莱石組を立てる。  背景の大刈込は、幾重にも折れ重なる山々で、深山幽谷を現す。 」

鶴亀の庭園は国の特別名勝に指定されている。
前の白砂が広く大きく、その奥に石組が横と縦にあり、 目に収まりきれない。 これが戦国時代の終わりの桃山文化なのかな、 と思いながら、金地院をあとにした。

飛び石 x 開山堂 x 鶴亀の庭園
飛び石
開山堂
鶴亀の庭園



◎ 南禅寺

金地院を出て、北に向うと南禅寺の境内に入る。
大きく聳えているのは南禅寺の三門である。

「 寛永五年(1628)、藤堂高虎が大坂夏の陣の戦没者慰霊のため。 建立し寄進したものである。 五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺で、 上層には釈迦如来と十六羅漢像、藤堂家歴代の位牌と大坂夏の陣の戦没者の位牌を安置する。 歌舞伎で石川五右衛門が「絶景かな! 絶景かな! 」という台詞を述べる山門で有名であるが、五右衛門は五十年も前に亡くなっている。 」

三門の東にあるのが法堂で、その間にあるのは方丈庭園である。

「 法堂は、豊臣秀頼により、慶長十一年(1606)に再建されたが、 明治二十八年に焼失。 現在の建物は明治四十二年(1909)に再建されたものである。 本尊の釈迦如来像が祀られている。 」

法堂の東の突き当たりにあるのが、国宝に指定されている方丈である。

「 方丈は、大方丈と小方丈からなる。  大方丈は慶長の御所建て替えに際し、 天正年間(1573〜1593)に豊臣秀吉により建てられた旧御所の建物( 女院御所の対面御殿)が、慶長十六年(1611)に下賜され、移築されたものである。 接続して建つ小方丈は、寛永年間(1624〜1645) に建てられた伏見城の 小書院という。 」

南禅寺三門 x 法堂 x 方丈
南禅寺三門
法堂
方丈


方丈の前庭にある枯山水の庭園は「虎の子渡し」と呼ばれる庭園で、 小堀遠州の作といわれ、国の特別名勝である。
小方丈にある「如心庭」庭園は、昭和四十一年(1966)当時の管長・柴山全慶老師 による作庭である。 
その他、「六道庭」・「蓬莱神仙庭」などの庭園がある。
方丈を出ると、左に上ったところに水路閣がある。

「 先程、インクラインで見た琵琶湖疏水は水路閣の上を流れている。 明治二十一年(1888)に築かれた、レンガ造りのアーチ橋である。 」

以上で、全ての見学を終了。 南禅寺・永観堂道バス停からバスに乗り、 京都駅に戻った。 

庭園「虎の子渡し」 x 小方丈庭園「如心庭」 x 水路閣
庭園「虎の子渡し」
小方丈庭園「如心庭」
水路閣




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