幕末の京都は、佐幕か勤王かの混沌とした時代であった。
ゆかりの地を訪ねた。
◎ 金戒光明寺
金戒光明寺は、自然の要塞になっており、御所や粟田口にも近く、
軍事的要衝の地であった。
また、大きな寺域により、一千名の軍隊も駐屯することができた。
「
幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、徳川幕府はついに新しい職制を作り、
京都の治安維持に当らせることになった。
これが京都守護職である。
文久二年(1862)閏八月、会津藩主・松平容保は、十四代将軍、徳川家茂から
京都守護職に任ぜられ、同十二月二十四日、家臣一千名を率いて、京都に到着し、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受けて、
本陣となる黒谷の金戒光明寺に威風堂々と入陣した。
松平容保は、会津藩兵だけでは手がまわらないため、
守護職御預かりとして、新撰組を支配下に置き、治安の維持に当らせた。
この頃、中間として出入りしていた侠客が、会津小鉄こと、上坂仙吉である。 」
金戒光明寺は今も大きな面積を持つ。
大方丈から、出口に向ったところにある大玄関の
左側には「新撰組」の旗が翻っていた。
また、「御朱印志納所」の看板があるので、入ってご朱印をいただいた。
金戒光明寺の奥は坂になっていて、墓地が広がっている。
文殊塔の左方向に歩いていくと、会津藩殉難者墓地があった。
松平容保は、孝明天皇の信任が厚く、禁裏洛中を挙藩一致して大義を明らかにし、会津軍の忠誠は歴史にその名を残した。
しかし、会津藩の犠牲は大きかった。
「
当時の京都は尊攘激派による暗殺の坩堝(るつぼ)と化していたが、
守護職となった会津藩の活動には目を瞠るものがあり、
翌年八月十八日には激派の宮卿を洛中から追放し、
元治元年(1864)六月には守護職配下の新撰組による「池田屋騒動」、
七月十八日十九日の「禁門の変」の勝利などで、治安は回復されてきた。
しかし、会津藩の犠牲は大きく、
藩士や仲間小者などで戦死、戦病死する者が続出し、
文久二年から慶応三年までの六ヵ年に亡くなった人が二百三十七霊を
かぞえた。
その為、本陣の金戒光明寺の山上に三百坪の墓地が整備され、そこに葬られた。
また、明治四十年三月に、慰霊碑を建立し、
鳥羽伏見の戦いの百十五霊を合祀している。 」
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◎ 壬 生
壬生寺は正暦二年(991)に創建された寺で、本尊は延命地蔵菩薩である。
文久三年(1863)、新撰組が、壬生に屯所を置き、当寺を大砲や剣術・馬術の訓練
の場所として使用した。
壬生塚には近藤勇の胸像、芹沢鴨らの墓塔がある。
また、正門北側には八木邸や旧前川邸が残っている。
八木邸や旧前川邸は有料公開されているが、館内の撮影は禁止である。
「 八木家は、壬生村きっての旧家で、
かって壬生郷士の長老を務めていた。
幕末には新撰組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり、旧壬生屯所として
知られている。
文久三年(1863)、将軍・家茂が上洛の際、その護衛の為上洛した浪人達は、
まもなく江戸に呼び戻されることになったが、
当八木家を宿所にしていた、芹沢鴨・近藤勇・土方歳三・沖田総司ら、
十三名は京に残り、八木家の門前に「松平肥後守御領新撰組」の看板を掲げた。 その後、隊員が増えたため、当家では収容できなくなり、
前川家や南部家にも宿所が当てられた。 」
八木家の奥座敷で、同年九月十八日に起きたのが、芹沢鴨の暗殺である。
「 どしゃぶりの深夜に、芹沢鴨・平山五郎ら四名が斬殺された。
部屋には刀傷が今も残っている。
これにより、近藤が実権を握り、統制が強化され、池田屋事件など、
新撰組の最盛期が訪れた。
慶応元年(1865)、壬生が手狭になったことを理由に、
西本願寺の太鼓番屋へ屯所が移されたが、
鳥羽伏見の戦いで敗れるまで、壬生は洋式訓練の場所にするなどして、
新鮮組が江戸に下るまで使用された。 」
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八木邸 |
◎ 三条周辺
中京区一之船入町、京都市役所の対面にホテルオオクラ京都がある。
ホテルオオクラの敷地は、長州毛利藩の敷地の一部であった。
入口の左手に、桂小五郎の銅像がある。
「 明治維新を成し遂げ、近代日本の礎を築いた桂小五郎(木戸孝允 1833−1877)
は長州藩士、吉田松陰の門下生である。
江戸時代初期、長州毛利藩は、高瀬川一之船入南側から御池通りまでの
河原通りから木屋町通りの一帯に藩邸を建てた。 京都の物産を買ったり、
長州の物産を売ったりするという経済的目的の他、
京都の有職故実や流行を知る文化的役割を持っていた。
幕末になると、公武合体論、尊王攘夷派の一大政治拠点となり、
長州藩出身者だけでなく、
脱藩してきた尊攘派の者が多く身を寄せていたといわれる。 」
日銀京都支店の右手に「明治天皇行幸所鐵工場址」の石柱が建っている。
「 明治天皇は、明治十年(1877)、関西行幸を行れ、 同年二月二日にここにあった勧業場を視察した。 明治政府は、明治四年(1871)、長州藩邸跡に、遷都後の産業振興を図るため、 勧業場を造った。 また、欧米各国の先端技術を導入した各種の生産施設を造った。 明治十四年(1881)、その役割は終えたとして、勧業場は廃止された。 」
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桂小五郎像 |
三条通りの「旅籠茶屋 池田屋 はなの舞」(中京区中島町)の前に、
「史跡 池田屋騒動之址」 と書かれた石碑がある。
幕末、旅籠・池田屋は、高瀬川に架かる三条小橋の近くにあり、
前述した長州藩邸はこの北方に、また、坂本龍馬の出身の土佐藩邸は、
南方にあった。
また、高瀬舟を利用すれば、薩摩藩が伏見で利用した船宿。寺田屋にも
簡単に行くことができた。
池田屋騒動
「 元治元年(1864) 六月五日早朝、新撰組は、かねてより探索していた
四条小橋西で、薪炭商の桝屋喜右衛門こと、古高俊太郎を捕えた。
古高を壬生屯所に連行し、土方が厳しく取り調べた結果、
御所を焼き討ちし、守護職の松平容保を襲う計画が発覚する。
近藤は、直ちに守護職、所司代、奉行所、会津藩に通報し、
夜五つ刻に祇園会所で会津藩兵と待ち合わせることにした。
しかし、会津藩は約束の五つになってもこない。
痺れを切らした新鮮組は、浪士狩りを一刻の猶予も出来ないと、
近藤組は鴨川西側木屋町を北へ、土方隊は鴨川東側縄手を北へと二手に分かれ、
潜伏場所の茶屋、商家、旅籠等を御用改めして行った。
一方、古高が連行されたことを知った倒幕派は、
新鮮組の屯所を襲撃し、古高を奪還すべきと主張し、潜伏中の倒幕派に、
三条小橋西の旅籠・池田屋に集合するよう回状が送られ、
長州藩士桂小五郎も池田屋に来たが、早くきすぎたので、
池田屋裏の対馬藩邸に寄っていたので、難を免れたという。
近藤隊が三条小橋付近に着いたのが十時頃、一軒の旅籠「池田屋」に明りが
漏れていることに不信を抱き、十名のうち、六名は表口、裏口を固め、
近藤、沖田、永倉、藤堂の四名で屋内へ、
近藤は、宿の者へ「御用改め」と告げると、主人池田屋惣兵衛は慌てて、
二階に駈け上がり、後を追って近藤が二階に上ると、
そこには集会中の諸藩の倒幕派数十名の人がいた。
沖田が立ち向ってきた男を斬り、すぐに乱闘になった。
屋内で戦うもの、二階から下に飛び降りる者、階段を駈け下る者、
これを隊士が迎え撃つ。
途中から土方隊らが加わった。
闘いは三時間ほど続き、近藤隊は一名死亡、
藤堂、永倉が負傷し、倒幕派は肥後藩士、宮部鼎蔵他六名が慙死した。
一方、予定時間を大幅に遅れて会津藩兵五百名が到着したころには、
すでに戦いは終わっていた。
なお、倒幕派は捕縛されたもの十数人を数え、
その中で獄死した者や刑死した者が七〜八人いる。
この事件は、尊攘派にとって、倒幕が一年遅れたといわれるほど、
大きな痛手を被りました。
一方、この事件で新撰組の勇名は世に轟くことになりました。 」
池田屋主人は捕えられ、獄中死。 池田屋は7ヶ月の営業停止となった。
親類が近く営業を開始したが、後に廃業。
元の池田屋は人手に渡り、佐々木旅館として営業していたが、廃業になり、
昭和三十年台まで建物は残っていたが、壊され、パチンコ屋などを経て、
現在の建物になった。
旅籠茶屋 池田屋 はなの舞の店内に入ると、
新撰組にちなむ、隊士カクテルやイラストなどがある。
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三条小橋付近に「佐久間象山先生 大村益次郎 遭難之碑」 がある。
説明板「佐久間象山先生 大村益次郎 遭難之碑」
「 佐久間象山は、信州松代藩の出身で、儒学や朱子学を修め、
西洋科学の導入で日本の殖産興国に尽力しました。
彼の塾からは、勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬ら傑物を輩出しています。
元治元年(1864)に上洛し、開国論を唱えて公武合体に努めたため、
同年七月十一日に剣客に斬殺されました。
大村益次郎は、長州藩出身で、医学を梅田幽斉に学び、
さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵学者となりました。
長州藩の軍事指導者として活躍し、
その功績から維新後、兵部大輔に任命され、近代兵制樹立に尽力しました。
しかし、廃刀論で士族の反感を買い、明治二年に三条木屋町にて、
反対派士族に襲われ、同年敗血症で死去しました。
三条小橋商店街振興組合 」
三条大橋の擬宝珠に刀傷が残っている。
「 三条大橋の西側から二つ目の南北擬宝珠に刀傷があります。 これは池田屋騒動の時についたのではないかといわれており、 現在でも見て取れる刀傷です。 」
三条大橋を渡ると、右側に高山彦九郎の銅像がある。
高山彦九郎 皇居望拝之像
「 江戸時代、ここ佐mm条大橋は東海道五十三次の起終点にあたり、
往時の都の出入口であった。 今ここにある銅像は、高山彦九郎正之(1747〜1793)の姿を写したものである。
高山彦九郎は、群馬県の出身である。 十八歳の時以来、前後五回、
上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像の姿のように、
京都御所に向って拝礼をした。
その姿は。
大御門その方向きて橋の上に 頂根突きけむ真心たふと 橘 曙覧
と和歌に詠まれた。
明治維新を成就した勤皇の志士達は、彦九郎を心の糧と仰いたと言われる。
後、明治の中頃の俚謡、サノサ節には、
人は武士 気概は高山彦九郎 郷の三条の橋の上
遥かに皇居を伏し拝み 落つる涙は鴨の水 アサノサ
と謡いつがれた。
京都市観光部振興課 高山彦九郎大人顕彰会寄贈 」
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◎ 薩摩藩邸
薩摩藩邸は、当初、錦小路にあったが、手狭なため、文京三年(1863)、
島津久光が上洛後に上京区の相国寺南の二本松に新屋敷を構えた。
ここで、薩長同盟が締結された。
明治に入り、二本松邸は、京都府のものとなり、
新島襄が買い取り、同志社大学の敷地になった。
同志社大学今出川キャンパスの入口近くに、
「薩摩藩邸跡」の石碑と「京・薩摩藩邸(二本松屋敷)」の説明板が建っている。
説明板「京・薩摩藩邸(二本松屋敷)」
「 日本が未曾有の大混乱に陥った幕末、
文久二年(1862)九月、薩摩(鹿児島)藩が相国寺から土地を借りうけ、
京都に新たな藩邸を造営する。
同志社大学今出川キャンバスの約三分の二を占める広大な敷地の藩邸が、
御所に近隣して誕生した。
そして、この場所は幕末京都において、薩摩藩の政治的な重要拠点となっていく。
大政奉還の後、戊辰戦争が勃発、
その直後に会津藩士山本覚馬(新島襄の妻・八重の兄)は捕えられ、
ここの藩邸に幽閉された。
その折にまとめた建白(通称「管見」)が、
京都の近代化の指針として後に影響を与えた。
明治時代になると、京の薩摩藩邸は京都府に接収され、民間に売却された。
そして人手を経て新島襄が購入した。
同志社大学 」
相国寺東門付近には、蛤御門変で長州藩と戦った薩摩藩士の墓がある。
「甲子役 薩藩戦死者墓 戊辰役」と書かれた大きな石碑があり
その先に石柱で囲まれた墓地がある。
「 甲子役は、元治元年(1864)に起きた禁門の変である。
慶応四年(1868)に起きた戊辰役(鳥羽伏見の戦い)で亡くなった戦死者との合葬に
なっている。
薩摩藩邸が近くにあったことからここに設けられたと思われる。
蛤御門の変は長州藩が薩摩藩と戦ったが、長州藩の戦死者の墓も
相国寺塔頭の大光明寺境内にあるようで、
薩摩藩が長州藩の約二十名の首を獲り、この地に埋葬した。
その後、明治39年に、毛利家が墓石を建立した、という。 」
錦小路にあった薩摩藩邸では、元治元年(1864)六月、坂本龍馬が
西郷隆盛に初めて会ったところである。
寺田屋騒動の際には、薩摩藩の急進派の藩士に混じって、
土佐藩を脱藩した吉村寅太郎達もここにいたようである。
禁門(蛤御門)の変の戦火で、京都の町が大火となった際、大きな被害を受け、
その後、廃邸となった。
跡地は誓願寺の所有となり、
その後、京都証券取引所になった。
京都証券取引所は、2001年に大阪証券取引所に統合されたため、
現在は京都証券ビル(大丸左側)として残っている。
その一角に「薩摩藩邸跡」の石柱がある。
説明板「誓願寺」
「 天智天皇六年(667)、天皇の勅願により創建された。
本尊の阿弥陀如来座像は、賢間子・芥子国の作であった。
もとは奈良にあったが、鎌倉初期に京都の一条小川に移転し、
天正一九年(1591)に豊臣秀吉の寺町整備に際して、現在地に移された。
表門は寺町六角に面し、裏門は三条通に北面し、
境内地六千五百坪には多数の伽藍を有し、十八ヶ寺の山内寺院を擁していた。
清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことにより、
女人往生の寺として名高い。
(以下省略) 」
近江屋事件が起きた近江屋は河原通り蛸屋敷下るの、かっぽ寿司の場所に あったようである。
「 坂本龍馬は、定宿としていた寺田屋が江戸幕府に目をつけられ、危険と感じ、三条通りの材木商・酢屋を拠点にしたが、
慶応三年(1867)十月、近江屋へ移った。
近江屋は、醤油商として禁門の変後、土佐藩の御用を務めており、
その屋敷は土佐藩志士の基地的存在であった。
慶応三年(1867)十一月十五日、坂本龍馬と中岡慎太郎、
龍馬の従僕、山田籐吉が近江屋で、
江戸幕府の京都見廻組の佐々木只三郎らにより、殺害された。 」
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