京 都 散 策
(京都名所めぐり)

「 相国寺・金閣寺・銀閣寺 」



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相国寺は京都五山第二位に列される名刹で、臨済宗相国寺派の総本山である。 
金閣寺も銀閣寺も相国寺の塔頭寺院である。

◎ 相国寺

「 相国寺は、十四世紀末、室町幕府の東側の地に 室町幕府第三代将軍・足利義満により創建された寺で、開山は無窓疎石、 中興の祖は白陰とする。  創建時は百四十四万坪程の敷地で、室町一条あたりに総門があり、 北は上御霊神社の森、東は寺町通、西は大宮通に渡る、広大な寺院であった。  伽藍は十年をかけて明徳三年(1392)に竣工、塔頭寺院は五十余りあったという。 しかし、それらの伽藍は大火で焼失。  その後、再建されたが、応仁の乱で、細川方の陣地となったために全焼、 その後も、細川晴元と三好長慶の戦いで全焼している。 」

禅宗の伽藍は、南北に山門、仏殿、法殿、方丈が、 一直線上に並んで建てられているのが特徴で、 相国寺も、法堂の北側に、方丈がある。  

「 法堂は、豊臣秀頼が、慶長十年(1605)に再建したもので、 日本最古の法堂として、 国の重要文化財に指定されている。 
仏殿が再建されないため、法堂が仏殿を兼ねているため、 本堂と呼ばれることがある。 
本尊は釈迦如来坐像、脇侍は阿難尊者像と迦葉尊者像で運慶による作といわれる。  天井にある蟠龍図は狩野光信によるもので、鳴き龍と呼ばれるものである。
法堂と渡り廊下で繋がる方丈は文化四年(1807)に、開山堂、庫裏と共に、 再建された。 
開山堂は、無窓疎石を祀るお堂で、 桃園天皇の皇后・恭礼門院の女院御所にあった黒書院を 文化四年(1807)に下賜されて、現在地に移築したものである。 」

開山堂の南に、弁天社、洪音堂、宗旦稲荷社がある。

「 弁天社の社殿は、十七世紀後半の建物で、 もとは久邇宮邸で祀られていたもので、 明治十三年(1880)に寄進され、 移築されたものである。 
洪音堂は鐘楼で、天明の火事で焼け、寛政元年(1789)古鐘を買い、 仮楼にかけ、天保十四年(1843) に現在の鐘楼を建てた。  袴付き鐘楼といわれ、大型のものは、日本有数である。 
宗旦稲荷社は、千宗旦に化けた狐・宗旦狐を祀っている。 」

境内に、大光明寺、大通院、林光院、光源院、養源院、 瑞春院などの塔頭がある。

「 大通院は伏見にあった大光明寺の境内に、 応永二十三年(1416)に逝去された栄仁親王(伏見宮家の祖)の菩提を弔うため、 親王のおくりなに因み、「大通院」の名で、創建され、 開祖は無窓国師である。 
大光明寺は、相国寺が建立される以前の暦応二年(1339)に、後伏見天皇の皇后、 広義門院西園寺寧子が天皇の菩提を弔うため、伏見離宮の傍らに一寺を建立 したのが始まり、皇后の法号の大光明院を寺名にした。 」

経堂の脇の道を西に進むと、左側には同志社大学の校舎があり、 右側には相国寺塔頭の瑞春院がある。

説明板「瑞春院 雁の寺」
「 由緒
 本尊 阿弥陀三尊仏(鎌倉時代)
足利義満公が、一山派、雪村友梅禅師の法嗣太清和尚を相国寺に迎請する為、 その禅室として雲頂院を創設、その後、雲頂院は兵火に懸り瑞春軒に合併、 瑞春軒は亀泉集證和尚が一四六六年から一四八四年(文正・文明年間)の間に創設。
(中間 略)
寺宇は天明年間に消失し、弘化から嘉永まで(1845〜1849)の間に、再建され、 今日の瑞春院に至る。
直樹賞の名作「雁の寺」の舞台として有名であり、 作者の水上勉が雛僧時代を過ごした禅院である。 
 庭園
当院には今昔の庭があり、南庭を雲頂庭と言う。  室町期の禅院風の枯山水で、枯淡な趣と、公素的な作意が禅的な世界を象徴している。
北庭は昭和の名庭、雲泉庭、文化庁文化保護専門審査官・文化功労賞を受賞された 庭園研究の権威、村岡正先生が、相国寺開山、夢窓国師の作風をとりいれ作庭した 池泉式庭園である。
 (以下 省略)   」

承天閣美術館では、中・近世の墨蹟・絵画・茶道具が収蔵されている。
鹿苑寺(金閣寺)に建つ、夕佳亭(金森宗和造といわれる)の復元や、 伊藤若冲の水墨画の一部が展示されている。
常設展の時に訪問したら、墨蹟と水墨画が展示されてたので、 書の良しあしが分からない小生には荷が重かった。
特別展示の時で、興味のある内容かを確かめた方がよいだろう。
お堂はの参拝は特別参拝時のみで、通常は参拝できない。
 10時〜16時 閉門は15時  800円
また、日曜日は庫裏の受付が休みなので、御朱印が受けられなかった。
なお、江戸時代の末には、相国寺の敷地の一部が薩摩藩邸になっていて、 その地を購入した同志社大学の功門脇に、 「薩摩藩二本松藩邸跡」の石柱が建っている。

相国寺 法堂 x 洪音堂(鐘楼) x 相国寺塔頭 瑞春院
相国寺 法堂
洪音堂(鐘楼)
相国寺塔頭 瑞春院



◎ 金閣寺

金閣寺の正式名称は鹿苑寺である。 鹿苑寺の舎利殿「金閣」が有名なため、 金閣寺と呼ばれるようになった。 

「 鹿苑寺(金閣寺)は、臨済宗相国寺派の山外塔頭寺院で、 平成八年(1994)に世界文化遺産に登録された。 
足利三代将軍・足利義満は、応永四年(1397)、 鎌倉時代の公卿・西園寺公径の別荘を、その子孫から河内国と交換で、 譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりで、 義満の死後、遺言により寺になり、無窓国師の開山で、義満の法号・ 鹿苑院から鹿苑寺と名付けられた。  」

舎利殿「金閣」は、室町時代前期の北山文化を代表する文化であったが、 昭和二十五年(1950)七月二日、学僧による放火で焼失した。  現在の建物は、昭和三十年(1955)に再建されたものである。 

「  金閣は、「法水院」と呼ばれる寝殿造の初層、「潮音洞」と呼ばれる、 武家造の二層、「究竟頂」と呼ばれる禅宗仏殿造の三層から成り、 公家文化と武家文化を折衷した建築様式は、北山文化の象徴とされる。  二層、三層は漆塗の上に、金箔が張られ、屋根の上には中国の伝説の鳥、 鳳凰が輝いている。 
初層に義満公坐像と宝冠釈迦如来像が、二層に岩屋観音坐像、四天王像が 須弥壇に祀られている。 
昭和二十五年の火災により、義満公坐像と宝冠釈迦如来像などが焼失、 鳳凰と後小松天皇の辰筆「究竟頂」の扁額は火災を免れた。  現在の義満公坐像などの仏像は復刻されたもので、 鳳凰も一新されており、片岡宏幹の作である。 」

壮大な庭園は、金閣寺を映す鏡湖池を中心に、池泉回遊式庭園になっていて、 鏡湖池には葦原島、鶴島、亀島などの島々の他、 畠山石、赤松石、細川石などの奇石、名石が多く配されている。 

茶室「夕佳亭(せっかてい)」は、金森宗和このみの茶室といわれる茶室である。 

「 寄棟造、茅葺、三畳敷の席に勝手と土間からなる主屋に、 切妻造こけら葺で二畳敷の鳳棲楼と呼ばれる上段の間が連なっている。  宗和が造ったものは明治初年に焼失、 現在の茶室は明治七年(1874)に再建されたものである。 
三畳敷の床柱は、茶室では珍しい南天の木が用いられている。 」

不動堂は金閣寺境内に現存する一番古い建物で、 天正年間に宇喜多秀家による再建で、本尊は空海作の伝承がある石不動明王である。 

舎利殿「金閣」 x 池泉回遊式庭園 x 茶室「夕佳亭」
舎利殿「金閣」
池泉回遊式庭園
茶室「夕佳亭」



◎ 銀閣寺

銀閣寺は、正式名称を東山慈照寺といい、 臨済宗相国寺の塔頭寺院の一つである。 
銀閣寺の名の由来は、江戸時代に金閣寺に対して、 銀閣寺と称せれることになったと言われている。

「 慈照寺(銀閣寺)は、 足利五代将軍・足利義政の隠居所「東山殿」を遺命によって、 寺としたものである。 国宝に指定されていて、平成六年(1994)に世界文化遺産に登録された。 
隠居所「東山殿」は、文明十四年(1482)から建設が始まり、 翌年には義政が移り住んだという。  義政の死の直前まで八年に渡り工事が続けられ、 東山文化の粋を尽くした数々の仏殿、住宅や庭園が造られた。  延徳二年(1490)、義政の菩提を弔うため、東山殿を禅寺に改め、 相国寺の末寺として創建され、 寺号は義政の法号「慈照院」にちなみ名付けられた。 
永禄元年(1558)の兵火により、 観音殿(銀閣)と東求堂(ともに国宝)を残して建物が焼失し、 元和元年(1639)に現在の寺観が整えられた。 」

池泉回遊式庭園の奥に観音殿(銀閣)がある。  観音殿には銀箔は張られていないが、 北山鹿苑寺の金閣に対し、一般に銀閣と呼ばれている。 
金閣に比べて、枯淡幽雅な特色が見られ、東山文化を代表する名建築である。

「 銀閣は、延徳元年(1489)建立の柿葺(こけらぶき)二階建て、 下層は心空殿と呼ばれる書院造の住宅、上層は観音像を安置する湖音閣と 呼ばれる禅宗様仏殿となっている。 
義政は、自らの宗教観を託し、一層を心空殿(しんくうでん)、 二層を湖音閣(ちょうおんかく)と命名した。  
庭園は国の特別史跡及び特別名勝である。 
義政は、鹿苑寺の舎利殿、西芳寺の瑠璃殿を踏襲、 唯一残る室町期の楼閣庭園建築の代表的建造物として有名である。 
上段の石組、下段池泉回遊式の二段から成り、 銀閣とよく調和している名園である。 」

方丈の前には、白砂の砂盛り向月台(こうげつだい)と、 波紋を表現した銀沙灘(ぎんしゃだん)がある。

「 銀沙灘は白砂を段形に盛り上げたもので、 月の光を反射させるためとか、向月台はこの上に座って、 東山に昇る月を待つためのものとか、という俗説がある。 
これらの二つの砂盛りは室町時代ではなく、 江戸時代以降の発想ではないかと、相国寺のホームページには書かれていた。  極めて独創的の砂盛りで、だれが考えだしたものだろうか? 」

観音殿(銀閣)と前庭 x 観音殿(銀閣) x 庭園・銀沙灘・向月台
池泉回遊式庭園(奥)観音殿
観音殿(銀閣)
庭園・銀沙灘・向月台


銀沙灘の奥の左側の建物が方丈で、 右の樹木の奥にあるのが東求堂(とうぐうどう)である.
方丈(本堂)は、江戸時代中期の建造、銀沙灘と対象をなす堂々とした たたずまいである。 

「 方丈の正面に「東山水上行」の扁額が掲げられていて、 本尊の釈迦牟尼仏が祀られ、襖絵は江戸時代の与謝蕪村と池大雅の作である( 室内撮影禁止)である。 方丈から見る月待山は絶景である。 」

東求堂は観音堂(銀閣)とともに、 東山殿造営当時の遺構として残る貴重なものである。

「 東求堂は文明十六年(1486)建立の義政公の持仏堂、 すなわち、阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂であった。  一重入母屋造、檜皮葺で、義政の持仏堂として建立されたが、 様式的には住宅建築の要素が強い。  日常生活のための住居の遺構としては最古のものといわれる。 
仏間には阿弥陀如来立像を安置、南よりに法体の足利義政像を安置する。 
東北に位置する四畳半の同仁斉は、入った北面の左側に半間巾の違棚があり、 右側に一間程の書院(出文机)がある。  違棚と出文机は回縁を張出す形で造られていて、 書院部分の外側は舞良戸、内側を明障子とする。  この棚と書院は、この種の部屋飾りとしては最古のもので、 床の間、違棚、付書院という座敷飾りが定型化以前の、 書院造の源流をなすものである。 」

宝処閣から方丈、東求堂は参拝できるが、館内撮影禁止である。
総門から中門まで続く長さ50mの参道。  その両脇にあるのは、銀閣寺垣と呼ばれる竹垣である。 
防衛をかねた外界との区切りとして設置されたものだが、 その厳粛な空間は我々の雑念をぬぐいとってくれる気がする。 

方丈(奥)東求堂 x 東求堂 x 銀閣寺垣
方丈(奥)東求堂
東求堂(右手前角に同仁斎がある)
銀閣寺垣


以上で、相国寺・金閣寺・銀閣寺の紹介は終りである。



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