◎ 大覚寺
寺を囲うクリーム色の土塀の前に「史跡 大覚寺御所址」の大きな石柱が建っている。 。
「 正式名は旧嵯峨御所大本山大覚寺で、真言宗大覚寺派の総本山である。
平安時代初期、嵯峨天皇が檀林皇后との御成婚の新居、離宮を建てたのが
離宮嵯峨院で、嵯峨院が大覚寺になったのは貞観十八年(876)である。
南北時代になると、皇位が皇統や所領の継承をめぐり、二分され、
亀山・後宇多の皇統は大覚寺統(南朝)と称されるようになる。
南北朝の争いに巻き込まれ、応仁の乱もあり、
大覚寺のほとんどの堂宇が焼失してしまう。
天正十七年(1589)から大覚寺の再建が始まり、
寛永年間(1624~1644)に、ほぼ寺観は整えられた。
明治時代初期まで、代々天皇あるいは皇室が門跡(住職)を務めた格調が高い
門跡寺院である。 いけばな嵯峨流の家元でもある。 」
表門をくぐると、明智神社と式台玄関があり、その間に納経所と拝観受付が ある。 館内は撮影禁止となっている。
「 式台玄関は、江戸時代に京都御所から移築されたもので、
玄関は特別の時以外は使用されない。
壁にある障壁画は狩野永徳による松に山鳥図で、
その前に第91代天皇である後宇多法王が使用した御輿があり、
脇には法王の御紋・九曜菊が施されている。 」
その先にあるのが宸殿である。
「 江戸時代の初めの延宝年間に、後水尾天皇から下賜された寝殿造の建物で、 天皇に入内した徳川二代将軍秀忠の娘・東福門院和子が、 女御御殿として使用していたものである。 襖絵は狩野山楽の牡丹と紅梅の図である。 正面の庭には右近の橘、左近の梅を配する。 」
宸殿と心経前殿を結ぶ回廊があるが、これは村雨の廊下と呼ばれている。
「 縦の柱を雨、直角に曲げられている回廊を稲光に例え、 村雨の廊下と呼ばれる。 高貴な方が通られる際の防犯のため、 天井は刀や槍を振り上げられないように、低く造られている。 床はうぐいす張りになっている。 」
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その先にあるのは心経前殿(御影堂)である。
「 大正天皇が即位の時建てられた饗宴殿を式後、
下賜され移築したもので、心経殿の前殿にあたるため、
心経前殿と呼ばれる。
心経殿に拝するため、建物の前方は開けられている。
嵯峨天皇、弘法大師、後宇多法王、恒寂入道親王の尊像をお祀りしているため、
御影堂という。 」
その先にあるのが、勅封心経殿である。
「 大正十四年(1925)に法隆寺夢殿を模して再建されたもので、 建物内に嵯峨天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、 光格天皇の勅封般若心経を奉安し、薬師如来が祀られている。 」
心経前殿(御影堂)の前の庭にあるのは石舞台で、 その奥に見えるのは勅使門である。
「 喜永年間(1845~1854)に再建されたもので、 屋根は切妻造、正面と背面に軒唐破風を付け、 全体は素木造りだが、唐破風の部分は漆を塗り、黄金飾り装飾を施している。 勅使の來山などの特別の時だけ開かれる。 」
心経前殿と廊下で繋がっているのが安井殿、その隣に五大堂(本堂)がある。
「
安井殿(御霊殿)は、京都東山にあった安井門跡蓮華光院の御影堂を、
明治四年(1871)に移築したものである。
天井の鏡板に花鳥などの絵が描かれて、中央には僧形の後水尾天皇を祀る。
五大堂は、現在の大覚寺の本堂で、不動明王を中心とする五大明王を祀る。
江戸時代中期の天明年間の創建で、正面中央は板唐戸、両脇各二間は蔀戸と
なっている。 」
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石舞台と勅使門 |
大沢池に面する東面には、池に張出すように観月台(濡れ縁)があり、
大沢池の展望がよく、大沢池参拝口がある。
下を見ると、池際に突き出て池舞台があった。
「 平安時代の月見は、直接満月の月を見るのではなく、 水面に映る月を見ていた、という。 その際、池に舟を浮かべて、眺めていたようである。 」
池の左側に五社明神と丸形をした放生池がある。
「 五社明神には、伊勢外宮・伊勢内宮・八幡宮・ 春日宮・住吉宮の神様が祀られていて、離宮嵯峨院の鎮守として、 弘法大師が勧請したと伝えられる。 」
その奥には、あか堂、その先に大日堂、聖天堂、蓮華殿、
心経宝塔が並んで建っている。
また、放生池の近くには護摩堂があり、近くに石仏群がある。
橋を渡ると、天神島で、嵯峨碑や嵯峨天皇御詠歌が建ち、御神木がある。
大覚寺を出ると、「大聖歓喜天 覚勝院」の石柱が建つ寺院がある。
「 嵯峨天皇と弘法大師の出会いの寺、旧嵯峨御所大覚寺、
その門前に残る唯一の塔頭寺院である。
覚勝院は700年前に、法皇の法流を継承する院家の住坊として建立された。
本堂は、正徳元年(1711)、徳川家宣の寄進によるもので、
本尊は十一面観世音菩薩と歓喜天である。
歓喜天は象頭人身の姿で表され、聖天様とも呼ばれ、
ここでは嵯峨聖天と呼ばれている。
ここには夕霧太夫像もある。 」
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五社明神 |
参拝時間 9時~17時(受付は)16時30分まで 500円
◎ 清涼寺
清涼寺は嵯峨釈迦堂の名でも知られる浄土宗の寺院である。
本尊は赤梅壇の等身体の釈迦如来で、国宝に指定されている。
「 この地には、嵯峨天皇の皇子で、
源氏物語の主人公・光源氏のモデルとされる、左大臣源融の別荘があった。
彼の死後、一周忌に、子息が阿弥陀三尊像を造り、
これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。
その後、
宋に渡ったちょうねんという僧が37歳の釈迦生身の姿を伝える霊像を持ちかえり、弟子のじょうさんが棲霞寺の釈迦堂に安置すると、
五台山清涼寺と改められた。
この仏像が多くの人々の信仰を集め、嵯峨釈迦堂と呼ばれるようになった。 」
仁王門は、嵯峨野の中央に立ち、嵯峨野の顔といわれている。
「 仁王門は、天明四年(1784)に再建されたもので、 「五台山」の額を掲げる。 和様と唐様を折衷したもので、 初層には室町時代の長享年間(1487~1489)の作とされる仁王像、 上層には十二羅漢像を祀る。 ケヤキ造りの二重二層の楼閣門である。 」
釈迦堂は本尊・三国伝来の生身釈迦如来像(国宝)を安置する本堂である。 現在の建物は、徳川綱吉と生母・桂昌院の発願で、住友吉左衛門友芳によって、 元禄十四年(1701)に再建されたものである。 堂正面に隠元の筆による「梅檀瑞像」の額が掲げられている。 」
本堂の背面には大方丈に通じる渡り廊下がある。
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釈迦堂(本堂) |
渡り廊下を歩くと、右上に弁天堂が見えてくる。
「 弁天堂は、本堂うしろの池に面して建っている。 弁天堂は、正面柱間三間、屋根宝形造で、正面に軒唐破風が付いている。 」
大方丈は享保年間(1716~1735)に再建されたものである。
方丈前の庭園は、ところどころに石を置いた枯れ山水の平庭で、
小堀遠州の作と伝えられる。
弁天堂の周囲は放生池の回遊式庭園になっていて、弁天堂の西には川中島があり、十三重石塔の忠霊塔が建っている。
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参拝時間 9時から16時 400円
◎ 清涼寺から檀林寺
清涼寺を出ると、宝筺院(ほうきょういん)がある。
「 宝筺院は、善入山と号する臨済宗の寺院である。
平安時代、白河天皇により創建され、当初は善入寺と称した。
南北朝時代に、夢窓疎石の高弟が入寺し、足利二代将軍足利義詮の保護を受け、
伽藍が復興された。 義詮の没後、その院号・宝筺院に因んで、
現在の寺名に改められた。
本堂には十一面千手観世音菩薩が安置されている。
境内には、楠木正行(正成の子)の首塚と伝えられる五輪石塔と、
義詮の墓と伝えられる三層の石塔がある。 」
県道50号(?)を進むと、レンガ色の塀の一角に、 「夕ぎり太夫遺跡」という石柱が建っていた。
「 夕霧太夫は、江戸時代、島原の名妓で、
この石柱は昭和四十四年(1969)に建てられたもので、
清涼寺西(右京区嵯峨二尊院門前北中院町)にある。
夕霧太夫は、この地に生まれ、
生家が清涼寺の塔頭・地蔵院の檀家であったことから、
地蔵院墓地にもお墓が造られた。
後に、地蔵院が廃寺になり、現在、
お墓は清涼寺の塔頭・覚勝院の管理になっている。 」
その先に、慈眼堂がある。
説明板「慈眼堂(中院観音)」
「 清涼寺から西に伸びるこの前の道は愛宕道で、
両側の一帯が中院で、北中院町と南中院町になっている。
十二世紀末、藤原定家(1162~1241)は、中院に山荘を構え、
嵯峨の自然を愛し、しばしばこの地に訪れた。
慈眼堂の本尊。木造千手観音立像は、附属する古文書によると、
藤原定家の念持仏で、定家の没後、子の為家(1198~1275)が伝領し、
為家からこの地の人々に与えられたものと伝え、
長くこの地の豪商浜松屋善助屋敷内の堂に祀られていた。
像は寄木造り、漆箔、彫眼の技法によって制作されており、
もの静かな面相と程よい肉身に、小づくりの脇手を配している。
保存状態は良く、天衣の体から遊離した部分や、
繊細な脇手持物の一部までも残っている。
本像は、仁治二年(1241)、
八十歳で亡くなった藤原定家の念持仏とする伝承にふさわしく、
十二世紀後半の様式を伝えるもので、
鎌倉時代初期における藤原風の美作として貴重なものであり、
昭和60年六月一日、京都市指定有文化財に指定された。
なお、慈眼堂では、中院の人々が毎年正月十四日の夜から十五日の日出まで
「日待ち」の行事を行い、また、定家、為家の法要も営んでいる。
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善光寺山町には、石仏を祀る小さな社のある屋敷の前に、
「中院山荘跡(小倉百人一首ゆかりの地)」 の説明板があった。
ここは 小倉百人一首に蓮生法師として登場する、
僧僧・蓮生の中院山荘があったところのようである。
説明板「中院山荘跡(小倉百人一首ゆかりの地)」
「 鎌倉時代の初め、この辺りに、僧・蓮生の中院山荘があった。
蓮生は、俗名を宇都宮頼綱といい、
下野国(現在の栃木県)の豪族で、鎌倉幕府の有力な御家人の一人であった。
しかし、政争に巻き込まれるのを避けて出家し、実信房蓮生と名乗った。
(この時、郎党六〇余人も同様に出家した。)
後に、上洛し、法然上人、次いて善恵商人証空に師事し、この地に山荘を営んだ。
蓮生は和歌の名手で、近くの小倉山麓に山荘を構えていた藤原定家とも、
親交があり、彼の娘が定家の子・為家に嫁いている。
嘉禎元年(1235)五月、定家は、
蓮生が山荘の障子に貼る色紙の執筆を依頼したのに快く応じ、
色紙の一枚一枚に天智天皇以来の名歌人の作を一首ずつ書いた。
「小倉百人一首」はこの時の選歌に、後世、鳥羽、
順徳両天皇の作品を加えるなどの補訂を施して完成したものといわれている。
京 都 市 」
往生院町には、「東海自然歩道」の木柱、「右あたご道左祇王寺」 「新田公首塚碑道」「檀林寺門跡」「祇王寺」の石柱が並んで建っている。
左に進むと、檀林寺がある。
説明板「檀林寺(だんりんじ)」
「 檀林寺は、平安時代の初め、
嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(786~850)が創建した寺院に由来する。
皇后は、容姿が美しく婦徳に秀で、学芸を愛され、
橘氏の学校として学館院を設けたといわれている。
また、皇后は、深く仏教を信仰し、
嵯峨の地に檀林寺と呼ばれる壮大な寺院を営み、
盛時には、十二坊を数えたといわれている。
さらに、皇后は、当時、来朝した中国の僧、義空を師として、
この寺で禅書を学び、これが、我が国で禅が唱えらた始めといわれている。
お寺は、この由来によって、昭和三十九年から再建された寺院であるが、
霊宝館には、皇后ゆかりの品をはじめ、
日本、中国の仏教美術の数々が納められている。
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