◎ 祇王寺
愛宕道の道標群を西に行くと、細道があり、右に入ると祇王寺、 直進すると瀧口寺がある。
説明板「祇王寺(往生院)」
「 往生院祇王寺と号する真言宗の寺である。
寺伝によれば、この地は、平安時代に、
法然上人の弟子、念仏房良鎮が往生院を開創し、
後に祇王寺と呼ばれるようになったと伝えられている。
平家物語によれば、祇王は、平清盛に仕えた白拍子であったが、
仏御前の出現により清盛の心が離れてしまったので、
母刀自、妹祇女と共に出家し、当地に移り住んだ。
後には、仏御前も加わり、念仏三昧の余生を送ったと伝えられている。
現在の本堂は、明治二十八年(1895)に再建されたもので、
堂内には、本尊大日如来像をはじめ、平清盛とぎおうら四人の尼僧像を
安置している。
境内には、祇王姉妹等の墓と伝える宝筺印塔及び平清盛の供養塔などがある。
京 都 市 」
門をくぐると、苔のある庭園があり、 茅葺と瓦で葺かれた屋根の建物(本堂)が現れた。
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本堂は草庵とも呼ばれ、中に入ると、
控えの間に吉野窓と呼ばれる大きな丸い窓がある。
本堂の中央に平清盛像と大日如来が祀られ、、
左側に刀自と祇王の尼僧像、右側に祇女尼僧像が安置されていた。
建物の左手に竹柵があり、その奥に「 左 祇王、祇女、母刀自の墓 、
右 清盛公供養塔 」と書かれた立札と、
大きな宝筺印塔と丸を中央にした供養塔があった。
少し離れて、苔が生す庭と建物を撮影した。
建物の裏には、祇王寺の苔として、幾つかの苔が展示されていた。
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祇王等の墓と清盛供養塔 |
拝観時間 9時〜17時(受付は16時30分まで) 300円
◎ 滝口寺
滝口寺は元三宝寺といったが、 滝口入道と横笛の悲劇物語が伝えられていたところから、 滝口寺と呼ばれるようになったとある。
説明板「滝口寺」
「 当所は、もと良鎮上人の開祖にかかる往生院の子院で、
三宝寺と称し、浄土宗に属したが、明治維新の際、廃絶してしまった。
かって三宝寺には、滝口入道と横笛の悲劇物語が伝えられていたところから、
滝口寺と呼ばれていた。
近年、有志によって庵堂が建てられ、清涼寺内の史跡となって甦った。
本堂には三宝寺遺物でもある滝口入道と横笛の木像を安置している。
滝口入道は、名を斎藤時頼といい、宮中の警衛に当る滝口の武士であったが、
建礼門院の雑仕女横笛を見染め、恋に陥った。
しかし、彼の父は、その恋を許さず、そのため時頼は、わずか十九歳にして、
往生院に入り出家したのである。
横笛は、これを聞き、往生院を訪ねるが、滝口入道は、修業の妨げと会わず、
そのため、横笛は悲しみのあまり、大堰川に身を沈めたとも、
奈良の法華寺に出家したともいう。
滝口入道は、のち、高野山清浄院に入って、高野衆となり、
元春元年(1184) 紀伊勝浦での平維盛入水に立合っている。
京 都 市 」
鎌倉時代に創建された往生院は、応仁の乱などの戦火に巻き込まれて
荒廃し、三宝寺と祇王寺の子院のみを残し、廃絶した。
三宝寺も明治に廃絶したが、昭和の初期に再興し、その際、
国文学者・佐々木信綱により、滝口入道に由来して、滝口寺の名付けられた、
という。
小さな建物(草庵)があり、滝口入道と横笛の像が祀られていて、
資料が並べられていた。
境内には竹が植えられていて、お堂があった。
また、「三宝寺礎石」の石柱が建っていた。
南北朝時代の武将・新田義貞が捕えられて、三条河原で晒し首になったが、
妻が盗んで持ち帰り、ここへ埋め、首塚にして隠棲し、
供養したという話も残っている。
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滝口寺本堂 |
参拝時間 9時〜17時(受付は)16時30分まで 300円
◎ ニ尊院
ニ尊院を訪れた時は、紅葉の季節であった。
右側に「小倉山 ニ尊院」、
左側に「九頭龍辧財天」の看板を掲げた山門(総門)がある。
「 総門は、室町時代に築かれた伏見城の薬医門を、 慶長十四年(1613)に、角倉了以が貰い受けて、寄進・移築したものと伝えられ、 京都市の指定有形文化財である。 」
門の前には、「天皇 皇后 両陛下行幸啓行在所」と書かれた石柱と、 京都市の設置した「ニ尊院(にそんいん)」の説明板があった。
説明板「ニ尊院(にそんいん)」
「 小倉山を号し、天台宗山門派(延暦寺)に属する。
承和八年(841) 嵯峨天皇の勅願によって慈覚大師が創立した。
本尊に釈迦如来、阿弥陀如来(重要)文化財の二尊を祀る。
長く荒れていたのを法然上人の高弟湛空が再興した。
境内は楓樹が多く、本道の後の山は、百人一首の
小倉山 峯のもみじ葉 心あらば 今一度の 御幸またなん 忠平
の歌で、名高い小倉山で、昔から紅葉の名所として知られている。
また、大堰川開墾者角倉了以や、儒者伊藤仁斎、その子東涯などの墓がある。
定家卿が百人一首を撰んだ時雨亭は、この小倉山の山腹にあったともいわれる。
京 都 市 」
総門をくぐると、受付があり、拝観料を払って中に入ると、右側に
「 我がものと 秋の梢を思うかな 小倉の里に 家居せいより
西行法師 」 と書かれた立札と
「西行法師庵址」の石碑が建っていた。
「 ここは西行法師が庵を結んだところである。 西行法師は平安時代の人で、二十歳の時は北面の武士として、 鳥羽院に仕えていましたが、二十三歳で出家しました。 彼は特定の宗派に所属することもなく、修行の旅を続け、 美しい歌を残した歌僧として知られています。 」
その先は広い参拝道になっていて、「紅葉の馬場」として知られている。
紅葉の季節は平日でも参拝者が絶えないので、
人を入れない写真の撮影は無理だった。
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西行法師庵跡碑 |
石段を上り切ると、左手に黒色の木製の入口、黒門がある。
なお、この門の左手には勅使門(唐門)がある。
「 勅使門(唐門)は、永正十八年(1521)、 三条西実頼によって再建されたもので、 勅使門に掛かる勅額「小倉山」は後柏原天皇の辰筆である。 」
門をくぐると正面にあるのは本堂である。
「 本堂は、永正十八年(1521)、 三条西実頼によって再建されたもので、 本堂に架かる勅額「ニ尊院」は後奈良天皇の辰筆である。 」
本堂前の紅葉がきれいだった。
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本堂の前に、「ニ尊院本堂由来」 の立札があった。
「 嵯峨天皇(在位809〜823)の勅願により、 慈覚大師が承和年間に開山、応仁の乱で焼失したが、永正年間、 後奈良天皇が深く帰依し、三条西実隆、公條父子の外護を得て、 堂宇を再建したのが現本堂のもとである。 幾たびかの修復を経て、 平成二十八年九月大修理が完了した。 」
本堂には釈迦如来と阿弥陀如来が祀られている。
ニ尊院の名は、本尊の「発遺の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像に由来する。
本堂の裏には六道六地蔵の庭がある。
鐘形に切り取られている窓があり、「六道六地蔵の庭」のプレートには、
「 この裏山が小倉山です。
・ 小倉山 峰のもみじ葉 心あらば 今一度の 行幸待たなむ 貞信公
・ 忍ばれん ものともなしに 小倉山 軒端の松ぞ 馴れて久しき 藤原定家 」 と書かれていた。
小倉山の斜面に、小さな石仏が点々と置かれているのが、
六道六地蔵の庭なのだろう。
本堂の左側には敷石が並べられている先に、白砂を敷いた枯山水の庭があった。
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本堂前庭の先には、御園亭がある。
「 御園亭は、後水尾天皇と東福門院の第五皇女・ 賀子内親王の御化粧間であったが、二条家に与えられ、 元禄十年(1697)に御所より、ここに移築されたものである。 現在は茶室として使用されていて、春と秋の一期間だけ開放されている。 」
御園亭の隣に書院がある。 御園は御所の庭という意味である。
本堂を出て、右に行くと、位牌堂と辧財天御堂(弁天堂)が建っている。
「 弁天堂は、 弁才天の化身である九頭龍大神・宇賀神を祀るお堂である。 第三世湛空上人の時代に、四脚門(当時の勅使門)に、 当院寺名の額があり、その額を夜々に門前の童女の池より、 霊蛇が出て、字形や彩色が消える程なめてしまい、これを防ぐため、 湛空上人は霊蛇に自らの戒法を授けるため、血脈を書いて池に沈めました。 すると、童女成仏の証拠として、千葉の蓮華一本が咲いたといいます。 弁才天の他、大日如来、不動明王、毘沙門天をお祀りしています。 」
弁天堂の右手には石段があり、右側に鐘楼がある。
「 鐘楼は、慶長年間(1596〜1615)に建立、 吊るされている梵鐘は、平成四年(1992)に、 開基嵯峨天皇千二百年遠忌法要記念として再鋳したもので、 しあわせの鐘と命名したものである。 」
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更に右に行くと、突き当たりに八社宮があった。
「 八社宮は、伊勢神宮、松尾大社、愛宕神社、石清水八幡宮、 熱田神宮、日吉神社、八坂神社、北野天満宮、表鬼門の社を祀り、 室町時代に建立されたもので、京都市の指定有形文化財に指定されている。 」
小倉山の山腹のこの一帯は、墓地になっている。
坂東妻三郎、田村高広親子の墓、富田渓仙の墓、四条家の墓、
角倉了以親子の墓、三条西家、嵯峨家などの墓がある。
一番上の右側に三帝陵や鷹司家の墓があり、左手には法然上人廟がある。
「 京都市が建てた立札では法然上人廟とあるが、
お寺では湛空上人廟としていて、室町時代末期に建立されたもので、
京都市の有形文化財に指定されている。
碑は建長五年(1253) に宋の石工により彫られたものと思われる。 」
その左手に「時雨亭跡」の表示がある。
「 藤原定家の小倉山荘「時雨亭」があったとされるところである。
定家が小倉百人一首を作成した場所とされているが、
ここから南の常寂光寺にも時雨亭とされるところがある。 」
石段を下ると、しあわせの鐘があるところに出る。
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拝観時間 9時〜16時30分 500円
目のゲストです!!