京 都 散 策
(京都名所めぐり)


「 常寂光寺・落柿舎・野宮神社・天龍寺 」




◎ 常寂光寺

常寂光寺は、小倉山の中腹にあり、 藤原定家の山荘・時雨亭があったといわれる。

説明板「常寂光寺(じょうじゃっこうじ)」
「 日蓮宗の寺院である。 慶長元年(1596)、本圀寺十六世究覚日禎が、 この地に隠棲して開創した。 寺域が小倉山の中腹を占め、 幽雅閑寂で、天台四上はいう常寂光土の観あるところから、 常寂光寺の寺名がつけられたといわれる。 
多宝塔(重要文化財)は、元和六年(1620)の建立で、 並尊閣(へいそんかく)といい、前面に霊元天皇の勅額を掲げている。 
本堂は、伏見城の建物の一部を当寺二世通明院日紹が移転修造したものといわれる。 
仁王門はもと本圀寺客殿の南門を移転、妙見堂は能勢妙見を分祀し、 歌仙祠には藤原定家・家隆の木像を安置する。  また、時雨亭は定家山荘がこの付近にあるとして建てられたものである。 
     京 都 市                        」

山門をくぐると、受付がある。

「 太い角材を格子に組んで造られた山門は、 江戸後期に作り変えされたもので、 江戸中期出版の都名所図会には土塀を廻らした薬医門が描かれている。 」

その先の石段の上にあるのは仁王門である。
お堂の前には、小さな草鞋がぶら下げられていて、両側に仁王像が安置されている。

「 仁王門は、もと本圀寺客殿の南門として、 南北朝時代の貞和年間(1345〜1349)に建立されたものを、 元和二年(1616)に当山に移築され、仁王門とした。 
仁王像は、福井県小浜市の長源寺から移築されたもので、 足腰の病を癒すとされ、信徒が奉納した草鞋が壁にかけられている。 」

仁王門の右手の三叉路に「定家山荘跡」の石碑が建っている。

「 定家山荘の場所については、諸説あるが、 常寂光寺の仁王門北側からニ尊院南側にあったと伝えられている。 」

常寂光寺山門 x 仁王門 x 仁王像
常寂光寺山門
紅葉時の仁王門
仁王像


その先の石段はかなり急である。
右側の道は末吉坂である。
上り切ると、本堂がある。

「 本堂は、第二世通明院日紹上人(日野大納言輝資の息男)の 時代に、小早川秀秋の助力を得て、桃山城客殿を移築して、 本堂にしたものである。 」 

右手には庫裏があった。

参拝の石段 (右側石段)末吉坂 x 常寂光寺 本堂 x 庫 裏
参拝の石段 (右側石段)末吉坂
書院と本堂
庫 裏


鐘楼は、寛永十八年(1642)に再建されたものである。
吊り下げられて鐘は、太平洋戦争時に供出されたため、 昭和四十八年(1973)に鋳造されたものである。

左手に妙見堂がある。

「 妙見菩薩は、 北極星または北斗七星を象徴した菩薩様であることから、 妙見尊星王、北辰妙見などといわれている。 
当山の妙見菩薩は、慶長年間、保津川の洪水の際、 上流から流れ着いた妙見菩薩像を、ふもとの角倉町の一船頭が拾い、 同町の集会所に祀ったが、享和年間(1596〜1610)に、 当山第二十二世日報上人により、当山境内に遷座された。 
また。第二十六世日選上人時代に妙見堂が建立され、 爾来、御所の西方にあることから、西の妙見菩薩として、 江戸末期から昭和初期まで、京都はもとより、関西一円まで、 開運厄除けとして参拝者で賑わった。 」

坂を上ると、多宝塔が建っている。
この左手に「時雨亭跡」の石碑がある。

「 江戸時代中期頃には、この場所に時雨の亭があり、 昭和初期に台風で倒壊するまで、建物が存在していた。 」 

鐘 楼 x 妙見堂 x 多宝塔
紅葉時の鐘楼
妙見堂
多宝塔


本堂と書院特別参観は秋の紅葉期のみ(例年十一月十八日前後の土曜日から 十二月二日前後の土曜日まで) 
500円


◎ 落柿舎

常寂光寺の東(右手)に、芭蕉に縁が深い落柿舎がある。 

「 落柿舎は、芭蕉の弟子・ 向井去来の別荘(草庵)があったところである。  去来が貞亨二年(1685)頃、この庵を入手し、芭蕉も三度訪れている。 
元禄四年(1691)には四月十八日から五月四日まで滞在し、嵯峨日記を書いている。 
落柿舎の名の由来は、去来が商人に庭の柿をすべて売る約束をしたところ、 一夜のうちに全ての柿が落ちてしまい、貰った代金を返却し、 自らを落柿舎の去来と称したことによる。 
現在の建物は、明和七年(1770)に、 去来の親族で俳人の井上重厚により再建されたものである。 」

拝観時間 9時〜17時(3/1〜12/31) 9時〜16時(1月〜2月)
  拝観料  200円               

落柿舎の向かえい側にある無動庵というカフェの敷地に、 幕末の土佐四天王像が造られて展示されていた。

傍らの銘板
「 吉村寅太郎、武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎を土佐四天王という。
風雲告げる幕末の京洛に於いて、元治元年(1864)坂本龍馬は、 中岡慎太郎と長州本陣天龍寺に、長州藩士の来島又兵衛、 久坂玄瑞を訪ねるために立ち寄ったという口碑を伝えている。 
彼らは倒幕の密約を交わし、薩長同盟を成立させ、 世界で例のない無血革命の大政奉還を実現させた。 
ここ嵯峨野でも、彼ら情熱ある志士たちは、 範を越え新しい日本を夢見て、東奔西走していた。 
ここに偉大な英傑たちの業績をたたえ、後世に伝えるべく、 銅像を建立する。 」

落柿舎 x 紅葉時の落柿舎前 x 土佐四天王像
落柿舎
紅葉時の落柿舎前
土佐四天王像
(吉村寅太郎、武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎)



◎ 野宮神社

山陰本線の南側に 「えんむすび 進学祈願」 と書かれた立札と 「野宮神社」 と書かれた提灯がある。
ここが若い女性に人気がある野宮神社である。 
神社入口の鳥居は、黒木 (皮のついたまま丸木) の鳥居という 珍しいものである。 
鳥居の右手に、京都市が建てた「野宮神社」の説明板があった。

説明板「野宮神社」
「 伊勢の神宮に奉仕する内親王が潔斎のため居住された跡で、 今三つの祠があり、中央に天照大神を祀り、左右に愛宕、弁財天を祀っている。  歴代天皇は未婚の皇女を神宮に奉仕せしめられ、 これを斎宮といった。 斎宮に立たれる内親王は、 まず皇居内の初斎院で一年余り潔斎されてから、この野宮に移り、 三年間の潔斎の後、初めて伊勢に向われたが、その時の行列を斎王群行といった。 斎王は、垂仁天皇の時に、皇女倭姫命をして、奉仕せしめられたのが始まりで、 その後、南北朝時代(14世紀後半)に廃絶した。  野宮は源氏物語にも現れ、 黒木の鳥居や古柴垣は昔のままの遺風を伝えるものである。 」

斎王制度は南北朝時代の後醍醐天皇の祥子内親王で終わったが、 その後、天照大神を祀る野宮神社となり、今日まで続いている。 
正面の大きな社殿に野宮大神(天照大神)が、 左側の社には白峰弁財天、右側の奥まった社殿には愛宕大神が祀られている。

紅葉の野宮神社前 x 黒木の鳥居 x 野宮神社の賑わい
紅葉の野宮神社前
黒木の鳥居
(左) 野宮大神 (右奥) 愛宕大神


「野 宮」と彫られた石柱の右側に、 「 源氏物語ゆかりの地 野 宮(野宮神社) 」 と書かれた説明板がある。

説明板「 源氏物語ゆかりの地 野 宮(野宮神社) 」
「 平安時代の斎宮が、伊勢下向に備えて、潔斎生活をした野宮の一つ。 
斎宮に任命されると、一年間、宮中の初斎院に入って身を清め、 そのあと浄野に建てられた仮宮(野宮)で三年間ほど潔斎生活をする。  平安時代の野宮は、主として嵯峨野一帯に設けられ、 建物は天皇一代ごとに造り替えた。  南北朝の戦乱で斎王制度は廃絶したが、 神社として後世に残された野宮神社には黒木(皮のついた丸木)の鳥居と 小柴垣が再現されている。 
斎宮となった六条御息所の娘(後の秋好中宮)が、 一年間、野宮で潔斎生活を送り、いよいよ伊勢へ下向するという直前に、 光源氏が六条御息所を野宮に訪れる場面が 源氏物語の賢木(さかき)に見える。  そこは小柴垣を外囲いにし、仮普請の板見屋が建ち並んで、黒木の鳥居とある。 

「源氏物語」の 「賢木」巻」より抜粋  
「 はるけき野辺を分け入り給より、いとものあわれなり。  秋の花みなおとろえつつ、浅茅が原もかれがれなる虫の音に、 松風すごく吹あわせて、そのこととこ聞きわかれぬほどに、 ものの音ども絶えだえ聞こえたる、いと艶なり。   
  (中  略 )                
ものはかなげなる小柴垣を大垣にて、板屋ども、 あたりあたりいとかりそめなり。  黒木の鳥居ども、さすがに神々(こうごう)いう見わたされて、」 
                平成20年3月     京都市         」

石柱の左には、昭和五十五年に皇太子殿下浩宮徳仁殿下(現天皇)、 平成六年には秋篠宮殿下夫妻が参拝したという立札があった。
野宮神社が賑わう理由の一つに、 白峰弁財天の前に野宮大黒天が祀られていることである。

「  野宮大黒天は縁結びの神として有名、若い女性の参拝の目的になっている。 
横にあるお亀石をさすると、願いがかなうとされている。 」

境内社として、境内北部に、子宝・安産の白福稲荷大明神がある。
また、その奥に大山弁財天もある。

白峰弁財天 x 野宮大黒天 x 白福稲荷大明神
左側にある白峰弁財天
えんぶすびの神・野宮大黒天
白福稲荷大明神




◎ 天龍寺

野宮神社から天龍寺を目指す。
途中にある竹林は野宮竹と呼ばれ、祭祀に使用されるようである。
天龍寺の境内に入ると、見事な紅葉を見つけた。

「 天龍寺があるのは、 後嵯峨天皇と第3皇子の亀山天皇が造営した離宮・亀山殿跡である。 
後醍醐天皇も幼小時に、住んでいたといわれる。 
足利尊氏は、後醍醐天皇の崩御後の暦応二年(1338)、夢窓疎石の進めもあり、 戦い相手の後醍醐天皇の菩提を弔うため、 夢窓疎石を開山として、寺院を建立した。  当初の名は暦応資聖禅寺だったが、二年後に天龍聖禅寺に改名された。  天龍は、尊氏の弟・直義が夢に見た竜の姿に由来する。 
寺社造営に当っては、建築資金を賄うため、宋に御朱印船が派遣され、 それで得た金銭で立派な堂宇群が建設された。 
しかし、天龍寺は七回の大きな火災により、古い建物はほとんど残っていない。 また、明治政府による土地の接収により、亀山から嵐山一帯を所有した土地が 十分の一に減らされてしまった。 」

竹林の径 x 境内の紅葉 x 見事な紅葉
竹林の径
境内の紅葉
見事な紅葉


天龍寺は、「大本山天龍寺」」と書かれた門をくぐると、 塔頭寺院の三秀院があり、 門前に「東向福聖大黒天」と書かれた大きな石柱が建っている。

「 天龍寺三秀派の寺院で、 創建は応永元年(1368)で、無窓疎石の直弟子・不遷法序を開祖とする。 
応仁の乱や明和の大火で焼失を繰り返し、 明治四十一年(1769)に現在地に移転した。  東向福聖大黒天像は、後水尾天皇勅願の嵯峨人形で、 比叡山・上野寛永寺の大黒天と共に、日本の三大大黒天として知られる。 」

その先の右側に四脚門の勅使門がある。

「 この門は伏見城にあった門を移築して、 慶長年間(1596〜1615)に建てられた御所の明照院の門としていたが、 寛永十八年(1641)に天龍寺の勅使門として移築した。 
天龍寺は創建以来、度重なる大火に遭ったが、幕末に長州藩の兵舎となった。
元治五年(1864)七月に起きた蛤御門の変で、長州藩兵が当寺に立て籠ったので、 幕府軍と薩摩藩兵が当寺を攻める構えをしたところ、 長州藩兵は本格的な戦いを前にして当寺から脱出したが、 村田新八が率いる薩摩藩兵は当寺に乱入し、乱暴狼藉を行い、 什器を略奪するなどした。 その後、薩摩藩兵は大砲を打ち込んだことから、 大火となり伽藍の大部分が焼失した。 
勅使門は戦火を免れた数少ない建物で、京都市の有形文化財に指定されている。 なお、中門も慶長年間の建立で、京都市の有形文化財に指定されている。  」

その先に「西山 弘源禅寺」の石柱がある弘源寺がある。

「 永享元年(1429)、 細川持之が玉岫英種を開山に迎えて創建した寺で、天龍寺の塔頭の一つである。 」

三秀院 x 勅使門 x 弘源寺
塔頭寺院の三秀院
勅使門
弘源寺


その先にも別院塔頭の慈済院がある。 

「 慈済院は、貞治二年(1363)の創建で、無極志玄を開山としている。 
天井にある龍之図は、里見米庵の筆である。 
慈済院に祀られている、水摺福寿大弁財天は、夢窓疎石が彫ったといわれ、 2月3日には立身出世を願って多くの人がお参りに訪れる。  」

「八幡大菩薩」の額がある神社があった。

「 八幡社は、霊庇廟とも呼ばれ、 神仏混淆では天龍寺の鎮守神であった。 
明治八年に現在地に移された。 」

慈済院山門 x 大弁天堂 x 大弁天堂
慈済院山門
大弁天堂
八幡社


その先、正面に見えるのが天龍寺の庫裏である。

「 切妻造りの屋根下の大きな三角形の壁を正面に見せ、 白壁を縦横の仕切り、曲線の梁を使用し、装飾性のある建物に仕上げている。  明治三十二年(1899)に建立されたもので、庫裏は台所兼寺務所の機能を持つ。 
方丈や客殿と棟続きになっていて、玄関を入った正面に、 達磨宗である禅を象徴する達磨が描かれた大衛立がある。 」

庫裏の南に繋がっている建物は大方丈である。

「 大方丈と小方丈(書院)からなり、 大方丈は明治三十二年(1899)、小方丈は大正十三年(1924)の建築である。 
大方丈は、天龍寺で一番大きな建物で、正面と背面に幅広い広縁を持ち、 その外に落縁を巡らせている。 
方丈の本尊は、国の重要文化財に指定されている釈迦如来坐像で、 天龍寺造営よりも古いもので、幾多の火災をくぐりぬけた、 天龍寺最古の仏像である。 
天龍寺では堂内撮影禁止である。 」

方丈の前には枯れ山水の方丈庭園が広がる。

天龍寺 庫裏 x 大方丈 x 大方丈と方丈庭園
天龍寺 庫裏
大方丈
大方丈と方丈庭園


大方丈の裏側に、無窓疎石が作庭したと伝わる、 曹源池庭園と呼ばれる庭園があり、 国の特別名勝・史跡に指定されている。

説明板「曹源池」
「 開山無窓疎石の作庭。 左手に嵐山、正面に亀山。小倉山、 右手遠景に愛宕山を借景にした池泉回遊式庭園で、 優美な王朝文化の大和絵風の伝統文化と宋元画風の禅文化とが、 巧みに融け合った庭である。 
正面の枯山水の三段の石組は、龍門の瀧といい、これは中国の故事に由来する。 
手前の石橋は、日本最古の橋石組で、右の石組は釈迦三尊石と称し、 釈迦如来(中央)、文殊菩薩(左側)、普賢菩薩(手前下側)を表現している。 
曹源池の名称は、国師が池の底の泥をあげたとき、 池中から、「曹源一滴」と記した石碑が現れたところから、 名付けられた。  平成六年(1994) ユネスコより世界文化遺産に認定登録された。  」

曹源池の北方に多宝殿がある。
多宝殿は、小方丈の西北と屋根付き渡り廊下で繋がっている。 

説明板「後醍醐天皇聖廟多宝殿」
「 この地は禅宗最初の道場檀林寺の旧跡にして、 後嵯峨 亀山両天皇が離宮を造営せし¥られた所で、 後醍醐天皇が御幼小の頃勉学せられ、御成人せられた跡です。  延元四年(1339) 天皇が吉野の行宮で遥か京都を望み、 おかくれになったので、光厳上皇は院宣を下して、 御菩提のために離宮を革めて、禅刹天龍寺とされた。  創建以来八十四の火災に遇い、昭和九年当時の管長精拙和尚が、 現在の聖廟多宝殿を完成させた。  建築様式は吉野朝時代の紫宸殿つくりで、 中央に後醍醐天皇の御尊像を、両側に歴朝天皇の尊牌が奉安してあります。 
     天龍寺                        」

その先に、囲いがあり、立札に「光厳天皇髪塔」とあり、宮内庁の管轄で、 立ち入り禁止になっていた。 
なお、天龍寺の北部には宮内庁管理の亀山天皇陵と後醍醐天皇嵯峨南陵がある。

天龍寺 庫裏 x 曹源池庭園 x 光厳天皇髪塔
曹源池庭園
多宝殿
光厳天皇髪塔


拝観時間 8時30分〜17時(受付は16時50分)  庭園受付・北門受付
 庭園参拝  500円 講堂(大方丈。書院・多宝殿)は追加300円

秋の嵯峨野は紅葉が素晴らしいが、観光客も多く、 思うように写真がとれないのは残念である。



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