浦和宿から蕨宿間は一里十四町(6km弱)の距離である。
途中に調宮(つきみや)という古い神社があるが、兎が狛犬というから珍しい。
蕨宿は中山道の江戸から二番目の宿場だが、大きさで三本の指に入り、大宮宿や浦和宿より繁盛していたとある。
現在も古い家が少ないながら残っていて、十一月三日には宿場まつりが行われる。
平成十八年(2006)十月二十八日、昨夜の同窓会の飲酒のためか、目を覚ましたのが予定より遅れた。
食事をして直ぐ出かけたが、浦和駅に到着したのは九時四十五分。
浦和駅西口から昨日の終えたところまで戻り、蕨宿に向って出発。
浦和宿から蕨宿へは一里十四町、六キロ弱の距離である。
人通りが少なくなってきたころ、左側に大きな緑濃い森が見えてきた (右写真)
大きな木の向こうに玉垣があり、多くの人がいる。
鳥居や門は無いが、兎の狛犬(と言っていいのか分からないが)が鎮座している (右写真)
中に入って行くと、七五三参りの一家が何組かいて賑わっていた。
この神社の名は調(つき)神社。 別名、調の宮(つきのみや)あるいは月の宮ともいい、延喜式に残る古社である。
壬戌日記に、 「 左に若葉の林しげりあひて、林の陰に茶屋の床几などみゆ。月の宮廿三夜堂なりとぞ 」 と、記されている神社である。
調とは、租庸調の調のことで、年貢を意味し、朝廷や伊勢神宮への調物(みつぎもの)のことである。 武蔵国の調は、ここに集められ、東山道を経て、朝廷や伊勢神宮に届けられたが、宝亀弐年(771)、武蔵国が東海道に編入されると、その役目を終えた。
その後、神社は月神信仰と結びつき、兎を眷属としたので、狛犬のかわりに、兎を鎮座させるようになった、とある。
うさぎの石像を狛犬代わりにしている国内唯一の神社である (右写真)
江戸時代には、月の宮、二十三夜堂として、信仰されていたことは、 木曾路名所図会に、
「 調宮みつぎのじんじゃー浦和の南岸むらにあり、延喜式内社なり。 これを二十三夜祠と称す 」
と、あることから、分かる。
二十三夜講、二十三夜待などともいい、二十三夜の月の出を待ち拝むために、講を作ったものが集まり、祭神の前で勤行をし、飲食を共にするものであるが、江戸後半になると、娯楽化していったようである。
権現造りの本殿は安政六年(1859)の建立である(右写真)
祭る人の多くが女性で、講で記念に造立された二十三夜塔は全国各地に見られ、これまで歩いてきた中山道でも見かけた。
境内の一角にある赤い鳥居の稲荷社は、調神社の旧本殿で、享保十八年(1733)に建立された
一間社流造りの建物で、兎の彫刻は月神信仰との関係を知る上で貴重である (右写真)
さいたま市の天然記念物に指定されている境内の森の中の公園では、骨董市が開かれていて、
多くの人で賑わっていた (調神社の起源は巻末参照)
コミニティセンター交叉点を過ぎると、道が狭くなり、歩道もなくなった。
その脇を車がブンブンと走り過ぎてゆく。 少し怖い感じ。
このあたりは、マンションの高層化の動きが多いようで、至る所に建設反対の看板が立っている。
大宮から先は既に高層マンションになっているが、浦和は古い町で、一戸建てが多かったのだが、
時代の波がここに押し寄せているのだろう。
左にカーブするところから、道は上り坂になった (右写真)
上って行くと、多くの人とすれ違った。 中山道を歩くグループだろう。
土曜日である上、天候も昨日と違い、快晴ということもあって、人の往来は多かった。
浦商入口バス停近くにあった化粧品店は、門付きでかなり古い家である (右写真)
登りが少しきつくなる。
武州路に入り、このような本格的な坂を見るのは久しぶりである。
白幡坂上の四差路を越えると、右側に焼米坂、別名浦和坂ともいう。
西側にある南浦和小学校は、百二十年の歴史があり、校庭の北側には、開校百年記念碑が建てられた。
焼米(やきごめ)は、ここにあった茶屋の名物で、新米をもみのまま炒り、きねでついて殻を取り去ったもの、と記されている。
右側に焼米坂の碑がある。
右の写真は下り始めて振り返って写したものである。
地図を見ると、阿弥陀堂や薬師堂があったので、どういうものかと、薬師堂に向った。
焼米坂を左折し、少し行ったところで左に入ったところに薬師堂があり、隣は根岸公民館になっていた。
薬師堂そのものは古そうでも無いが、境内には青面金剛碑や古い石仏があった (右写真)
裏側の無数の墓標は墓地整理のものだろうが、その中にかなりの馬頭観音が混ざっていた。
推測するに、中山道を修復した際、道端にあった観音碑が集められたのではないか?
対面には神明神社があった。
街道に戻る途中で、親子連れやカップルなど、多くに出会う。
この付近の人は南浦和駅や武蔵浦和駅に歩いて行くようであった。
京浜東北線の南浦和駅が出来てから一気に開発が進んだというが、その後、武蔵野線と埼京線
が開通し、武蔵浦和駅ができたことで、加速化したようである。
ここからは、下り坂となる。
根岸次の交叉点は、五叉路になっているが、ここは、右から2番目の道に進む (右写真)
六辻交差点で国道17号線と交差するが、直進し、次の信号で左へ曲がる。
右側に六辻水辺公園がある。
どのような公園かと入ったら、用水路のようなものが公園だった。
歩くと直ぐに街道に出たので、右へ左へとうねりながら、そのまま進むと、右側に熊野神社があった (右写真)
木曽名所図会に、「 辻村に熊野権現のやしろあり 」 と、書かれた神社である。
道は続いているが、今日初めての静かな道であった。
やがて、外環状自動車道路が見えてくる。
ここは浦和市辻2丁目、旧六辻村である。
高架をくぐると、左側に辻一里塚公園があり、公園内には、江戸から五里目の辻一里塚跡の石碑が立っていた。
太田南畝が、 「 辻村の立場をすぎ一里塚(榎)をこえて 」 と、記している一里塚である。
傍らには、弁才天があった (右写真)
このあたり一帯は江戸時代には湿地帯だったようで、水難除けに弁才天が祭られた、と石碑に記されていた。
少し歩くと、蕨市旧わらびて村(旧わらびて村)に入った。
橋を渡ると、錦町五丁目交叉点にでた。
その先の左側に、宝蔵寺がある (右写真)
道は左に曲がっているので、道なりに進む。
錦町五丁目のバス停を過ぎ、第二中学校を過ぎると、錦町三丁目交叉点で、国道17号線が斜めに交差する。
中山道は、国道を横断した真っすぐな細い道で、交叉点を越えると蕨(わらび)宿である。
(ご 参 考) 調宮(つきみや)神社
調宮神社の祭神は、天照大神、豊宇気姫命と素戔鳴尊の3神である。
調宮縁起によると、 「 第九代関化天皇御世所祭奉幣の社として創建され、第十代嵩神天皇の勅命により(伊勢)神宮斎王倭姫命が参向、この地に神宮に献る調物を納める御倉を建てられ、武総野(武州、上総、下総、下野、上野)の初穂米調集納倉運搬所と定められる。 倭姫命の御伝により御倉より調物斉清のため当社に搬入する妨げとなるため、鳥居、門は取り払われたことが起因となり、現今に至る。 」 と、ある。
そういうことから、調宮には、門や鳥居がないが、境内の稲荷社には、赤い鳥居があるのは愉快であった。
武蔵国の調はここに集められ、東山道を経て、朝廷に届けられたが、宝亀弐年(771)、武蔵国が東海道に編入されると、その役目を終えた。
調(つき)は月と結びつき、月神信仰となり、二十三夜講、二十三夜待と繋がっていったようである。
白蔵のような風変わりな形をした北町交番の前に、中山道蕨宿と書かれた石碑があり、
ここから蕨宿である。 蕨宿は、南北に十町(約1,100m)程の町並みで、四つの町に区分
されていたようである。 天保十四年編纂の中山道宿村大概帳によると、家数四百三十軒、
人口二千二百二十三人で、本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠が二十三軒あった。
交番の裏に中山道ふれあい広場があり、壁面に大名行列などが描かれていた (右写真)
蕨宿は、大宮宿や浦和宿より繁盛していたようで、武州では、鴻巣、熊谷、本庄とともに、
大きな
宿場だった。 参考までに申し上げると、中山道の二千人以上の宿場は、武州で
上記四宿、
上州では高崎、信濃で、奈良井と上松、美濃で、加納、近江で、高宮と草津、
全部で十一宿しかなかった。 浦和と違い、古い木造建築が何軒も残っていて、それらが蕨の町に宿場の雰囲気を色濃く漂わせていた。
宿場に入って最初の右カーブにある神仏屋の建物は、慶応以前の建築だという
(右写真は通り過ぎてから振り返って写したもの)
江戸時代の蕨宿は、周囲に堀があり、堀に面した家は、はね橋を設け、夕方になると橋を
上げ、早朝に下ろされた。 また、宿場の入口にあった上下二つの木戸も閉ざされ、
堀は、宿内の用水と防備を兼ねていた。 宿場の入口に近い北町の徳丸家の裏に、
ただ一つはね橋が残っていると、五年程前に刊行された、山と渓谷社の中山道案内にあったので、行ってみたが、見つけられなかった。
近くに三学院(さんがくいん)があるので、立ち寄る。 金亀山極楽寺という真言宗智山派の寺で、天正十九年(1591)11月、寺領二十石寄進の朱印状を与えられ、幕末まで宿内に寺領を持
ち、関東七寺の役寺で格式が高い寺であった (右写真)
本尊の十一面観音菩薩は平安中期の作の慈覚大師作と伝えられる。
火伏子安地蔵 六地蔵石仏 目疾地蔵尊
仁王堂前の参道の一角に、木柵で囲われたお堂があり、石仏が祀られていた (上記写真)
子育て地蔵尊は、火伏子安地蔵といい、元禄七年(1694)、三学院の中興の祖、第十一世秀鑁(しゅうばん)の勧進により、多くの人の協力でよって造立された。 丸彫りで、身丈七尺余り(約2.4m)もある石仏で、江戸浅草橋の石工、紀国屋平兵衛により造られた。 初めは、中山道の三学院入口角にあったが、明治元年、明治天皇の氷川神社行幸の折りに、参道の中ほどへ移されるなど、度々移動した、という。
六地蔵石仏は、寛文〜元禄年間(1661-1704)にかけて造立された。 市内にある六地蔵のうちで、最古最大である。
右から三番目の石仏が、最初に造られ、のちに、五体の石仏を造り、六地蔵にしたものと思われる、と説明にある。
目疾地蔵尊は、万治元年(1658)、念仏講を結んだ十三人の人々が安楽を祈願して、建立したもので、1.9mの大きな地蔵である。 一つの石で、蓮台と地蔵菩薩立像と舟形光背を彫り上げている。 目病地蔵と呼ばれ、目に味噌を塗ると、目の病気が直る、あるいは、かからないといわれ、今でも信仰の対象になっている。
これらの石仏は、境内の別のところにあったのを、最近ここに集めたようである。
その近くにある馬頭観音塔は、梵字馬頭観音塔と呼ばれるもので、塔身の正面に、梵字で、
「 ナム・カャグリーバ 」 (南無・馬頭観世音) を、筆太に陰刻し、左側側面、背面に、刻銘
を有する。 寛政十二年(1800)二月、小宮忠次郎と徳丸馬右ヱ門が世話人となり、宿場の
馬持講中により、宿場の安全息災を祈って、造立されたものである (右写真)
地蔵小道と呼ばれる参道を歩いて、中山道に出たところには、せんべいの萬寿屋があった。
建物は新しいが、昔は茶屋を営んでいたといい、十代続く老舗である。
江戸時代には、このあたりから本陣の先あたりまでに、旅籠が多かったようである。
太田南畝は、蔦屋庄左衛門の宿に泊まり、 「 あすは故郷かへるまうけとて、従者も髪ゆひ頂そりなどしてさわぎあへる 」 と、記しているが、蕨宿は、江戸へ戻る者、或は、入る者にとって、最後の宿であり、ここで身なりを整え、花のお江戸に入っていったのである。
その光景を想像していると、古い家の前を一台の自転車が通りかかった (右写真)
おなかがすいたので、目に付いた讃岐うどんの店に入った。 讃岐うどん定食を注文し、
しばしの休息となった。 元気を回復し、出発。
信号のある交叉点の先、中央5丁目あたりが宿場の中央だったようで、歴史民俗資料館と 「 蕨市指定文化財 蕨宿本陣跡 」 の石標があり、復元された門があった (右写真)
蕨宿の本陣は、加兵衛家と五郎兵衛家の二家が代々勤め、蕨宿の中央部に向かい合うようにして、建っていた。 ここは、一の本陣と呼ばれた岡田加兵衛の本陣跡で、昭和四十八年、建築家谷口吉郎により、本陣をイメージして建てられたモニュメントである。
慶長十一年(1606)、蕨城主渋川氏の将、岡田正信の子、正吉が、初めて、蕨宿本陣、
問屋、蕨宿の名主の三役を兼ねた、と伝えられ、その後、その役目は子孫に受け継がれ、
明治維新まで続いた。
文久元年(1861)、皇女和宮が御降嫁の折、ご休憩の場となり、明治元年(1868)と同三年には、明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。
隣接して建てられた民俗資料館には、宿泊した大名の名簿や本陣跡を詠った詩などが展示され、旅籠の様子や食事、大名の食事が復元されている(9時〜16時30分で入場無料 、月、祝日、年末年始は休み)(右写真)
もう1軒の本陣は、岡田五郎兵衛が営み、五郎兵衛本陣と呼ばれたが、この前にあった
ようで、本陣の他、問屋と塚越村名主を兼ねていた。
この交叉点を左折し、市役所を越えた先(500m位か?)に小さな社(やしろ)の和楽備(わらび)神社があった (右写真)
蕨の地名の由来は、藁を焼く火の様子から藁火村という説や植物のわらびから名付けたという説があるが、はっきりしない。
和楽備神社は、明治四十四年(1911)に、町内にあった十八の鎮守社を合祀したときに、現在の名前になったが、以前は上の宮という名の八幡社だった。
「 水屋に置かれた水盤が、安山岩製の大型のもので、寛永寺旧在ともいわれる。 」 と、説明板に書かれていたが、それほど価値があるようには思えなかった。
柄杓で身を清め、お参りを済ませた。
神社の隣に、御用堀という堀があり、きれいに整備されている。 その先には、城址公園と市民会館があったので、公園の中に入っていった。
ここは蕨城の跡とされ、城址公園の一角に、蕨城址と書かれた記念碑があった (右写真)
蕨城は、足利氏の一門であり、武蔵国司の渋川義行の館から始まる。
長禄元年(1457)、将軍足利義政の命により、関東の争乱に備え、九州探題の渋川義鏡が下向したが、城
というより、行政府のような存在だったようである。 その後台頭した、小田原北条氏の
支配下に入った渋川義鏡は、ここを根拠地とするも、北条氏と上杉氏との抗争に翻弄され、
その子、義基は、北条方として里見氏と、下総国府台で戦かったが敗れ、渋川氏の一族は
離散し、廃城となった。 先程の和楽備神社は、城の境内社だったのである。
街道に戻って歩き出すと、うなぎの匂いがしてくる。 右側に鰻の今井があった (右写真)
江戸時代初期(1604)、土橋からこの場所に移り、茶屋渡世孫左衛門の店として開業した、
と暖簾の下に、書かれていた。 古い鰻屋の暖簾の味はどんなものか、興味はあったが、
食べたばかりではどうしようもない。
いいにおいを煙とともに漂わせているが、蒲焼の発祥の地ともいわれ、江戸時代から、鰻は宿の名物だったようである。 また、昭和二十一年、地元青年団が成人になる若者を祝った行事が評価され、昭和二十三年七月、国民祝日に制定されたので、成人式発祥の地とも、いわれている。
脇本陣だったという薬局の前には、脇本陣という文字の入った灯籠が置かれていた (右写真)
その先の右側に、民俗資料館の分館があった。 入って行くと、庭が広がり、かなり大きな敷地だった。 蕨宿は、中山道が廃止された明治になると、機織りが盛んになり、それが
産業になった。 この屋敷は、明治時代の織物買継商の家で、街道に面している店の部分は、明治二十年(1887)の建築である (右写真)
蕨は、繊維産業が斜陽になった第二次大戦後は東京のベットタウンになった。
道の左側の古い家の先の信号のある三叉路の右に、ポケットパーク的な空間があり、子供時代の思い出マップがあった。
それによると、ここは天王社の跡で、江戸時代には蕨宿の木戸があったところである。
旧中山道は、右側の国道17号と合流するが、手前に、中山道蕨宿と刻まれた石柱があり、蕨宿はここで終わる。
平成18年10月