『 中山道を歩く− 旅のフィナーレ 日本橋(続き) 』




いよいよゴール

本郷三丁目 目の前を若者がのった自転車がさっと走り抜けた (右写真)
本郷三丁目から日本橋までは、約三キロ弱の距離である。 それを歩くと、私の中山道のひとり旅は終わる。  何時なったら終わるのかと思いながら、歩いたこともあった。 木曽路では、駅で何時来るかと思うほど長い間電車を待ち、その間に汚れたTシャツを洗い、乾かしたこともあった。 大津から京都三條に歩いた日は、台風の接近で、土砂降りの中を歩いた。 そんなことが、走馬燈のように頭の中を駆け巡った。  享保十五年(1730)の大火で、町奉行、大岡越前守忠相は、本郷三丁目から江戸城にかけての家は、耐火のため、土蔵
造りか、塗り込め造りを奨励し、屋根は、茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許した。 江戸の町
並は、本郷までは瓦葺きが続き、それからの中山道は、坂や茅葺きの家が続いた。 
かねやす その境目にある大きな土蔵のかねやすは、目立っていたので、当時の川柳に、 「 本郷もかねやすまでは江戸の内 」 と、詠われた。  かねやすは、享保年間、ここに移り住んでいた、兼康祐悦という、歯科医が、乳香散という歯磨き粉を売り出したところ、これが当たり、繁盛していた、という店である。  本郷三丁目交差点を渡った右側のビル一階にある、化粧品雑貨などを売っている店が、その子孫にあたる (右写真)
また、交差点を越した左側にある和菓子屋の藤村も江戸時代の創業である。  幕府の公式資料である、江戸朱引き図には、江戸の領域は、板橋の石神井川が北のはずれ、という
ことで書かれている。 また、テレビ時代劇に頻繁に登場する江戸所払いも、板橋以北
サッカーミュジアム入口交差点 なので、江戸が板橋までであったことは間違いないが、賑やかであったのはここまでで、この先は、住人が少なくなり、町家から農家になっていったのだろう。 
それはともかく、中山道を日本橋に向かって歩く。  壱岐坂上交差点を越え、本郷二丁目交差点は、三叉路で、直進すると、順天堂大学横に出る。 中山道は、国道17号で、左の道を下っていく。 その先のサッカーミュジアム入口交差点は、三叉路で、中山道は、右側の本郷通り、国道17号で、左に、蔵前橋通りが分かれていく (右写真)
道の右側には、東京医科歯科大学と付属病院のビルが並ぶ。 このあたりは、江戸時代、桜の馬場があったところで、明治八年〜昭和七年までは、東京女子高等師範学校(現在の
神田明神の隨神門 御茶ノ水女子大学)があったところである。 坂を下る途中の右側に、小さな公園があり、その先には、森のような茂みが見える。 公園は、御茶ノ水小公園で、茂みは湯島聖堂である。  聖堂の入口は、ずーと先なので、そのまま進むと、道の反対側に神田神社と刻まれた大きな石鳥居が見えてきた。  折角なので、道を渡り、神社に向かう。 
鳥居をくぐった先にあるのは朱塗りの隨神門で、昭和五十一年に、檜木造で、再建されたものである (右写真)
神田神社は、神田、日本橋、秋葉原、丸の内、旧神田市場、築地魚市場の百八町の氏神で、江戸時代には、神田明神と呼ばれたが、明治維新以降は、神田神社が、正式名称と
なっている。 始めは、皇居の辺り(芝崎町)にあったのだが、江戸城拡張のため、ここに
神田神社拝殿 移転させられたものである。  祭神は、一之宮 大己貴命(おおなむちのみこと)、別名は大国主命、二之宮 少彦名命(すくなひこなのみこと)、別名えびす様、二之宮 平将門命である (詳細は巻末参照) 
関東大震災の際、全ての建物が燃失したが、拝殿は、昭和九年に鉄骨鉄筋コンクリート造りの総漆朱塗り権現造で、再建され、東京空襲でも焼けずに残った (右写真)
江戸三大祭りの一つ、神田祭りは、夏を告げる祭りとして、有名だが、神輿が、境内の
銭形平次碑 小屋に保管されていた。 境内には、籠祖神社、末広稲荷や祖霊社なども祀られており、浮世絵系の日本画家、水野年方の顕彰碑や国学発祥の碑もあり、新しいところでは、千社札納札愛好者による碑(納札梁)があった。  面白いのは、銭形平次や子分の八五郎の記念碑である (右写真)
捕物帳に出て来る銭形平次の住まいは、明神下にあったが、銭形平次は、野村胡堂の創作による架空の人物である。  街道に戻り、少し下り、細い道(昌平坂)を右折し、更に右折
すると、湯島聖堂に入る入口がある。 湯島聖堂の正門は、御茶ノ水川に沿った道にある
湯島聖堂 ので、中山道からは直接入れない。 湯島聖堂は、元禄三年(1690)に、徳川五代将軍、
綱吉によって建設された、朱子学の学問所である。 その後、およそ百年を経た、寛政九年(1797)、幕府は、ここに、昌平坂学問所、通称、昌平校を開設した。  大正十二年(1923)の関東大震災で焼失したが、昭和十年(1935)に再建したのが現在の建物である。 寛政時代の旧制を模して、鉄筋コンクリート造りで造られている。  建物の前に、多くのガラス瓶が置かれていたのは芸術と思うが、何故置かれているのだろう??(右写真)
昌平坂を上り、中山道に戻る。 ここから須田町までは少し分かりずらい。
昌平橋交差点 明神下交差点の一つ手前にある道を右折すると、外神田二丁目交差点で、先程の湯島聖堂から川沿いにくればここに来られる。  交差点を左折すると、昌平橋交差点で、正面には秋葉原の電気街が見えて、多くの人が右往左往している (右写真)
右折すると、昌平橋で、その先に、中央線を走る電車が見えた。  中山道は、これより少し下流にある筋違橋を渡って、筋違門に出ていたが、この橋は残っていないので、やむをえず昌平橋を渡る。  筋違門は、かなり大きな門だったようだが、その位置については、神田郵便局とするものや交通博物館のあたりだ、とするものなどがあつて、はっきりしないよ
JR神田駅 うである。 交通博物館は、甲武鉄道の万世橋駅だったところに建てられたが、平成十八年に閉鎖になった。 甲武鉄道は、中央線のもとになった鉄道で、万世橋駅が始発駅になっていた時期もあったが、中央線が東京駅まで延長され、神田駅、お茶の水に迂回するようになった時に、万世橋駅は廃止されたのである。 神田郵便局の前を通り、須田町の交差点へ出る。 須田町の交差点は、五差路になっているが、真っすぐに行く。  須田町一丁目交差点を過ぎると、高架下に、JR神田駅がある (右写真)
その手前に日本橋まで1kmの道路表示があった。 日本橋は目と鼻の先である。
室町四丁目交差点 そこを過ぎると、間もなく今川橋。 橋の名は付いているが川はない。 堀があり、橋が架かっていたのだが、堀は埋められ、橋はなくなってしまった。  この付近には、入社した頃、仕事でしばしば訪れたが、その頃とすっかり様変りし、大きなビルが林立しているのには驚いた。  すぐに、室町四丁目交差点で、いよいよ花のお江戸の中心地に入る。  江戸時代には、日光街道との追分だったところである。  日光街道はこの先の本町四丁目で左折していくが、そのまま直進すると小伝馬町、馬喰町を経て、浅草へ通じる (右写真)
江戸時代の後期になると、庶民は豊かになり、旅行ブームになった。 田辺聖子の作品・
室町三丁目交差点 姥ざかり花の旅笠の主人公、小田宅子さんも、その一人である (巻末参照)
庶民が泊まったのが、日本橋馬喰町で、日本橋と浅草の中間に位置し、公事宿が多かった。 公事宿(くじやど)とは、裁判や訴訟ごとの関係で、泊まる人のための宿だが、遊山のための旅人も簡便さを喜んで利用する人が多かった。  室町三丁目、旧本石町と本町二丁目に囲まれた通りの両脇が、十軒店(じゅけんだな)と、呼ばれた地区である (右写真)
五代将軍、綱吉が、京都伏見の人形師十人を招いて、長屋十軒を与えて、雛人形店を
開かせたことから、名が付いたのであるが、寛永年間には、四十一軒を数えるように
日本橋三井タワービル なった程賑わった、とある。 終戦後もかなりの数の人形店があったのだが、数年前、残
っていた店が移転し、今は一軒もない。  室町三丁目交差点を越えた左側の室町センター
ビル付近に、十軒店跡を説明した、区の案内板があった。 人形店のあった近くの、贈答
フルーツで有名な千疋屋の三階建ての建物そのものがなく、千疋屋は、高層ビルの日本橋
三井タワービルの中に入ってしまっていた (右写真の奥のビル)
周りの建物はが再開発の名のもと高層化していく。 
このような一等地では人形屋が存在するのは無理なのだろう。
三越デパート (注)後で知ったのだが、私が探していた玉貞人形店は二年前に廃業し、それが最後の店だった、という。
日本橋本石町には日本銀行があるが、これは江戸時代の金座の跡。  金座は、代々後藤家が監督していたが、小判などの金貨の鋳造のほかに鑑定や封印も行った。  その先には、三越デパートがある。 建物には老舗の風格が漂っていた (右写真)
江戸時代、この辺りには伊勢、近江、京都に本店を置く上方商人の江戸店(えどだな)が並んでいた。 その代表的な呉服屋の大店が三井越後屋、今日の三越である。  
日本橋方面 浮世絵師の栄泉の浮世絵、日本橋には、反物らしい荷を積んだ大八車が描かれている。 
交差点の先に、見慣れた風景が見えてきた (右写真)
ついに、日本橋である。 日本橋は、日本橋川に架かけられた橋で、慶長九年(1604)に開設された中山道などの起点になっていた。 明治政府になっての国道もここが基点になっている。 一歩一歩橋に近づいていく。 三年半前に、落合宿で歩き始めた時は、中山道を完歩することは頭になかったのに、何時の間にか、目標が大きくなって、日本橋がゴール
日本橋 になっていった。 日本橋は、江戸名所図会に、 「 南北へ架す、長さ凡そ二十八間、南の橋詰に西の方に御高札建てらる。 欄檻葱宝珠の銘に万治元年戊戎(1658)九月造立と鐫(せん)す。 」 、と書かれている。  木造なため、明暦三年(1657)の振袖火事を始め、明治になるまでの二百年の間に、数十回も燃え、橋が造り替えられた、とある。  明治四十四年(1911)に、ルネサンス様式二連アーチ式の石橋が建てられた (右写真)
橋にある、日本橋、日本はしの文字は、徳川最後の将軍、徳川慶喜の揮毫によるものである。  そうした歴史的な橋の上には、高速道路が走り、決してよい景観とはいえないのは残
元標の広場 念である。  石原都知事は高速道路を移転して日本橋の景観をもとに戻すと言い出してい
るが、莫大なお金がかかるので簡単にはいかないようだろう。 
道の右側(日本橋北詰)には、元標の広場があり、日本国道路元標が設置される前にあった
東京市道路元標と日本国道路元標のコピーが置かれていた。 東京市道路元標は、当時、
日本橋を走っていた市電の電柱や電灯も兼ねた独特のもので、国の重要文化財の指定を
受けている。 また、日本国道路元標は、昭和四十七年(1972)、当時の首相、佐藤栄作氏
の揮毫によるものである (右写真)
現在の国道の起点となる、本物の日本国道路元標は、道路の中央に、埋設されていた。 
日本橋ゴール 橋の中央を過ぎると、 「 おめでとう!! 」 と、いう声がした。 
このために、わざわざ上京した妻と娘の祝福である。 六十八歳の誕生日に、中山道の
百三十五里二十四町八間の旅のゴールとなった (右写真)
この誕生日は、私にとって生涯忘れることもない最良の日になった。  余韻に浸りながら、
橋の先まで歩く。 道の反対側(北詰東側)には、魚河岸記念碑があった (右写真)
江戸時代、この河岸に魚河岸があったのである。 関東大震災にあって後、現在の築地に
移った。 あっという間に、日本橋を渡り終えていた。 三年半かけてのフィナーレにし
てはあっけないものだった。 このようにして、京の三条とお江戸日本橋とを結ぶ五百三十
キロに及ぶ中山道のひとり旅は終わりとなった。

(ご 参 考) 神田明神(かんだみょうじん)
神田神社 神田神社は、社伝によると、天平弐年(730)創建という古社で、祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)と平将門である。  創建時は、皇居の辺り、現在の千代田区大手町(武蔵国豊島郡江戸芝崎)にあったが、天慶の乱(939〜940)に敗れた平将門公の首が付近に葬られると、天変地異の怪異が続き、付近の住民は窮した。 時宗の真教上人が、将門公の祟りを鎮め、延慶弐年(1309)、将門公を祭神として、合祀した。  江戸の領域が拡大したため、区画整理が行われ、元和弐年(1616)、江戸城の表鬼門にあたる現在地(千代田区外神田)に、移転された。 江戸幕府から、江戸総鎮守に相応しい壮麗な桃山風の社殿が寄進され、幕府から自領を与えられた。 また、祭礼の山車は、江戸城に入り、将軍をはじめ、大奥の女性に至るまでが上覧した、とある。 しかし、大正十二年の関東大震災により、社殿をはじめ、社宝は、ことごとく燃失してしまった。  現在の建物は、昭和九年に、鉄骨鉄筋コンクリート造り、総漆朱塗り権現造で、再建されたものだが、平成七年に塗り替えが行われ、社殿の他、全ての建物が美しくなり、江戸総鎮守としての面目を一新した。  神田明神の祭りが、江戸三大祭りの一つ、神田祭りである。
(神田神社の案内による)

(ご 参 考) 湯島聖堂
元禄三年(1690)、五代将軍綱吉が、この地(湯島)に、聖堂を創建して、上野忍岡の林家にあった廟殿と林家の家塾をここに移した。 これが、湯島聖堂である。 その後、寛政九年(1797)、幕府は、昌平坂学問所を開設した。  幕府直轄の晶平坂学問所(のち晶平黌と呼ばれる)は、幕府直参、旗本、御家人の子弟の他、大名などにも門戸を開き、大いに人材の育成を行った。 また、後には、百姓、町人にも公開された。 幕末、ここから多くの逸材が出ている。  明治維新により、聖堂と学問所は、明治政府の所管となり、学問所は、大学校、大学と、改称されながら、存置されたが、明治四年(1871)、儒学の講筵は、その歴史を閉じた。  大正十一年(1922)、湯島聖堂は、国の史跡に指定されたが、翌年(1923)、関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失。 昭和十年(1935)、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建した。  (湯島聖堂の案内から抜粋) 

(ご 参 考) お江戸見物
江戸時代の後期になると、庶民は豊かになり、旅行ブームになった。   江戸見物で人気があったのは、浅草の浅草寺、上野の寛永寺、江戸城、増上寺など。  それに、芝居見物が加わる。 姥ざかり花の旅笠(田辺聖子作)の主人公・小田宅子さんたちも芝居見物をしたり、大名行列を見たり、芝泉岳寺で烈士の奮闘に涙をそそいだりしている。  江戸の芝居は、堺町の中村座、葺屋町の市村座、木挽町の森田座が、官許の三座となっていたが、天保十三年(1842)、幕府の命令で、三座はすべて浅草猿楽町に移された。 その他の芝居小屋として、木挽町に川原崎座があった。 
田辺聖子さんは花の旅笠の中で、 「 江戸時代の後期になると、全国の商人や農民の中で裕福な人々が旅行することがはやり、お伊勢さん、日光東照宮と善光寺さんが人気の三点セットになった。 」 と、書いておられる。  そうした庶民が泊まったのが日本橋馬喰町である。 日本橋と浅草の中間に位置し、公事宿(くじやど)が多かった。 公事宿とは裁判や訴訟ごとの関係で泊まる人のための宿だが、遊山のための旅人も簡便さを喜んで利用する人が多かった。 
田辺聖子さんの文章を借りると、「 食事は2食付で二百四十八文、ほかの宿屋のように各部屋に食事は運ばず、衆客を台所に集めて食せしむという具合。 お風呂も自家用ではなく、湯札をだして近くの銭湯にいかせる。 」 という具合。 
いわば、今日のビジネスホテルのようなものだったのだろう。 

(板橋宿から巣鴨)    平成18年04月
(巣鴨から日本橋)    平成18年11月


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かうんたぁ。