『 中山道を歩く ー  美濃路 (15)関ヶ原宿  』


江戸時代の関ヶ原宿は中山道の他、北国脇往還や伊勢街道の追分でもあったので、大変賑わった。
それから1世紀を経た現在、当時の街道の面影や建物はすっかり姿を消していた。
今は関ヶ原の古戦場を売り出す町である。




  垂井宿から関ヶ原宿 へ

JR垂井駅 平成十六年三月十七日、今日は垂井宿から関が原宿を経て柏原宿まで歩くつもりであるが、途中に登りがきつい今須峠があるので少し心配だがその分時間を余分にとったので大丈夫だろう。  中山道を歩くのは三月に入り二度目。 前回と同じ電車に乗ろうと思っていたが、八時四分発の米原行き各駅停車が一番早く着くというので、それに乗った。 名古屋駅では座れなかったが、数駅後には座ることができた。 
大垣駅で十分近く停車した後、 一駅で垂井駅に到着し、前回の東赤坂駅より、早く着くことができた (右写真ー垂井駅) 
垂井の家並み 駅を出て前回見た町並みを歩き前回の終着地の西の見付に到着。 
今日はここからスタートである。 
このあたりには古い家が残っていた (右写真)
東海道本線の踏み切りを渡り国道に出て、日守交差点を渡り斜めの道が旧中山道であるが、中山道 はこの先の関ヶ原の街中を除けば残っている。 
このあたりには工場がいくつかあるらしく、運搬用の大型トラックが頻繁に出入りしている。 
道の四つ角に、南宮神社近道八丁と表示した道標を見つけた。 
日守のお茶所跡 京側から来た場合、この道を行けば宿場を通らず、南宮神社に近道していける。 
少し歩いた先の左側に建物があり、日守のお茶所跡とあった (右写真) 
これは江戸時代の後期、美濃俳壇の獅子門化月坊が建てた秋風庵で、今須宿に行く途中にある常盤御前にあったが明治に入りここに移したものである。  
中山道を通る人々の休み所として昭和初期まで利用された。 
その隣には、垂井の一里塚があった。  江戸から百十二番目の一里塚であるが、南側だけであるがほぼ完全な形で残っており、 昭和五年十月三日に、国の史跡に指定された (右写真)
国の史跡に指定された一里塚は中山道では東京都板橋区志村のそれと二ヶ処だけで 垂井の一里塚 あり、交通史上、重要な遺跡と説明板にあった。 
また、「浅井幸長陣跡」の説明板には「浅井幸長は五奉行の一人である浅野長政の
長男で、甲府府中の16万石の城主だった。 石田三成と犬猿の仲だったことから、関ヶ原
の合戦では東軍に属し、池田輝正等と岐阜城を攻略。  戦い当日は、南宮山の西軍に備え、この付近に陣を構えた。 』 と、書かれていた。 日守西交差点で再び国道と交差する。 
交差点を越えた右側にコンビニがあったので、飲み物と飴などを購入した。 
この先の道はカーブになって降りて行く。 
伊富岐神社鳥居 国道21号のバイパス工事中で、ここは国道21号から分かれる取り付け部分のようだ。   バイパスは関が原の古戦場あたりで、関ヶ原からくる国道365号と合流し、敦賀方面に行くものである。  両側が田圃で、右に東海道線を見ながら行く道である。 すぐに両側が民家になったが車の数が少なくのんびり歩くことができた。  1kmほど先の右側に大きな鳥居があった。  伊富岐神社の鳥居である。 傍らには、石標と常夜灯が建っていた  (右写真)
神社までどのくらいあるか分からないまま、近いだろう!!と思い込んで、歩きだしたが、実際はかなりの距離があったのである。 
道標石碑 線路を越え、さらに県道を越えると、伊吹の集落だが、標識や案内のような類がないので、 神社がどこのあるのか、分からない。  すれ違った車や近くで作業をしている人に尋ねるのだが、 地元ではないのでわからない!!という回答ばかり。  
民家はしんと静まりかえり、人影がない。  これには参った!! 
そのまま北上すると、石製道標と東海自然歩道木柱が四辻にあった (右写真) 
石製道標の左側に菩提道の文字。 右側は汚れていてはっきりしないが、「左関ヶ原、右岩手道」 と、刻まれているようである。  菩提道は北方にある菩提山へ行く道だろう。 
菩提山は竹中半兵衛の父・重元がここに砦を構える岩手弾正を追い出し、菩提山城を
築いたといわれる山で、 岩手は菩提山の右側にある集落である (詳細は巻末参照)
伊富岐神社東海自然歩道の木柱には、 直進は伊富岐神社、 左折は関が原古戦場跡とある。 
東海自然歩道の道標にしたがって、直進すると、こんもりした山の裾に目指す伊富岐(いぶき)神社があった。   松や杉などの木々の多い薄暗い社域に、寛永十三年(1636)に造営された社が建っていた (右写真)
脇の大杉はご神木で、建物は関ヶ原合戦で燃失したが、燃えずに残ったといわれる古木である。   伊富岐とあり、社殿は東南東向きで伊吹山を遙拝する位置にあったが、伊吹山本体は見えなかった (詳細は巻末参照)
四辻まで戻り、中山道の鳥居まで戻るか、東海自然歩道を行くか、迷ったが、東海自然
歩道を行き、途中から中山道に入ることにする。 
桃配山方面山裾を歩くコースで、曲がりくねっているので、距離的には多少ロスになるが自然たっぷりだった。  このあたりは春が遅く、梅の花が咲き、うぐいすのさえずりも聴くことができた。  山の中腹には小さな神社がいくつかあったが、地元の郷社なんだろう。  このまま行くと、関ヶ原宿とは離れるので、途中から少し南の田圃の中を歩く道に変えた。  うす曇の天気は歩く身にはちょうど良い。  左側の山裾には国道や県道など走っているので、大型トラックがひしめいて走っているのが遠望できるが、春めいているため、霞んで見えた(右写真)
写真では分かりずらいが、左側の山の先に黒くなっているあたりが桃配山だろう。
野上の松並木 桃配山は壬申の乱(672年)のとき、大海人皇子(後の天武天皇)が桃を配って兵を激励し
勝利したと伝えられるところで、徳川家康は縁起をかついで、合戦直前の陣を張ったところ
である。  小高いところにあったので、徳川家康最初陣跡ののぼりがかすかに見えた。 
なお、JRの東海道線では車内から見えることができる。
中山道に戻り、松並木にでた。  中山道に唯一残る野上の松並木である(右写真)
今回訪問しなかったが、国道から南に少し入ったところの真念寺境内に、斑女の観音堂がある。 
斑女は今から千年以上も昔、当地が東山道の宿駅として栄えていたころの話で、野上長者の
召使・花子と都の公家吉田少将との悲恋を題材にしたもので、謡曲にもなっている。 
斑女の守り本尊とされる観音像は室町時代の作という。 
松並木を過ぎると、国道に合流し、関ヶ原宿に入る。

(ご参考) 伊富岐(いぶき)神社
由来書によると、
『 伊富岐神社は、この地方の豪族・伊福氏の祖神を祭った神社で、仁寿弐年(852)、延喜式により不破郡三座の内となり、官社となった。 南宮大社に対し、美濃の二之宮として崇敬されてきた神社である。 』  と、ある。
祭神には、多多美彦命(通称、夷服岳神・伊吹山の神)、八岐大蛇(伊吹山の荒神が化けた大蛇神)、天火明命(製鉄の神)、草葺不合尊と幾つかの説があるようであるが、伊福氏の祖先は尾張氏と同祖というから、天火明命(あめのほあかり)、正式名称は天照国照彦天火明命であるという説はうなづける。 時代の変遷とともに伊吹山の神(伊富岐神)に変っていったのではないだろうか?

(ご参考) 菩提道と岩手
菩提道とは北方にある菩提山に通じる道のことで、このあたりは東海自然歩道としてハイキングコースになっている。
菩提山は竹中重元がここに砦を構える岩手弾正を追い出し、菩提山城を築いたといわれるところで、その子の竹中半兵衛が城主になったのは16歳のときといわれる。 美濃斎藤氏に仕えていたのを中国に三国志に倣って、秀吉が3回訪問し軍神として迎えたという逸話は吉川英治の太閤記にある。 半兵衛が病でなくなった後、弟・久作は本能寺の変による領内で起きた表佐の一揆で殺され、その後、廃城になったが、当時の濠や石垣が残っている。
岩手は菩提山の右側にある集落で、江戸時代に入り、竹中家の嫡流が岩手5千石を所領する旗本として、この地に屋敷を構え、明治まで領主として統治した。 今でも岩手陣屋跡として残っている。


(ご参考) 斑女伝説
斑女 は謡曲にもなっているが、今から千年以上も前、当地が東山道の宿駅として栄えていたころの話である。
話の大筋は、
『 平安中期ごろ、都から吉田少将が東国に下る途中、長者の館に泊まり、花子と深い契りを結んだ。花子は一子梅若丸を産んだ。その子が少年になったので、少将の許に送ったが、なんの便りもないので、花子も東国に下り捜し求めていると、木母寺に葬られていることを知った。
少将は梅若丸が下ってくる前、すでに都に戻っていたのである。
花子は驚き悲しみ、遂に狂女となり、形見の扇子を開き舞いながら野上に帰り、ひたすら観音を念じた。 』
というものである。
野上長者の家の召使・花子と都の公家吉田少将との悲恋を題材にした物語であるが、娘など、異説もあるようだ。


関ヶ原宿 

関ヶ原東町 関ヶ原は古代から都で政争が起きたとき、歴史舞台に登場する重要な要所だったところ。  奈良時代の壬申の乱でも舞台になり、また、天下分け目の関ヶ原合戦はまさにその名の通り歴史に残るものだった。 
国道に足を踏み入れた途端、車の騒音が耳に入った。 さきほどまでの静けさはうそのようである。 このあたりには古い家が残っていた (右写真)
ここは江戸時代には東町といわれたところで車の数はまだ少ないが、中央部に行くに比例して増えていく。 
若宮八幡宮 右側に若宮八幡神社があり、与市の宮があったが、説明がないのでどういういわれがあるのか分からなかった   (右写真)
関ヶ原宿は北国脇往還と伊勢街道との追分になっていたので、美濃十六宿でも1番賑わい多くの旅人が集まった、とあるので、宿場に残る史跡を楽しみにしていたが、見事に裏切られる。  このあたりや出口付近では古い建物も散見されたが、中央部にはほとんど残っていないのである。 その理由の一つは火事である。
宝暦十年(1760)の大火の他、何度も火事が発生したとある。 伊吹おろしの強風に加え、川らしい川がないため、火事が発生すると大火事になることが多かったという。 
みそ醸造所 領主である旗本の竹中氏は火災対策として道幅を2倍に広げ、中央部には水路を設け、その両脇には梅、桃、柿などを植えさせて、防火対策を講じた。  宝暦十三年宿場が復興すると秋葉神社を迎え、北山に祀り防火の神とした。   しかし、その後も火災が発生しているので、古いものはほとんど残っていないのである。  左側にあるはずの一里塚跡の表示も見つからなかった。 唯一見た古くて立派な建物はみそ醸造所だった。   (右写真)
新幹線、在来線、高速道路と国道が南北数kmしかない狭い土地に集中していて、関ヶ原はがいかに交通の要路が分かる。 しかし、国道には歩道がなく、宿場を出るまで車道脇の狭い歩道を歩くしか方法はなかったので車を警戒しながら歩いた。 
東首塚 右に入ったところに関が原駅があり、そこからから少し先に、松平忠吉を擁して戦いのきっかけとつくったことで知られる井伊直政陣跡があった。 
国の史跡に指定されている東首塚は関ケ原合戦後、領主竹中家が造ったもので、徳川家康が陣場野で実検した西軍の首が埋められている  (右写真)
塚前には、実検される首を事前に洗ったと伝えられる井戸が残っていた。 少し離れたところに立っている建物は昭和に入り名古屋の護国院大日堂とその門が移築されたもので、東西両軍の戦没者供養堂になっている。 その先には家康の本陣跡や開戦地、その先
には家康の本陣跡や開戦地、小西行長陣地跡、石田三成陣地跡などが盆地に広く分布
しているが、古戦場めぐりが目的ではないので東首塚だけを見学して街道に引き返した。
関ヶ原宿は、天保十四年当時、千三百八十九人、家数は二百六十九軒で、そのうち、本陣
東首塚 と脇本陣がそれぞれ一軒、旅籠は三十三軒で、大規模なものが十二軒もあった、という宿場なのにその痕跡が見事に消えているのである。 本陣は、どこにあったかだろうか?   町の作成したパンフレットには、八幡神社に本陣の庭にあったスダジイの大木は残るという書いてあったか、その説明をだけではよく意味が分からない。  東首塚の見学後、神社前を通ったが、そこには説明はなかった。  当日、近くの寺で葬儀があり、駐車する車で、神社内に入れなかったので、境内には説明があるのかも知れない (右写真)
街道(国道)に戻ると、直ぐのところに、 至道無難禅師誕生地 の石碑が建っていた。 
江戸時代初期、臨済宗妙心寺派の高僧となった無難禅師の誕生地を示す石碑である。 
石碑と脇本陣門 隣に、門構えの屋敷があった。 ここが、脇本陣跡である。  門は脇本陣当時の名残を留めているといわれるもので、現在は相川家が住んでおられる (右写真)
問屋場や旅籠はどこにあったかなどの説明はパンフレットのどこにも書いていなかった。 町役場は関が原の戦いには積極的でいろいろな種類のパンフレットも作成し、古戦場の
説明や史跡表示は至る所にあったが、宿場関連の表示や看板にはすごく冷淡で、無関心なのである。 観光客の関心がそちらに向くので当然かも知れないが、郷里の歴史を残すという観点から、もう少し力を入れてもらいたいと思った。
北国脇往還の追分はその先の狭い道の角で、そこには道標があるはずなのだが、工事
中のせいか見つけられなかった。  現在の北国街道はその先の西町交差点を通る。 
西首塚 この交差点は国道21号、名神高速道路から出入りする車や北国街道で長浜方面に向かう車で渋滞、大型トラックが排気ガスを撒き散らしながら、延々とつながっていた。 その角に、遍照山円龍寺という寺があり、門前に明治天皇御膳水の石碑があった。  交差点を渡った右の立派屋敷門の前に、勤皇志士三上藤川誕生地という石碑があったが、歴史上どのような活躍をした人か分からないのでぴんとこなかった。  前回の赤坂宿でもそうだが、美濃には勤皇志士が多かったのだろうか?  その先に 西首塚 があった (右写真)
関ヶ原合戦戦死者の数千人の首級を葬った塚で、 塚の上に、江戸時代、十一面観音と馬頭観音のお堂が建てられた。  階段を上がって奥をみると、墓がいくつか並んでおり、
墓がいくつかある 線香と供花が手向けられていた。  (右写真)
先程寄った東首塚が官製の荘厳な感じがしたのに対し、付近の人々の手で供養されてきた
せいか、庶民的で親しみがもてる感じがした。 街道の脇ということもあるのかもしれない。
街道を歩く。 この先の電柱に松尾山(小早川秀秋陣跡、)福島正則陣跡という看板が張り
つけられていた。その他にも町内のいたるところに陣跡の表示や説明板があった。
宿場はこのあたりで終わりだろうが、役場にも宿場関係のパンフレットがないので、これ以上
宿場関連の施設を探すのは無理。
昼になっていたので、予定していた店にいったが、定休日で入れない。 
ほかにと思って探したが、駅の周りには喫茶店が1、2軒あるだけで、食堂は見つからなか
った。 そのまま歩いて行けば途中にあるだろうと安易に考え、なにも食べず飲まずに出発
したのが誤算で、この先、今須宿を経て柏原へ行っても飲食店はもちろん、コンビニにも出
会う ことはなかったのである。 夕方、名古屋駅で立ち食いのきしめんを食べるまで、ペット
ボトルのお茶とチョコレート1枚で飢えをしのぐ羽目になった。 
(注) 後日調べたら、観光客が多い関ヶ原古戦場の廻りには、飲食店はあるようだった。 

平成16年3月


美濃路を行く(16)今須宿へ                                     旅の目次に戻る







かうんたぁ。