『 城 の 桜 』

桜が学校と城跡に多いのは何故か?
入学式に、帽子をかぶって校門をくぐると、桜のはなびらがはらはらと帽子の上に落ちた光景は、年を経ても懐かしい思い出となり残っている。 学校に桜がつきものなのは、日本の学校制度が4月に始まることと関係があろう。 明治の廃藩置県で城は無用な長物になり、ほとんどの城が壊されたが、その跡には、成長も早く丈夫な、ソメイヨシノが植えられた。 桜の ぱっと咲きぱっと散る はかなさと華やさは、日本人の美意識をくすぐるもので、これは武士道にも通じ、桜と城とはそういう意味で通じるものがあったような気がする。



名古屋城

名古屋城の桜 名古屋城は戦災で完全に焼け落ち、戦後造られたもので、歴史的価値はないが、城を取り囲む石垣は築城当時のものであり、外様大名の力を殺ぐために行われたと言われるだけあって、すごいものである
外堀に中を名鉄瀬戸線が走っていたこともあったが、地下化して繁華街の栄まで乗り入れたので、自然な感じでよい。
ここは染井吉野なので、木の姿には特色がないので、城と桜の対比ということで、外堀を一周して写すポイントを探した。 朝6時過ぎだったが、ジョギングする人や散歩をする人がかなりいたのは、土地が安くなってマンションが増えたためだろう。
近くにビルなどの近代的建物があるので、それらを避ける工夫に苦労した。 空堀の緑に朝日が差してきた瞬間を撮ったが、春の感じが出せたと思っているが、いかがなものか。

名古屋城の桜名古屋城の桜名古屋城の桜

長浜城

琵琶湖湖岸の桜を見たいと思い出かけたが、関ヶ原を過ぎたところで、湖北の桜は”まだ早い”と聞いたので、どうしようかと迷った。
桜を見に行く人がいて、「長浜城は良いらしい」というので、それにつられて行くことにした。 
長浜は”黒壁スクエア”のガラス細工をokanが見たいというので、でかけて以来である。 その時は 城は遠目で見て終わっていたので、近くに行くのは始めてである。
豊臣秀吉が織田信長から拝命し築城した城として有名なので、どのような城か興味を持っていた。
史実の長浜城は徳川家康により廃城になり、城は壊され彦根城に一部移されたという。 市内の大通寺台所門や彦根城天秤櫓はその遺構とあった。
城の設計図の類が残っていないので、城の姿は分からないらしいが、今ある城はなんなのかと思った。
よく見ると、長浜城歴史記念館となり、城とは言っていなかった。
かっては湖の中に浮いていた城のはずだが、廻りは公園になって、昔の姿とはかなり違うのだろうが、復元されたものにしては城らしく見栄えがしているような気がした。
桜が多く植えらていて、桜を見るには大変よいところに思えた。
訪れた日は花見の真最中で、人を入れないで撮るのも難しく、三脚を立てるのも気が引けた。

長浜城の桜長浜城の桜長浜城の桜

彦根城

彦根城は特に説明を加える必要がないほど有名な城でこれまでに数回訪れているが、桜を見に行ったのは始めてである。
彦根城の桜 訪れて始めて知ったのであるが、この花見の時期は入場料が無料だった。 地元の人たちに還元するという点では金沢の兼六園も同じである。  彦根城の天守閣は国宝であり、その他の建築物も重要文化財に指定されているのが多い。 また、城全体、内堀から中堀まではほぼ完全な形で残されいるというのは全国的にも珍しい。  ただこの城が築かれた経緯が少しいやだ。 それは徳川家康の秀吉に対するコンプレックスから出ているように思われる。  この地では石田三成が善政を布いたと慕われていた。 関ヶ原以降、三成の居城である佐和山城を破壊し、城石は全て持ち去り、なにも残っていないという徹底振りである。  関ヶ原で活躍した井伊氏を城主に任命し、寺院があった金亀山に築いた城が彦根城であり、城石は佐和山や大津城から持ってきたものを使ったという。  秀吉が築いた大津城も廃城にし、代わりに膳所城を築いているが、彦根城の天守閣は大津城を移したものといわれる。 また、長浜城の遺構が天秤櫓となって残っている。  そういう意味で、家康の執念が感じられる城である。
さて肝腎の桜であるが、城に入るとほとんどない。 天守閣の桜も夕方だったので、アングルが悪く写すのに苦労した。 
下に降り、堀の周りまで行けば花が多いが、そこは夜桜見学を兼ねて御花見の宴を持つ人たちが準備で大わらわだった。
近くのホテルで食事を取り、彦根を後にした。

彦根城の桜彦根城の桜彦根城の桜

掛川城

掛川城の桜 平成19年3月29日、東海道のひとり歩きで、掛川宿に訪れた際、掛川城に寄った。
掛川城は、室町時代中期、文明年間(1469〜1487)に、守護大名、今川義忠が、朝比奈泰煕に命じて、築城したと、伝えられる城である。 永禄十一年(1568)の今川氏と徳川家康の戦いで、徳川氏のものになり、城代として、家康の重臣、石川家成・康通親子が 入った。 武田信玄が、掛川城に近い牧之原台地に諏訪原城を築き、さらに、掛川城の 南方の高天神城では、武田と徳川両氏間の激しい攻防戦の舞台となったが、掛川城は武田氏の手には落ちず、徳川氏の領有であり続けた、という歴史を持つ。 緑橋を渡り、四脚門をくぐると、満開の桜と城がマッチして、大変きれいだった (右写真)
掛川城の姿と形は、千代と一豊のTVドラマではないが、山内一豊によって整った。 
掛川城の桜 天正十八年(1590)、家康の関東移封に伴い、豊臣秀吉は、家康への備えとして、忠誠心 の強い山内一豊を掛川城に入れた。 山内一豊は、城の大幅な拡張を実施し、石垣、瓦葺 の建築物、天守など近世城郭としての体裁を整えたのである。 その後、二十六代の 藩主の居城として続いたが、嘉永七年(1854)の安政東海地震により、天守閣を含め損壊してしまった。 二の丸御殿は、文久元年(1861)までに再建された(国の重要文化財に指定)が、現在ある天守は、平成六年(1994)四月に再建したものである。 
桜はその時植えられたと思われ、しだれ桜はまだ貫禄がないが、高い城と桜のバランスがよいので、撮影するのに適してる、と思った。 

 

小田原城

平成20年4月3日から4日にかけて、東海道のひとり歩きで、大磯から箱根湯本まで歩いたとき、小田原城の桜は満開だった。
小田原城の歴史を遡ると、平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族の小早川遠平が居館を構えたのが起源である。 
その後、大森氏が奪った城を、伊豆国を支配していた伊勢盛時(後の北条早雲)が奪って以来、北条氏の五代にわたる居城として、南関東の政治的中心地となった。 
天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原合戦で、三ヶ月の篭城戦の末、北条氏は亡びたが、城はほとんど無血で開城。 江戸時代に入り、小田原城を居城とし、小田原藩を開設した大久保氏は、慶長十九年(1614)の大久保長安の事件に連座し、大久保忠隣が失脚すると、小田原城は家康の命によって破却され、三の丸以内に規模が縮小された。 
城はその後、何度かの大地震に遭い壊れたが、天守は宝永三年(1706)に再建された。 しかし、城壊し令の実施により、明治三年(1870)に解体されてしまった。 
現在の建物は、昭和三十五年に再興されたもので、高さは三十八メ-トル七十センチのコンクリート製である。 城址は、小田原城址公園になっていて、公園内に、小さな遊園地とゾウと猿くらいしかいない動物園がある。 また、常磐木門や、銅門などの城門も再建され、小田原の観光名所となっている。 今回は花見時期なので、人が多く賑わっていた。

小田原城の桜小田原城の桜小田原城の桜

 

(撮影)名古屋城 平成16年4月4日
  長浜城・彦根城 同年4月6日
  掛川城 平成19年3月28日
  小田原城 平成20年4月3日〜4日



                        



かうんたぁ。