@ 目黒川
東京の桜の名所というと千鳥ケ淵とともに目黒川や飛鳥山公園が挙げられる。
平成二十八年(2016)四月一日の早朝に自宅を出て、地下鉄日比谷線の茅場町駅から中目黒駅に向った。
車内は予想に反して空いていた。
日比谷線は北千住で東武動物公園まで乗り入れているのに反し、その反対の中目黒はかっては東急東横線に乗り入れていたが、
渋谷駅で副都心線に乗り入れ、横浜方面に行くように変わったため、サラリーマンの利用が少ないためだろう。
朝が早かったことも一因だが・・・
中目黒には八時前に到着。 早速目黒川へ向うと、桜は満開である (左中写真)
駅に向う橋の上では通勤途中のサラリーマンやOLが写メールしていた。
目黒川は世田谷区三宿から目黒区の池尻大橋、品川区の戸越を経由し、天王洲アイル駅付近で東京湾に注ぐ約八キロの川である。
三宿から池尻大橋までは暗渠だが、池尻大橋から地表に現れる。
目黒川には池尻大橋から東急目黒線下の亀の甲橋までの約三千八百メートルの川沿いの両岸に、
約八百本のソメイヨシノが植えられている。
中目黒から池尻大橋まで写真を撮りながら進む。
途中に大きな公園などはなく、公衆トイレがあるだけ、植え込みにはビール缶や焼酎瓶などが捨てられ、トイレも同様に汚い。
ベンチで休んでいた老夫人に話をうかがうと、 「 ここに越してきて、三十年以上になるが、当時は人出は少なく、
静かに桜を見ることができた。 最近は夜になるとビールなどを片手に花見にきて、大きな声をあげたり、
飲み終わった瓶などを投げ捨てていくというモラールの悪さが目立ち、此処を避けて遠回りして帰宅する。
桜の花は以前はもっとピンクだったような気がする。 木が古くなったからかしら!! 」 と話してくれた。
しゃくやま橋からの桜は見事に咲き競っていた (中下写真)
九時を過ぎると中国人か、韓国人か分らないが、通勤客の代わりに、外国人が現れ、大部分を占めた。
桜は日本の象徴であるが、喚声を上げ、自撮り棒で写真を撮りまくる。
橋にせり出した桜をさわろうとする。 枝を折る人がいなかったのはせめての救いで、マナーがよくない。
また、三脚にカメラを付けた中高年の人々は青空が出るのを待っているのか?、橋の一部を占拠して動こうとしない。
当日はうす曇りで、桜の上に青空が現れるのはむずかしいと思ったが、
写真をやる小生にはその時を待つカメラマンの気持ちは分るが・・・ じゃまである。
橋を離れ、北に向うと少しずつ桜の木の枝数や花数が減り、パッとしなくなった。
代わりに「目黒川桜まつり」協賛のピンクと白と提灯が目に入る。
池尻大橋に近づくと、 「水車跡 大橋1−10」という案内板があり、
「 この地域は近くに大山道(現在の玉川街道)が通り、物資の輸送に便利だった。
三田用水、目黒川の水力にも恵まれていたので、江戸時代から明治時代にかけて、水車が多くつくられた。
なかでも大橋近くにあった加藤水車が有名だった。 」 とある。
川の両岸はコンクリートで護岸され、苔むしているところもあり、当時ののどかな水車小屋を想像するのはむずかしい。
桜も満開を過ぎて、花びらが水面に流れていく (右中写真)
少しあるくと大橋に出たが、その手前に「清流の復活 目黒川 」という案内板があり、
「 目黒川の上流は昭和の始めごろは灌漑の水源として、下流は河口から現在の船入場までは運河として利用されてきたが、
都市の発展や陸上交通の発展とともに水質の悪化や水量の減少が見られた。
平成七年(1995)三月より新宿区上落合にある落合水再生センターで高度処理した再生水を放水し、清流の復活を行った。
」 とある。
新宿から目黒まで送水管で繋いで、目黒川や渋谷川、呑川に流しているというので、すごい工事をしたものだと感心した。
目黒川の桜が注目されるようになったのは清流の復活と関係があるなあと思った。
名古屋で住んでいた小生は五条川の桜を思い出した。 目黒川より川幅は広く、桜の並木の距離も長く、スケールが違うが、
大都会の東京でこれだけの桜はみごとというしかない。
もう一つ思いだしたのは名古屋の山崎川の桜である。
これは目黒川と同じく、石川橋の住宅地を流れ、瑞穂運動場まで続いていて、途中菜の花が植えられていて、サクラのピンクと
菜の花の緑と黄色のコントラストが美しい。
しばし名古屋で過ごした妻や幼き頃の娘との桜散策の思い出に浸った。
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A 六義園(りくぎえん)
まだ九時を少しまわったところなので、六義園に行くことにした。
六義園は文京区本駒込にあるので、東急東横線の池尻大橋駅から渋谷駅下車。
小腹がすいたので、そばやで軽く食事し、山手線で駒込駅で下車した。
外に出ると数分で染井門に到着。 時計を見ると十時二十分過ぎだった (左中写真)
少し列ができていたので、しばし並んで中に入った。
なお、開園時間は九時から午後五時(入園は四時三十分まで)で、年末年始を除き開園している。
入場料は300円、65歳以上は100円。
六義園はは五代将軍・徳川綱吉の信任が厚かった川越城主・柳沢吉保が元禄十五年(1702)に築園した回遊式築山泉水の
大名庭園である。
いただいたパンフレットによると、 「 柳沢吉保は加賀藩下屋敷だった敷地を拝領すると、そこに千川上水を引いて池をつくり、
平坦な土地に土を盛って、山をつくるなどして、七年間かけて、庭園を完成させ、六義園と名付け、
大和郡山藩主になった後も、下屋敷として使用された。
明治時代に入り、三菱の創業者の岩崎弥太郎の別邸になったが、昭和十三年(1938)に岩崎家より東京市に寄付され、
昭和二十八年(1953)に国の特別名勝に指定された。 」 とある。
細い道を直進すると、道の右側に「千里場 馬場の跡」の案内板があり、
「 江戸時代大名庭園内馬場の残された数少ない遺構として貴重である。 」 とあったが、
パンフレットを見ると、今歩いている道の左右に少し膨らんでいる部分が馬場のあった千里場のようである。
その先、道が細くなって、藤棚のある先にしだれ桜と多くの人の姿が見えた (中下写真)
しだれ桜の正面左手にある大きな門は内庭大門といい、正門に続いている。
しだれ桜は高さ十五メートル、幅二十メートルあり、薄紅色の花が流れ落ちる滝を思い出させる風情である (右下写真)
期間限定だが、夜間のライトアップした桜はやや白味を帯びていて幻想的という。
この桜の樹齢は七十年と聴いたので、戦後すぐくらいに植えられたのだろうか?
しだれ桜の周囲は見物客で一杯で、人を入れない写真を撮ることはできないし、木が大きすぎて全体を写すことはできなかった。
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B 飛鳥山公園
駒込駅まで引き返すと地下鉄南北線の脇にソメイヨシノが咲いていた (左下写真)
時計を見ると十一時。 もう一か所、飛鳥山の桜を見に行くことにした。
近くの交番で聞くと、地下鉄南北線で王子に行くといいと教えられた。
王子駅に到着し、北口の方に出たが、本来は南口がよいことを帰りに知った。
北口から北区役所の方に行ったところで、道が違うと引き返し、王子神社の山下を通る。
王子神社は王子権現ともいわれ、紀州熊野三所若一王子が勧請され、熊野信仰の拠点となっていた神社である。
江戸時代家康から保護されたこともあり、王子の狐で有名な王子稲荷神社とともに隆盛を極めた。
王子の地名の起こりとなった神社で、古くは岸村といわれたのが、王子村となったという。
その先には音無川が流れていて、川に沿って植えられている音無川親水公園の桜が美しい (中下写真)
また、タイルで造られた歌川広重の「名所江戸百景 王子音無川堰棣 世俗大瀧ト唱」という浮世絵があった (右下写真)
案内板には 「 この川は石神井川で、王子稲荷のあたりでは音無川と呼ばれている。
王子稲荷が紀州の熊野権現を勧請し、地勢も熊野山を模したことに由来するためで、
川の名前も紀州の音無川に倣った。 」 とあり、なるほど!!と思った。
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しばらく桜を見ていたが、真直ぐ行っても飛鳥山には行けないことが分かり、
音無橋の上に階段で登って行くと、明治通りが通る音無橋交叉点近くに出た。
ここには都電荒川線が通っていて、都電の先に飛鳥山の桜が見えた (左下写真)
八代将軍・徳川吉宗の時代、江戸近辺の桜の名所は徳川家の菩提寺の寛永寺周辺しかなかった。
吉宗は庶民が花見ができる場所として設けたのは飛鳥山や代官山である。
飛鳥山は王子権現などを配下にしていた寺院の所有だったが、幕府はここを整備、
造成を行い、花見時には庶民に開放、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行ったといわれる。
平日だが、多くの花見客が来ていた (中下写真)
公園の中央部に佐久間象山の桜賦碑が建っている (右下写真)
桜の賦(ふ)は松代藩士で儒学者の佐久間象山の作である。
「 桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、
日本の全土に壮観を呈しその名声は印度、中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないといい、
当時象山は門弟の吉田松陰の密出国の企てに連座し、
松代に蟄居中だったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが、
愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえる。 」 と結んでいる。
この賦は万延元年(1860)佐久間象山五十歳の作といわれ、
桜の賦碑は、遺墨をもとに門弟勝海舟の意によって明治十四年(1881)に建立されたものである。
公園にはこのほか、老農・船津伝次平の碑や飛鳥山碑がある。
歩いての感想だが、桜の下には雪洞が吊り下げられているので、写真にはならないが、
花見会を行う会場として最高だろう。
帰りは京浜東北線に乗るため、石段を降り、陸橋で横断して、王子駅南口に出た。
二時過ぎ、まだ早いよな気がしたが、早朝六時半に出たので、今日の桜旅はこれで終了することにした。
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