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左手の空堀の先には戌亥櫓があったが、支える石垣が崩れ、 石落しの下の石でかろうじて建っているという感じである。
「 戌亥櫓(いぬいやぐら)の構造は、未申櫓と同一で、 同時期に建設されたものと思われる。 鎮西鎮台が城内に入った後、司令であった桐野利秋の指示により、 西出丸は石垣ごとに取り壊され、未申櫓も破却された。 平成十五年(2003)に木造で再建された。 」
その先は二の丸跡で、時習館跡であるが、二の丸方面には行かず、引き返す。
堅物台樹木園の右側には棒庵坂があり、下っていくと「棒庵坂」の説明板があった。
「 棒庵坂の名前は、この坂の下に下津棒庵の屋敷があったことに由来します。 下津棒庵はもともと京都の公家・久我氏の出身で、加藤家・細川家に仕えました。 棒庵坂は千葉城方面から北大手門へ登る重要な場所で、 江戸時代には坂の途中に門と番所が置かれ、 また、坂の南北には櫓が配置されて厳重に守りを固めていました。 )
説明板の奥にあった櫓跡の石垣にはかって櫨方三階櫓が建っていた。
「 櫨方三階櫓は、西出丸北東西隅にあった櫓で、 西出丸の他の三櫓と違い、L字型の櫓を中心に望楼を乗せた形状になっていた。 細川藩時代に、加藤神社の所に櫨方会所が置かれたことにその名称の由来がある。 西南戦争前に、この地に布陣した鎮台により、破却された。 」
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坂を下って先の正面にあるのはKKRホテル。
ここは右折して、城に沿って歩く。
石垣は左にずーと続いているが、上には白いシートがあり、あめから守っているようである。
位置的には加藤神社の裏側である。
その先は本丸との境の唐堀があったところで、
その前の空地も以前には建物が建っていたのだろうと思った。
その先では鉄骨を組んだ足場があり、塀には「熊本城平櫓の石垣解体工事を行っています。」の
看板が貼られていた。
近くに「平櫓・不開門(あかずもん)」の説明板があった。
「 平櫓(ひらやぐら)は天守を守る一階建ての櫓で、
石落しの防御機能を備えています。
高さ18mの石垣上に建ち、石垣の東脇を通る坂道は不開門に通じています。
不開門は熊本城で唯一現存する櫓門で、平時は開かれなかったと伝えられています。
平成28年(2116)の地震により、平櫓の土台石垣が大きく膨らみ、
地盤沈下により建物も損傷しました。
不開門は櫓部分が倒壊し、周囲の石垣も崩落しました。 」
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平櫓の左手に不開門があり、その左に五間櫓があったはずであるが、
見当たらない。
石垣の上にあった櫓は全て倒壊したのだろう。
見上げた石垣の上に天守群がわずかに姿を見せていた。
その先の北十八間櫓は建物はなく、石垣は崩れ、土が剥き出しになっていて、痛々しい。
説明板「北十八間櫓」
「 北十八間櫓は高さ約20mの石垣の上に建つ、全長約40mの一階建ての櫓(多聞櫓)です。
かぎ状に折れた形をしていて、南側は東十八間櫓に接続しています。
江戸時代から数回の修復を経て受け継がれた重要文化財建造物です。
平成28年(2016)の地震によって櫓と土台の石垣が崩落しました。
倒壊した櫓の部材と崩落石材を回収し、修復に備えて修理・保管しています。 」
北十八間櫓はその先で東十八間櫓と接続していたが、震災前の写真(説明板)を見ると、
その様子がよく分かる。
また。北十八間櫓の右側には五間櫓が繋がって建っていた、という。
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道の左側にある変わった外壁の建物は熊本美術館、
道はここで右に大きくカーブする。
道を道なりに右にカーブしながら進むと、熊本大神宮の鳥居があり、
駐車場に「東十八間櫓」の説明板があった。
「 東十八間櫓は高さ約20mの石垣の上に建つ長さ約34mの一階建ての櫓で、 北側は北十八間櫓と接続しています。 江戸時代から数回の修復を経て受け継がれた重要文化財建造物です。 平成28年(2016)の地震によって櫓と土台の石垣が崩落し、神社建物を倒壊させました。 回収された櫓の部材と約1900個の崩落石材は、修復に備えて修理・保管しています。 」
下の写真は震災前の東十八間櫓の姿である。
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下の写真は現在の駐車場と東十八間櫓が乗っていた櫓台の風景である。
隣にあるのは熊本城稲荷神社で、熊本大神宮と違い、きらびやか社殿が並ぶ。
熊本城稲荷神社は、天正十六年(1588)に加藤清正が肥後国に入国するに当り、
居城となる熊本城の守護神として稲荷神を勧請したことに始まる。
以後、生活の守護神として熊本の人達の崇敬を集めている。
熊本大神宮はそれに対し、歴史は浅い。
「 明治九年に伊勢神宮の神霊を勧請し、ここに創建し、当時は神宮教院熊本本部と称していた。 明治十年の西南の役で熊本城が炎上し、類燃したため、市内の手取町に社殿を建て移転。 大正十五年に現在地に神殿、拝殿、参集所などを建て、昭和二年に遷座した。 」
稲荷神社の裏側に石垣があるが、
その上には一階建ての田子櫓、七間櫓、十四間櫓、四間櫓、源之進櫓が連なっていて、
国の重要文化財に指定されている。
武器や武具を保管する兵器庫で、戦時には兵隊の溜り場になるものである。
今回、須戸口門からの入城が出来なかったので、震災による被害がどうか、確認できなかった。
その先右奥に熊本城の須戸口門と平御櫓がある。
「 須戸口門は、熊本城の南東に位置し、竹の丸の東の虎口である。
門構えが柵のようにすき間を開けてつくられたため、須戸口門と呼ばれた。
この虎口は戦闘用に作られたので、平時は出入りすることはなかった。
平御櫓は、長塀の防御線を一段高い位置から擁護する役割や、
須戸口門から侵入する敵を、東竹の丸と連携して挟み打ちにするための櫓であった。
櫓に登る石段は、敵が須戸口門を突破した時に、この石段を崩して侵入を防ぎ、
敵中で孤立した拠点として最後まで戦うために作られた櫓である。 」
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「九州の電気事業発祥の地」の説明板が立っていた。
明治二十二年(1889)に九州で最初に電気事業を開始した熊本電燈株式会社は、
この場所に石炭火力発電所を建て、九州の電力事業の草分けとなった。
現在の九州電力株式会社のルーツの一つである。
須戸口門の手前に係員がいて、入城できないことを告げられた。
車道に戻り、進むと、右側の石垣の上に平御櫓があり、その先に長塀が続くのを見た。
以上で、熊本城の見学は終了。
食事をするため、ホテル熊本キャッスルに向う。
すると、雨が降り出してきたので、傘をさして熊本城の一本右側に道を上り、到着した。
かって仕事で出張した時、地元の社長に「ここは中華がうまい。」と御馳走になったところだが、
そこは地下なので、最上階のレストランに入り、昼食のおすすめメニューからカレーを頼んだ。
窓越しに熊本城が見え、本丸御殿と天守の姿を確認でき、満足した。
これで熊本城の探訪は終了である。
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熊本城へは、JR鹿児島本線・九州新幹線熊本駅から熊本市電で、
約10分「熊本城前」下車、徒歩約10分
熊本城のスタンプは二の丸休憩所(二の丸駐車場内)に現在置かれている。
水前寺公園
熊本城・市役所前からバスに乗り、水前寺公園のバス停で降りる。
雨が激しくなってきたため、バス停前の店前で雨やどり。
小降りになってきた時に出発。 道を少し戻り、交叉点を右折して、
最初に三叉路をUターンするように曲り、川に沿って進むと、入口に出た。
400円を支払い、中に入ると左側に社務所があり、水前寺成趣園の説明板が立っている。
水前寺公園の正式名称は、水前寺成趣園であることを知った。
「 寛永九年(1632)、細川忠利公は加藤家の改易により、
肥後細川家はじめての熊本藩主となります。
小倉からの国替えに際して、熊本城東南の湧水地に豊前(大分県中津市)羅漢寺から熊本に来ていた
住職・玄宅のために、一寺を設けて、「水前寺」と号します。
また、同地に数寄屋風の御茶屋を建て、「水前寺茶屋」と呼ばれるようになります。
これが水前寺成趣園の始まりです。
その後、二代熊本藩主光尚公、三代綱利公の三代にわたり、作庭が行われ、一六七一年に
現在とほぼ同じ規模の庭園ができあがり、
陶渕明の詩に由来する「成趣園」と名付けられます。
阿蘇の伏流水の泉水を中心とする回遊式庭園で、
昭和四年(1929)に国の名勝・史跡に指定されています。
陶渕明の詩(帰去來辞)の一文「園日二渉以成ス趣」より
面積 約七三、〇〇〇平方メートル (池の面積 約一一、〇〇〇平方メートル
(以下省略) 」
入った先の右手に「古今伝授の間」の石柱が立っている建物がある。
「 近世細川家の祖で、 忠利の祖父・細川藤孝(幽斉)が後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王に 「古今和歌集」の奥義を伝授したといわれる古今伝授の間がある。 当初、八条家の本邸にあったが、長岡天満宮に移され、 桂宮家から明治四年(1871)に細川家に贈られ、 大正元年(1912)に酔月亭の跡地に移築されたものである。 杉戸の雲龍は狩野永徳の筆、襖絵は海北友松の画とされる。 」
ここからは広々とした湖面が広がっていて、霧雨の中に少しかすんでいた。
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池の周りを右に回って行くと、芝生の奥に能楽堂がある。
説明板「能楽殿」
「 能は武家社会で重んじられ、行事のたびに演能が行われました。
それにともない能面、能装束といった道具類も凝った豪華なものが作られました。
大名家の中でも細川家では能をたしなわないものはいなかったといわれています。
藤孝(幽斉)公も能を好み太鼓の名手であったといわれ、
忠興(三斎)公、忠利公と代々受け継がれ、戦前まで細川家では能が愛好されました。
明治十一年(1878)、出水神社の創建と同時に能楽堂がこの地に建てられましたが、
昭和四十年(1965)に火災で焼失しました。
現在の能楽堂は、昭和天皇御在位六十年を記念し、旧八代城主松井家より、
昭和六十一年(1986)に元のこの場所に移築されたものです。
(以下略) 」
その先に築山がある。 山の形をしたものが幾つかあり、
富士山の形をしたものが秀逸である。
太鼓橋がある泉水庭園。
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細川綱利公の時代に、桃山式の優美な回遊式庭園ができ、
元禄時代には東屋が沢山でき、成趣園十景を選んで楽しまれた。
宝暦時代に入ると、細川重賢公により、質素のため、酔月亭一つを除き、建物は撤去され、
樹木も松だけを残した、質素なものになった。
出水神社の鳥居があり、その奥に社殿が建っている。
「 明治十年の西南の役後、旧細川藩士を中心に、 藩主の霊を祀る神社として、出水神社がこの地に創建され、細川藤孝ほか三柱を斎鎮した。 後に、歴代の藩主十柱及び忠興の妻、ガルシャ夫人を配祀した。 第二次世界大戦で社殿が焼失、現在の社殿は昭和四十八年に再建したものである。 」
手洗い場の脇の柱に、「 見るが如く 仰げ神代の鏡山 けふあらたま乃 春の光を
幽斉公御歌 」が書かれた板が貼られていた。
また、鳥居の近くに、夏目漱石の「 しめ縄や 春の水湧く 水前寺 」の句碑があった。
この句は明治三十年四月十八日、漱石が正岡子規に送った直筆五十一句の一句である。
以上で水前寺公園の見学を終了した。
今から六十年前、大学の卒業旅行で熊本に来て、
感動したのが水が豊富に湧き出していた水前寺公園であった。
今回訪問すると、周囲にマンションが建ち、公園の借景に入るため、
静かな自然の風景を邪魔しているのが気になった。
最盛期には年間百四十万人が訪れたが、
今は四十万人程度に減っているのもこの辺に原因があるのかも知れない。
見学が終了すると、また、雨が降り出した。
水前寺公園から荷物を預けた東横インのある水道町電停まで、熊本電鉄市内線の電車に乗った。
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水前寺公園へは熊本電鉄市内線で水前寺公園前下車徒歩約5分
3月〜10月 7時30分〜18時(入園は17時30分まで)
11月〜2月 8時30分〜17時(入園は16時30分まで)
年中無休
日本100名城を訪問終えて
熊本城を見学したことで、日本100名城を全て踏破した。
今から七年前の平成二十六年(2014)に娘と佐倉城に桜を見に行った際、
100名城のスタンプを押してくるとの娘の言葉で、100名城の存在を知った。
当時は愛知から船橋に引っ越したばかりだったので、周囲の街道歩きをしながら、
城跡にも訪れるという程度だった。
また、京都で開かれる同窓会の前後に、近畿周辺の城を訪れていた。
本格的に訪問し出したのは四年前からである。
最後は根室半島の砦跡群と思っていたが、人吉城の水害と熊本城の地震で、
計画の変更を余儀なくされた。
熊本城の天守公開が始まった今回、城全体の修復は何時になるのか分からないので、
この機会に訪問して、100名城の旅の結着つけることに
した。
ここ二年はコロナで、訪れる可能な時期を見ながらの訪問だったが、
100名城の旅は今日で終了である。
今後は、続100名城で未訪問の城に機会を見ながら、訪れようと思う。