東 京 散 歩

「 深川・両国界隈を歩く(続き) 」




◎ 一之橋・塩原橋

先程の道に戻り、北上すると、 首都高速7号線小松川線の下に流れる川は竪川で、 そこに架かる橋は一之橋である。

説明板「一之橋」
「 万治二年(1659)、竪川の開削と同時に架けられ、 隅田川から入って一つ目の橋という意で命名されたのがこの一之橋で、 長さ十三間、幅二間半ほどありました。  赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際、最初に渡った橋としても知られています。  」 

橋を渡ると、両国地域になる。
一之橋北詰交叉点で右折して行くと、この橋と平行して塩原橋がある。

「 関東大震災後、架け替えられた橋は木橋だったが、 昭和二十九年に現在の橋になった。 
塩原橋の名は江戸時代の末、  「 本所に過ぎたものが二つあり、津軽大名と炭屋塩原 」  と謳われた塩原多助がこのあたりに住んでいたことから、 それに因んでつけられたものである。
明治二十五年初演の歌舞伎「塩原多助一代記」の愛馬との別れは、 大変な評判をとった、といわれる。 」

この付近は赤穂浪士が吉良邸の内部を探るために住んでいたところである。 
近くの町工場の一角に、「前原伊助宅跡」の説明板があった。

説明板「前原伊助宅跡」
「 このあたりに前原伊助宅がありました。  伊助は、赤穂浪士四十七士の一人で、浅野家家臣・前原自久の長男として生まれ、 延宝四年(1676)に家督を継ぎます。  金奉行として勤任したため、商才に長けていました。 
浅野内匠頭の刃傷事件後は江戸急進派として単独に別行動をとりました。  初めは日本橋に住んでいましたが、 やがて吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移り住み、 「米屋五兵衛」と称して、店を開業し、吉良家の動向をさぐりました。 
その後、大石内蔵助と行動をともにしました。 」 

一之橋
x 塩原橋 x 前原伊助宅跡
一之橋
塩原橋
前原伊助宅跡



◎ 吉良邸跡 (本所松阪町公園)

吉良邸へは北上し、二つ目の交叉点を右折する。
右に入っていったところの右側になまこ壁に囲まれた一角があり、本所松阪町公園がある。
この公園が吉良邸跡で、 なまこ壁の前に 「 赤穂浪士遺蹟 吉良邸跡 」の石碑が建っている。 
中に入ると、「 吉良上野介追善 」碑と「 吉良家、家臣二十士 」の石碑があり、 吉良氏の首洗い井戸が再現されていた。 

「両国三丁目吉良邸跡保存会が発行した資料」
「 吉良上野介の屋敷は、鍛冶橋にあったが、 刃傷事件の後、赤穂浪士が吉良屋敷に討入るという噂があり、 周囲の大名屋敷から苦情が出て、 元禄十四年(1701)八月、 御用地として幕府に召し上げられ、 一時、子供の上杉弾正大弼の屋敷に身を寄せ、 その後、同年九月三日、ここ本所松坂町の松平登之助の屋敷を拝領し、 移り住んだ。 
江戸城近くの屋敷に比べれば、 赤穂浪士の討入りは格段と容易になったと世間でいわれました。 
ここにあった吉良家上屋敷は広大で、 東西七十三間(約134m)、南北三十四間(約63m)、 二千五百五十坪と記されている。  屋敷の表門は東側で、今の両国小学校に面した側にあり、 裏門は西側で、東、西、南の三方は周囲に長屋があり、 北側に本多孫太郎、土屋主税の屋敷と地続きになっていた。  建坪は、母家が三百八十一坪、長屋が四百二十六坪であった。 
現在の本所松阪町公園は二十九坪半で、当時の八十六分の一に過ぎない。 
昭和九年、地元両国三丁目町会有志が発起人になって、 邸内の吉良の首洗い井戸を中心に土地を購入し、 同年三月に東京市に寄付し、貴重な旧跡は維持された。 」 

ここには松坂稲荷が祀られている。 

「 徳川氏入国後、この近くに御竹蔵が置かれた。  その際、水門に兼春稲荷が鎮座された。  元禄十五年の赤穂浪士の討ち入り後、吉良邸跡の地所清めのため、 兼春稲荷を当地に遷座させた。  昭和十年に本所松阪町公園ができた時、 古くから当地に祀られていた上野稲荷を合祀し、現在地に祀られ、 松坂稲荷と改名した。 」

吉良家の遺跡を保存しようとするこれらの事実を知ると、 この地の人々は吉良家に同情的に思えた。 

本所松阪町公園
x 吉良上野介追善碑など x 松坂稲荷
本所松阪町公園
吉良上野介追善碑等
松坂稲荷



◎ 芥川龍之介の文学碑・勝海舟の生誕の地

松阪町公園を出て、両国小学校へ向う途中に、飯澄稲荷があった。 
両国小学校前には、芥川龍之介の「杜子春」の文学碑があった。

「 芥川龍之介は生後九ヶ月で、 生母の実家の本所小泉町(現両国三丁目)の芥川家に引き取られて育った。  芥川は府立第三中学校(現両国高校)に入学したが、驚くばかりの秀才で、 当時の制度として三月に卒業し、九月に第一高等学校乙類に入学した。  ところが、このあいだの明治四十三年八月に大雨が降り、 本所一帯が大水に見舞われた。  芥川家も江戸期からの屋敷が浸水で住めなくなったようで、 内藤新宿二丁目の新原家の持家に引越して、本所を離れた。  芥川は本所生まれらしく、大川(隅田川の別称)を愛していたようで、 内藤新宿に移ってからも、 月に二三度は大川の水を眺めにゆくことを忘れなかった、という。 」

芥川龍之介の文学碑の脇には錨があった。 
この錨は日露戦争(1904〜1905年)で活躍した日本海軍の駆逐艦・ 不知火のものである。 
その対面の両国公園には、「勝海舟生誕の地」の碑があった。 

「 勝海舟は勝子吉という四十一石取りの小普請の御家人の子で、 本所亀沢町に生まれた。  父子吉は男谷家から勝家に養子に入ったが、御家人といっても、 無役では生活がまずしかったようで、 男谷家から経済的な援助を受けていたようである。 」

司馬遼太郎の「 街道をゆく 三十六「本所深川散歩」の 「勝海舟と本所」の章には、 勝海舟の性格が気質的不平家と描かれている。 

司馬遼太郎は、「 海舟は出処進退にたんぱくなようにみえて、 立身への欲望の屈折したところがあった。 
(中 略)            
それまで幕臣として、旗本なのか御家人なのかよくわからないかれが、 艦長になることによって、一挙にお見得以上の資格を得る、 という計算があったことはたしかなように思えるのである。 」 と書き、 咸臨丸でアメリカへ行く案が採用されると、 素人に近い木村攝津守が船将に任命され、 自分は操船長の役に近い役でしかないことに不満をいだき、 出港しても船酔と称して操艦指揮をせず、 船長室のドアをとざして引きこもってしまった事例を挙げている。 

回向院に行くため、京葉道路(国道14号線)に出て、 両国橋へ向う道の南側に「本所松阪町跡」の石柱があった。

「 区画整理により、 昭和四年に町名廃止になったのを惜しんで建てられたもので、 現在は墨田区両国三丁目である。  」

道の反対側は、JRの両国駅である。 
回向院は、明暦三年(1657)に開創された浄土宗の寺院で、 両国二丁目交叉点の左手にある。 br

「回向院による説明文」
「 明暦三年(1657)、江戸で振袖火事として知られる明暦の大火があり、 市街地の六割以上が焼け、十万人以上の人命が奪われたが、その際、 身元や身寄りのわからない人々が多くでた。  四代将軍家綱は、無縁の人々の亡骸を手厚く葬るため、隅田川東岸の土地を与え、 万人塚という墳墓を設け、 遵誉上人に命じて、無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行なった。  このとき、お念仏を行じる御堂として建てられたのが回向院である。 」 

入口に「諸宗山回向院参道」の石柱があり、コンクリートなどで、 造られた門があった。
回向院は昭和二十年の空襲で焼失したため、古い建物は残っていない。

文学碑・杜子春
x 本所松阪町跡碑 x 回向院参道
芥川龍之介の文学碑・杜子春
「本所松阪町跡」碑
回向院参道と書かれた門



◎ 回向院境内

参道を歩くと、巨大な石に、「力塚」と刻まれた石碑がある。
この碑は、相撲関係者の霊を祀るため、 昭和十一年に建立されたもので、揮毫は徳川宗家十六代当主徳川家達である。 

「 勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは、 明和五年(1768)のことだが、天保四年(1833)からは春秋二回、 小屋掛けの興行がおこなわれ、 明治四十二年の旧両国国技館が完成するまでの七十六年間、 当院で露天での相撲興行が続いた。 」 

司馬遼太郎の「本所深川散歩」の回向院の章には、以下の記述がある。 

「 境内に入るとほどなく、 万霊供養霊場という古い碑があるのをみた。 
碑の側面に、明暦三年大火災殉難者十萬八千余人、ときざまれ、あわせて、 安政二年大震火災殉難者二萬五千余人とも刻まれている。 
江戸は災禍の街だったともいえる。 
さらには大正十二年の大震災の被災者の墓もあり、 この方は大震災横死者之墓とある。 
ほかに、浅間嶽大火震死者供養、信州・上州地変横死之諸霊魂、 また、勢州白子戎屋専吉船溺死者供養、・・・・   
ともかく、回向院は、明暦三年の大火以来、 この町が生み出すすべての無縁の死者が葬られるようになった。 
たとえば、洪水のために隅田川に漂う水死者も両国橋あたりで引きあげられて、 ここに葬られた。 牢死者も葬られた。 
ただし、死刑囚はこの本所回向院の別院である小塚原の回向院に葬られた。 
死刑囚でありながら、例外としてあるのが鼠小僧次郎吉の墓である。 
鼠小僧次郎吉は天保三年(1832)に小塚原の刑場で刑死し、 そこに無縁の者として葬られたが、やがてこの本所回向院にも墓ができた。  おそらく市井の人気によるものだったのだろう。 」 

屋根が架かった先にある墓が鼠小僧次郎吉の墓で、 墓石には戒名の「教覚速善居士、俗名 中村字良吉、没年の天保三年」 とある。 

「  鼠小僧は、大名屋敷から千両箱を盗み、 町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去った義賊といわれ、 その信仰は江戸時代より盛んで、 墓石を削りお守りに持つ風習が当時より行われていたようである。  墓石前に別の石があり、削るならこれをと書かれていたのは御愛嬌である。 」

今日は深川から両国界隈を、 すでに訪れている、両国国技館と江戸東京博物館を除いて、訪問したが、 なかなか中味のある旅だった。 

 

力 塚
x 明暦大火横死者供養塔等 x 鼠小僧次郎吉の墓
力 塚
明暦大火横死者供養塔等
鼠小僧次郎吉の墓



(行程)

 地下鉄門前仲町駅 → 富岡八幡宮・深川不動堂 → 清澄庭園・本誓寺・ 臨川寺、 → 霊巌寺・深川江戸資料館 
→ 芭蕉稲荷神社・芭蕉庵史跡展望公園・芭蕉記念館 →  江島杉山神社 →  一之橋 →  
塩原橋・前原伊助宅跡 →  吉良邸跡(本所松阪町公園) →  芥川龍之介文学碑(両国小学校) →  回向院 →  JR両国駅





(ご参考)司馬遼太郎の街道をゆく

司馬遼太郎は 「 街道をゆく三十六 本所深川散歩 」 で、 本所の吉良屋敷跡を訪れた際、感じたことを記している。 
本所の誕生について以下の記述がある。 

「 本所と深川が江戸化したのは江戸中期のことで、 そのきっかけは明暦の大火(通称ふりそで火事)である。 
この火事で江戸城の天守閣が焼け落ち、 当時隅田川に架かる橋は千住大橋しかなかったため、 川に阻まれたりして、江戸全体で十万七千人もの焼死者を出した。 
幕府はこの火事を教訓に、江戸城の周りの大名屋敷をとりのぞき、 また、都心の神社仏閣も三田や駒込、浅草などに移転させて、その後は空地(火除地)する対策をとった。 
これらの設定のため、替わりの屋敷地となったのが本所であるが、 そのためには橋を架けなければならず、 その時できたのが両国橋で、起工は大火の二年後の万治二年(1659)である。 
また、本所という低湿地から溜まり水を抜き、 満潮時や高潮による浸水から地面を守るために、 北十間川や大横川とか横十間川などの運河が開削された。 
このようにして出来た本所には元禄元年(1688)頃から移住が始まったが、 大名屋敷は津軽藩だけで、その他は大小の旗本屋敷で、 旗本、御家人といった直参の屋敷が二百四十家程であった。 」  

また、吉良上野介義央の経歴と性格を以下のように綴っている。 

「 吉良家は足利将軍家の名門だが、戦国時代には衰弱していた。  その家が三千二百石の旗本にとりたてられたのは家康の名家好きによるが、 幕府の儀典をつかさどる職についた。  義央は幕府の儀典をつかさどる職で千石加増され、高家筆頭の職になり、 大名家との縁組を進め、米沢の上杉家、薩摩島津家、酒井家と姻戚関係を結んだ。  かれは異常なほどに権門が好きで、その性格も傲岸だったらしい。  いやなやつだったが、悪人というほどではない。 」 

吉良上野介が本所に移った経緯については、
「 義央は鍛冶橋御門の屋敷でうまれ、 のち呉服橋御門の内に移ったのも、職掌がらというものだった。  元禄十四年(1701)に起きた殿中松の廊下の刃傷事件の当座は幕閣の一部から同情され、 とくに場所柄、刀に手をかけなかったのは神妙だったという評価もあった。  それに対し、浅野内匠頭に対する処分はその身は切腹、家は断絶というもので、 この不公平は世間の同情を浅野家に傾かせた。 
幕閣は義央に対して隠居届を出させたが、これは事件後、 五ヶ月も経ってからのことで、ひょっとすると、 幕閣の感情が義央に対して冷めたことを示すのではないか。  その上、屋敷を本所に移させたのである。 
この頃には浅野家の遺臣が復讐するのではないかということがささやかれはじめたころで、 大手御門も近いところで、襲撃事件が起きると幕閣の責任が重大なものになる。  幕閣はそうして目に遭いたくないために、新開地の本所へやったのではないか。  同時に、討たれやすくしたのではないか。 」 

と書いていて、 この頃には幕府関係者にもそのうわさは届いていたことを窺わせる記述である。 

また、討ち入り成功の陰には 
「 幕府の要路の人やかれらの周辺のひとびとに暗黙裏に支援する気分があったからに相違なかった。 」
 とし、それがなければ、偽名を使っていたとはいえ、あれだけの人数が江戸に潜入し、幕吏に気つかれずにすむとは思えないと推理している。 
確かに、前原伊助や神埼与五郎は吉良家の近くの本所二ッ目に住み、 杉野十平次は本所三ッ目横町で町道場を開き、 堀部安兵衛も本所林町五丁目で剣術道場を開いている。 

司馬遼太郎は 「 吉良家の碑でおかしいのは、亡き人々の名を刻んだあと、 「犠牲者となられた家臣」 という表現を使っているが、 吉良方を武士としてあつかうなら、この場合、簡潔に、「闘死した」 と書かれるほうがかれらの名誉のためにふさわしい。 」  と書いて、この稿を結んでいる。 


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