平成二十一年(2009)四月二十四日。 深川から両国まで歩いたが、
両国駅に着くと亀戸天神で藤の花が咲いていると聞いたので、
訪れることにする。
両国駅から亀戸駅までJRで行き、明治通りを通り、
蔵前橋通りに出るのが普通だが、両国からぶらぶらと歩いていくことにした。
最初は京葉道路を歩いたが、緑2丁目交差点で左折し、
総武線のガードをくぐって、亀沢二丁目に出て、東に向う。
亀沢四丁目交差点で、三つ目通りを横断する。
道脇の街路灯に、「町歩き北斎ギャラリー」 の表示がある。
葛飾北斎は、江戸本所割下水(現在の亀沢) の生まれである。
両国と錦糸町を結んだこの通りは、「北斎通り」と名付けられて、
街路灯や公園のトイレで、多くの葛飾北斎の作品を紹介していた。
司馬遼太郎は 「 街道をゆく 三十六 本所深川散歩 」 の中で、
「 江戸のよさの一つは、地名がいいことである。
響きがよかったり、また意味に趣きがあったりする。
本所割下水という地名もいい。 土木的呼称がそのまま夏の蚊の羽音から、
満潮時のかすかな潮の香まで感じさせて、風趣がある。
江戸時代、本所割下水の両岸には木柵が施されていたという。
本所が市街化される前は、田畑のための用水路だったが、
下水道として改良されたもので、南北にあり、幅は二間だったとようで、
北割下水には三つの橋が架かり、
両岸のほとんどは大小の旗本屋敷で、大名屋敷は一つだけ、津軽屋敷があった。
割下水は、大正十二年(1923)の関東大震災後に地下排水路になってしまった。 」 と書いている。
司馬遼太郎は 地名に響きがあるという指摘をしているが、
物事に鈍感な小生にはそうした機微は感じられないのは残念である。
少しの間、歩くと、左側に津軽稲荷神社がある。
江戸に「津軽」 の名は奇妙に思えたが、説明板を読み、納得した。
説明板「津軽稲荷神社」
「 弘前藩主・津軽四郎為信十万石の下屋敷にあったので、津軽稲荷という。
敷地一万坪は明治四十三年の大水害と共に町会に払い下げられ、
町会のものになり、錦糸一丁目の守護神となった。
町民の信仰厚く、大正12年の関東大震災及昭和20年の戦災の為焼失したが、
昭和35年に拝殿や社務所を再建した。 」
津軽稲荷社の手前の交叉点の北方には、大横川親水公園がある。
業平橋が架かっていた南北六キロ余の大横川は暗渠化されたが、
その一部を公園として残したものである。
右側に錦糸町駅が見えてきた。
両国からここまで約二キロの距離である。
もっと短いと思っていたのだが・・・
左側には錦糸町公園があるが、これはけっこう長く広い。
境内に千種稲荷(ちぐさいなり)が祀られていた。
「 徳川四代将軍・家綱の時代に治水工事が行われたが、 その頃、柳島村の守護神として祭られた、と伝えられる稲荷である。 」
そこを過ぎると、川に架かる橋が見えてきた。
川の名は横十間川で、そこに架かる橋は錦糸橋である。
ここまでが墨田区錦糸四丁目である。
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橋を渡ると江東区亀戸二丁目になる。
「 亀戸は、昔、「亀ノ島」といい、江戸湾にある一島だった。
やがて亀村と呼ばれ、村の湧水から亀井戸村になり、
江戸時代に現在の名前になったようである。 」
文泉公園前の三叉路を過ぎ、次の交差点を左折して、
北上すると亀戸天神通りの交差点に出た。
それを越えて左折し、次の交差点を右折して進むと、
「亀戸天神東門入口」 の看板があるところに出た。
両国からここまで三キロ半だったが、この道は遠回りで、
錦糸町公園で北に斜めに進み、天神橋を渡れば、三キロほどで来られるようである。
東門入口から入ると、社殿の横に出た。 正面にまわり、参拝をする。
「亀戸天神社の由来」
「 正保三年(1646)、太宰府天満宮の神官・菅原大鳥居信祐(菅原道真の末裔)が、
神のお告げにより、境内にある飛び梅の枝で天神像を刻み、
天神信仰を広めるため、社殿建立の志をもち、諸国を巡り歩かれた。
寛文元年(1661)、江戸本所亀戸村にたどり着き、
村に元々あった天神の小さな祠に、
道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが亀戸天神の始まりで、
菅原大鳥居信祐が亀戸天神社初代別当である。
明暦の大火後の復興を目指す江戸幕府は、
開発事業の地を本所の町とさだめていたため、
四代将軍、徳川家綱はその鎮守神として祀るよう、現在の社地を寄進した。
翌寛文二年、太宰天満宮と同じ地形、建物も同じ形として、
社殿、楼門、回廊、心字池、太鼓橋などが造営された。
江戸時代には東宰府天満宮、あるいは亀戸宰府天満宮、
本所宰府天満宮などと、呼ばれていたが、
明治六年(1873) に明治政府により、東京府社 亀戸神社 となり、
昭和十一年(1936) から現在の亀戸天神社となった。 」
菅原道真を祀る神社であることから、学問の神様とされる。
菅原道真は、梅の花を特に好み、多くの和歌を詠んでいることにちなみ、
境内には、二百本を越す梅が植えられている。
また、五歳の道真公の像が建てられていて、台座には五歳の時詠まれたという
「 美しや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくぞある 」
という歌が刻まれていた。
天満宮と関係が深い鳥はうそである。
神社の神事として1月24・25日にうそ替え神事が行われる。
神社によると、
「 うそは幸運を招く鳥とされ、
毎年新しいうそ鳥に替えるとこれまでの悪い事がうそとなると信じられ、
江戸時代には、多くの人が集まりうそ鳥を交換する習わしがあったが、
現在は神社にお納めして、新しいうそ鳥と取替えるようになった。 」 という。
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亀戸天神社が賑わうのは藤まつりである。
神社によると、
「 江戸時代の亀戸は湿地帯だったので、
初代宮司が水を好む藤を社前に植えたところ、
江戸の名所として多くの浮世絵などに描かれたといい、
五代将軍綱吉や八代将軍吉宗が訪れた記録がある 」 という。
境内には百株以上の藤があり、見事に咲いていた。
房の長さはそれ程長くないが、東京一と言われる藤だけに優雅で可憐である。
夜には点燈され、心字池に映る藤の姿とただよう淡い香りは幽玄の世界に導くとあったので、機会があれば夜に訪れたいと思った。
池の脇には雪見燈籠が建ち、太鼓橋がある。
周りには、露天の店が軒を連ねて、客を呼んでいた。
社殿で御参りしている時には、参拝客の数はそれほど感じなかったが、
露天の周りには多くいたので、これを目的に来ている人も多いのでは、と思った。
亀戸天神社の周囲には普門院や香取神社などの神社仏閣があり、 七福神巡りが約一時間半程で出来るが、時間がないのであきらめた。
鳥居を出て直進し、大通りを渡ると、葛餅の船橋屋があった。
船橋屋は文化二年(1805)の創業というから二百年以上の歴史がある老舗である。
「 関西の葛餅は吉野葛を使ったものだが、
船橋屋は小麦でんぷんを十五ヶ月熟成させ、一つ一つ丁寧に蒸しあげたもので、
賞味期間はたった二日である。
家内は東京子のせいか、この葛餅が好きで、子供の頃から親しんでいるせいか、
冷やした船橋屋の葛餅を好んで食べる。
今日の土産はこれにした。 」
小生は暑いので、特製アイスを食べ、しばし休憩した後、
バスでJR亀戸駅へ行き、帰宅の途に着いた。
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