東 京 散 歩

「 旧東海道・品川宿を散歩する 」

貴方は  かうんたぁ。 目のゲストです!!



平成十九年(2007) 八月十六日、 慶長六年(1601)に徳川幕府が東海道の開設と同時に開設された品川宿を歩いた。 

「  第一京浜国道は旧東海道に沿って続いているが、 旧東海道は京浜急行の線路の東側にある北品川商店街の細い道で、 品川宿の入口に一番近いのは京浜急行北品川駅である。   」

◎ 歩行新宿(かちしんじゅく)

北品川駅の先の道の左側に「品川宿八ッ山口」 と刻まれた道標があった。
北品川商店街は、宿場町を意識した町作りを行っていて、 品川宿を題材にした浮世絵を店のシャッターにしている店もあった。 

「 品川宿が開設された当初は、 北品川宿と南品川宿の二つの町で宿場業務を分担していたが、享保七年(1722)、 北品川宿の北側に茶屋町として発達した歩行新宿(かちしんじゅく)を加え、 三つの町で品川宿になった。 」

左側の菊すし総本店の角には、「問答河岸跡」と刻まれた石碑が建っている。

説明板「問答河岸跡」
「 江戸時代には、この先の海辺に船着場があったが、 三代将軍・徳川家光が品川の東海寺を訪れた帰路、船着場の近くまで来たとき、 付添ってきた住職の沢庵和尚に、 「  海近くして、如何が是れ  東(遠)海寺  」  と、戯れを言ったところ、 沢庵和尚は、 「 大軍を指揮しても 将軍(小軍)というが如し  」  と答えた、 という話が残っている。 」

江戸時代、海だったところは埋めたてられて、ビルなどの建物が建ち並んでいる。 
少し先左側の「ROYALGARDEN SHINAGAWA 」 というマンションの前には、 「歩行新宿 土蔵相模跡」 と書かれた石柱が建っている。

京急北品川駅
x 問答河岸跡道標 x 歩行新宿 土蔵相模跡の標柱
京急北品川駅
問答河岸跡道標
「歩行新宿 土蔵相模跡」の標柱


歩行新宿はこの周辺で、この場所には「相模屋」という旅籠があったという。

「マンション前の説明板」
「 相模屋は海鼠壁の土蔵家なので、土蔵相模と呼ばれた。  文久弐年(1862)十二月十二日、 高杉晋作や久坂玄瑞らは品川御殿山に建設中の英国公使館を焼き討ちしたが、 計画を密議したのが相模屋である。 」

右側の小路角には、大横町の説明板があった。 

「 大横町は東海道から御殿山への横町に付けられた名称で、 他の横町に比べて広かったことからつけられたといわれるが、 正確なことは判っていません。 かっての御殿山通りの起点がこの横町です。 」

左側の店のシャーターに御殿山の桜が描かれていた。

「 御殿山の地名は、家康の御殿が建てられたことに由来し、 八代将軍吉宗が桜を植えさせたことから、 飛鳥山と共に江戸の花見の名所になったが、 現在の御殿山は国道建設などで見る影もない姿に変ってしまっている。  」

道の右側の山門をくぐると、善福寺の本堂があった。

「 江戸時代には参拝客が多く、門前町があったと聞く寺院だが、 今にも朽ち果てそうな本堂を見ると、とても想像することはできない。  しかし、本堂上部の漆喰壁に描かれている龍の絵は、 幕末から明治初期に活躍した名左官・伊豆長八による鏝絵(こてえ)であることを 考えると、納得できた。 」

相模屋跡の説明板
x 御殿山の桜 x 善福寺本堂
説明板「相模屋跡」
御殿山の桜
善福寺本堂



◎ 利田神社・品川神社

この先の交差点を左折し、海側に向かうと、三叉路の道を越えた先に、 利田神社(かがたじんじゃ) がある。

「 沢庵和尚が、寛永三年(1626)、 旧目黒川の河口の洲崎に弁才天を祀ったことから始まると伝えられる神社で、 洲崎弁天とも呼ばれ、浮世絵師安藤広重の名所江戸百景にも描かれている。  明治の神社統合により、他の神社が合祀され、現在の社名になった時、 祭神も弁才天から市杆島姫命に代わったようである。 」

境内に 「鯨塚」 の説明板がある。

説明板「鯨 塚」
「 寛政十年(1798)五月一日、 品川沖に迷い込んだ大鯨を捕らえたという噂が江戸中に拡がり、 将軍家斉までが上覧するほどの騒ぎになった。  その鯨の骨を埋めたのが鯨塚である。 」 

その隣に、当時の俳人・谷素外が詠んだ句が刻まれた、 富士山のような形をした自然石の碑が建っていた。
        「 江戸に鳴る 冥加やたかし なつ鯨 」
これらを見ていると、迷い込んだ鯨を捕らえたことが江戸中の人気をさらい、 その骨を埋めた様子が伝わってきた。 

街道に戻り、北品川商店街を進む。 
国道367号と交差する手前にある交差点を右折し、第一京浜国道を渡ると、品川神社がある。

「 品川神社は、後鳥羽天皇御世の文治三年(1187)、 源頼朝が海上交通安全と祈願成就の守護神として、 安房国の洲崎明神の天比理乃命(あめのひりのめのみこと)を勧請して創建した神社である。  鎌倉時代から品川の鎮守として知られた由緒ある神社で、 江戸時代には品川大明神と称し、北品川宿の守り神(産土社)であった。  明治に入り、現在の名・品川神社に改めた。 」

利田神社社殿
x 鯨塚 x 品川神社
利田神社社殿
鯨塚(谷素外句碑)
品川神社


鳥居が二つあり、右側の鳥居をくぐった先の坂は緩やかな坂で女坂と呼ばれる。 
一方、左側の石鳥居をくぐる参道は男坂で、急な石段である。 

「 石段下の石の鳥居は、 堀田正盛が慶安元年(1648)に寄進したもので、 左右に昇り竜と下り竜が彫刻されている。 」

鳥居の左側にある大黒天像は東海七福神の一つである。 
石段を上って行くと、途中の左側に鳥居があるが、これは冨士講のもので、 何合目と表示があり、頂上を富士山と見立てたものである。 
この参道を上って行くと、冨士浅間神社の社殿がある。
江戸時代にはこのあたりから冨士が拝めたようであるが、今や首都東京から富士山を見るのは至難の業である。 
その奥には品川神社の鳥居があり、 その先に網袋をかぶせられた備前焼の狛犬があった。
狛犬の陶器製は全国的でも珍しいのではないだろうか? 

鳥居
x 冨士浅間神社 x 備前焼の狛犬
昇り竜と下り竜の鳥居
冨士浅間神社
備前焼の狛犬



◎ 板垣退助夫婦の墓

社殿でお参りを済ませると、神社の裏側に行く。  ここには板垣退助夫婦の墓があった。 
墓の奥の大きな自然石に、 「 板垣死すとも、自由は死せず 」   と刻まれた、自由民主党総裁・佐藤栄作書の石碑が建っていた。

「 ここは高源院があった場所である。 
高源院は、久留米二十一万石の四代藩主・有馬頼元が開基で、 京都の大徳寺法主を退いた越前浅井氏の子孫を招いて建立したという寺である。  寺は明治二十一年に無住となり、昭和十一年に世田谷区烏山寺町に移転したが、 明治時代に自由民権運動に活躍した板垣退助夫婦の墓は残った。 」 

品川神社の石段下まで戻り、右折して第一京浜国道を南下し、 東海禅寺を目指す。
道の左手には京急の新馬場駅が見えた。  
北品川2丁目交差点を右折し、山手通り(環状6号)を歩いて行くと、 左側に「東海禅寺」の標柱が建っていた。

「 東海禅寺(東海寺)は、臨済宗京都紫野大徳寺の末寺で、 三代将軍家光が沢庵和尚のために与えた土地に創建された寺である。  家光が、寛永十四年(1637)、沢庵和尚を江戸に定住するため与えた土地は、 四万七千六百坪余りもあり、生前は沢庵屋敷になっていたが、 沢庵没後の正保弐年(1645)に東海寺になった。 
幕府は塔頭や山門や本堂などの大伽藍を建て、寺領に五百石が与えられ、 上野寛永寺、芝増上寺と並ぶ大寺になった。 
しかし、明治維新になると、寺領と将軍家や大名家の支援で維持されてきた寺は、 その財政基盤が失い、またたく間に衰退した。 」

板垣退助夫婦の墓
x 自由民権の碑 x 東海禅寺標柱
板垣退助と夫人の墓
自由民権の碑
東海禅寺標柱



◎ 東海寺・東海寺大山墓地

現在の東海寺は、旧塔頭の玄性院が寺号を引継いだもので、 境内も旧玄性院の境内のみである。
仏殿は昭和五年(1930)に造られたものである。

東海寺を出て、沢庵和尚の墓を目指す。 
東海禅寺の標柱を出ると左折し、山手通りを西に向う。 
右に小中学校を見てカーブを下り、 JRのガードをくぐったところで線路沿いに右折し、 少し行くと「東海寺大山墓地」の看板がある。 
この間、二百メートル程だが、墓地の入口の細い道を上って行くと、 囲いの中に自然石を重ねただけの質素な墓があった。 
これが沢庵和尚の墓である。

「 江戸時代の東海寺は、品川神社の南方一帯全てが敷地で、 東海寺からこの大山墓地へ地続きで行けたが、 今は東海道線と山手線とに挟まれた三角地帯にかろうじて残っているだけである。 」

鉄道線路に沿って品川駅方面に少し歩くと、鳥居があり、 その先には、江戸時代の著名な国学者・加茂真淵の墓があった。

東海寺仏堂
x 沢庵和尚の墓 x 加茂真淵の墓
東海寺仏堂
沢庵和尚の墓
加茂真淵の墓



◎ 北品川宿 稼穡稲荷社・荏原神社

山手通りを戻り、北品川二丁目交差点の先で新馬場駅の高架をくぐると、 品川図書館がある。 
手前の右側の路地を入ると、 大きなイチョウの木の下に、 赤い鳥居の小さな稼穡稲荷社(かしょくいなりしゃ)があった。
ご神木のイチョウは、幹周り4.1m、高さ23mの巨木で、 樹齢五百年〜六百年といわれる。 

目黒川沿いに歩いて行くと、樹木が茂るところに出たが、 駐車場になっている先には、社殿が見えたので、 ぐるーと周り、正面に出ると、「荏原神社」 の石柱と鳥居があり、 その奥に社殿があった 。

「 荏原神社は、江戸時代、南品川宿の鎮守(産土社)だった。  大正以前は目黒川の南にあったのだが、昭和の目黒川河川改修により、 川の北側になり、地名表示も北品川二丁目に替ってしまった。 」

南品川の鎮守としての荏原神社が北品川にあるのは少し変に思っていたが、 現地に来てみて、その謎が解けた。 
神社の少し前には、なぜか恵比寿様が祀られていた。 

荏原神社を出て東海道を右折し、少し行くと国道357号線(環六)と交差する。
このあたりは、江戸時代の北品川宿の南端である。 
交差点を左折して、東品川方面に向うと、左側に聖蹟公園がある。 

「 聖蹟公園は江戸時代の品川宿の本陣跡である。  明治元年(1868)に、明治天皇が行幸の際休憩されたことから、 聖蹟公園と名付けられた。  本陣と脇本陣は、北品川宿と南品川宿に一軒づつあったが、 南品川宿の本陣は、かなり早い時期に経営不振で無くなり、 その後はここだけになった。 」

稼穡稲荷社の大公孫樹
x 荏原神社 x 聖蹟公園
稼穡稲荷社の大公孫樹
荏原神社
聖蹟公園



◎ 聖蹟公園・寄木神社

聖蹟公園には、御聖蹟のモニュメントや本陣跡の案内板などがあったが、 歌川広重の「東都名所 御殿山花見 品川全図」 のタイル絵があった。
沖に白帆の舟が浮かび、手前の御殿山では花見の客、 その間に品川宿の家並みが描かれている。 

公園を出て、海側に向う。 
その先の交差点を越え、右側二つ目の細道を入り、百メートル程歩くと、 「寄木神社」という小さな社(やしろ)がある。 

「 日本武尊と弟橘媛の乗っていた船がこの沖で難破した時、 その船材と媛の持物の一部がここに流れ着いたので、 弟橘媛を祀って建てたのが始めと、 伝わる神社である。 」

本殿正面奥の二枚扉の内面にある絵は、 幕末から明治にかけて活躍した左官の名工・ 伊豆の長八(本名入江長八)の手による天孫降臨をテーマにした漆喰こて絵で、 向って左扉の上方に天照大神、下方に天鈿女命を描いている。 
なお、右扉は猿田彦命である。 
境内が薄暗く、内部には入れないので、ガラス戸越しに見たわけだが、 乱反射して、良く見えなかったのは残念だった。 
龍の彫り物もなかなかの出来に思えた。

歌川広重のタイル絵
x 寄木神社 x 龍の彫り物
東都名所 御殿山花見 品川全図
寄木神社
龍の彫り物



◎ 南品川宿

街道まで戻り、目黒川に架かる品川橋のほとりに立つ。

「 江戸時代には、目黒川に板橋が架けられていて、 北品川宿と南品川宿の境になっていた。 
江戸時代の絵図では、 目黒川手前の右側に高札場があったように描かれているが、その跡は確認できなかった。 
脇本陣は、歩行新宿の「善福寺付近」と、 目黒川を越えた左側に「百足屋」 があったが、これらも残っていない。 」

橋を渡ると、南品川商店街の街路灯が連なり、「品川宿」の文字が見える。

「 東海道名所図会には、 「 品川の駅は東都の喉口(のどぐち)にして、常に賑わしく、旅舎軒端をつらね、酒旗(さかや)、肉肆(さかなや)、 海荘(はまざしき)をしつらえ、客を止め、 賓を迎えて、糸竹(しちく)の音、今様の歌艶(なまめか)しく、渚には漁家多く、 肴わかつ声々、沖にはあごと唱うる海士の呼び声おとずれて、 風景足らずということなし。 ここは東海道五十三次の館駅の首たるところなるべし。 」  と、あるが、 東京大空襲で、十万人の罹災者を出した現在の品川に、 そうした風情を求めるのは酷だろう。 」

品川沖は海苔の養殖が盛んで、山本山や大森海苔店など、 海苔問屋を育んできたが、昭和に入り海の汚染が進み、 海苔生産は出来なくなった。 
街道を歩いていて、海苔屋を見つけ、今もあるのだと少しほっとした。

品川橋
x 南品川商店街 x 海苔店
品川橋
南品川商店街
乾海苔問屋



◎ 妙蓮寺・海蔵寺

南品川郵便局の先の信号交差点を右折し、 京急のガードをくぐったところの右側に、妙蓮寺の山門があるので、 山門を入ると、コンクリートのモダンな本堂があった。

「 由井正雪が幕府転覆を図った事件の片棒を担いて、 鈴ヶ森刑場で処刑された丸橋忠弥の首が妙蓮寺の門前に転がっていたので、 住職が憐れんで供養塔を建てたという話が残るので訪れたのだが、 供養塔は見つけられなかった。 」

寺を出て、南品川4丁目の交差点で、第一京浜国道を横断する。 
道の左側には 「時宗海蔵寺」 の標柱があり、 その反対には 「江戸時代無縁塚首塚、関東大震災横死供養塔」 と書かれた石碑が建っていた。

「  海蔵寺は、品川宿で亡くなった娼妓の死体が投げ入れられたので、「投込寺」とも呼ばれた寺である。 
品川溜牢(牢屋)で亡くなった人の遺骨を集めて、宝永五年(1708)に築かれた塚に、 天保の大飢饉で亡くなった死者塚も合祀され、 品川宿娼妓の大位牌や鈴が森刑場処刑者の首が一部葬られ、総称を「首塚」と呼んでいる。 
その後も、災害などで亡くなった無縁の横死者を埋葬してきたが、 その霊を供養するため、 慶応元年(1865)に津波溺死者供養塔、大正四年(1915)に京浜鉄道轢死者供養塔、そして、昭和七年(1932)に関東大震災横死者供養塔などの慰霊碑が建立された。 」

妙蓮寺
x 海蔵寺 x 京浜鉄道轢死者供養塔
妙蓮寺
海蔵寺
京浜鉄道轢死者供養塔



◎ 長徳寺・天妙国寺

東海道に戻り、南に向かって進むと、右側に常行寺がある。 

「 江戸時代には、 その手前の左側に、南品川宿の問屋があったようだが、 その跡は確認できなかった。 」

その先右側の長徳寺の前に、「御料所傍示杭」が立っていて、 ここまでが南品川宿だったという。 
長徳寺を過ぎたあたりからマンションや、店舗付きアパートが増えてきた。 
道の右側にある天妙国寺は、弘安八年(1285)に日蓮の直弟子・天目上人が開基したと伝えられ、徳川家康から寄進地を受け、伽藍も立派で、 天妙国寺から南は門前町を形成していたという。 
現在は本堂と山門だけで、境内ばかり広く感じた。
墓地には、明治の浪曲師・桃中軒雲右衛門、江戸初期の剣客で、 一刀流の開祖・伊藤一刀斎、鳶頭のお祭り佐七などの墓がある。 
通りはいつの間にか、青物横丁商店街に変わっていた。 
右側の諏方(諏訪)神社の先の信号交差点を右折すると、 京浜急行の青物横丁駅である。 

今回の東海道品川宿の探訪は古い建物はなかったが、 沢庵和尚の故事や品川沖に現れた鯨の話などを知り、けっこう楽しかった。 

 

長徳寺
x 天妙国寺山門
長徳寺
天妙国寺山門



(行程)

 京浜急行北品川駅 → 問答河岸跡 → 歩行新宿 土蔵相模跡 → 善福寺 → 利田神社 → 冨士浅間神社
  → 品川神社 →  板垣退助夫婦の墓 →  東海寺 →  大山墓地 → 荏原神社 → 聖蹟公園  
  →  寄木神社 → 妙蓮寺 → 海蔵寺  → 天妙国寺  →  京浜急行青物横丁駅



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