東 京 散 歩

「 青物横丁から京急蒲田駅まで 」

貴方は  かうんたぁ。 目のゲストです!!



平成十九年(2007) 十月十五日、 京急青物横丁駅から京急蒲田駅まで旧東海道を探しながら歩いた。 

◎ 品川寺・海雲寺

京浜急行青物横丁駅で降りて、駅の東側に行くと、青物横丁の交差点がある。 
「青物横丁」 の地名は、江戸時代に近郊の農家から野菜類(青物)を運ばれてきて、 市場が開かれたことから付いた、といわれる。

「  旧東海道が南北に通る青物横丁交差点は、 池上街道(現在の池上通り?)との追分(分岐点)で、 大井町駅付近を経て、八景坂から新井宿、そして、池上に至る、 池上本門寺への参詣道だった。 」

青物横丁交差点から少し歩くと、右側に品川寺(ほんせんじ)の山門がある。 
品川寺は、大同年間(806〜810)に弘法大師・空海が開山したと伝えられる、 品川で最も古いお寺である。 

「品川寺の由来」
「 弘法大師は、東日本での布教の際、この地の領主、品河(しなかわ)氏に 水月観音(すいげつかんのん)を授けた。  品河氏が滅びた後は、地元の人達の手で観音堂に祀られてきた。 
長禄元年(1457)、江戸城を築いた太田道灌は、この地に伽藍を建立し、 水月観音と自分の持仏の聖観音を安置し、 金華山普門院大円寺(きんかざん・ふもんいん・だいえんじ) という名の寺院を創建した。 
永禄九年(1566)、武田信玄が北条氏政を攻めたとき、 北条氏の支配下にあった品川一帯は焼き払われ、この寺も焼失したが、 水月観音は信玄軍により奪われて無事だった。  水月観音はその後、この地に戻され、草堂で祀られていたが、 承応年間(1652〜1654)に、弘尊上人により伽藍が建てられ、 名も品川寺と改められて、品川観音として信仰を集めるようになった。 」  

門前の常夜燈は常夜燈を下から亀が支えるデザインになっていた。
山門を入った左側には、宝永五年(1708)建立の大きな地蔵菩薩が祀られていた。 

「 この地蔵像は、 江戸に出入りする六街道に安置された江戸六地蔵の一つである。 
他には、中山道の巣鴨の眞性寺、奥州街道では東浅草二丁目の東禅寺、 甲州街道では新宿の太宗寺、 水戸街道では江東区白河の霊巌寺に現在も残っている。  第六番の地蔵尊は、千葉街道の永代寺にあったのだが、明治の廃仏毀釈により、 取り壊されたため現存しないが、 台東区上野桜木の浄明院に代仏がある。 」

寺を出て南に向かうと、道の右側に海雲寺がある。
境内には「平蔵地蔵」と呼ばれる地蔵尊が祀られている。

「 昔、鈴ヶ森刑場の番人をしていた乞食(非人)が三人いたが、 そのひとりの平蔵が財布を拾い、持ち主を探して財布を返したが、 礼金は受け取らなかった。  これを知った残りの二人の乞食はこれを怒り、平蔵を小屋から追い出して、 凍死させてしまった。  財布を返してもらった仙台藩士はこれを知り、平蔵の遺体を引き取り、 供養するために地蔵を造った。  平蔵地蔵は、以前は東海道にあったが、 道路の拡張で取り除かれるのを寺の住職がこの話を後世に伝えたいと、 この寺に移した。 」 

亀の台座の常夜燈
x 品川六地蔵 x 海雲寺と平蔵地蔵
亀の台座の常夜燈
品川六地蔵
海雲寺と平蔵地蔵



◎ 力石・海晏寺・御林八幡宮

常夜燈の前に、「力石」と刻まれた石があった。
この石で力競べをしていたのだ。 

説明板「力石」
「 当時は、この門前近くに漁師や親船から積荷を小舟に移す、 沖取りという沖仲止がいて、この石を何回持ち上げられるかなどを競っていた。 
力尽きて放りだし、大地に落ちたときのドスンという鈍い音は、 騒音のなかった当時、静かさを破る心地よい響きだった。 」

百メートル先の横町には、海晏寺への道標が建っているので、 道を右折して進むと、第一京浜国道に出る。 
国道を渡った先に、鎌倉時代に北条時頼が創建した海晏寺(かいあん)がある。

「  昔は東海道のあたり一帯が境内だったという大きな寺だったが、 今は小さくなっていた。 
寺の本尊は、鮫洲の海でとれた大きなサメの腹から出てきた、 と伝えられる聖観音像である。 」

寺の右手奥には、幕末に活躍した松平春嶽の墓所がある。 

「  松平春嶽は、文政十一年(1828)、田安斉匡(なりまさ)の八男として、 江戸で生まれ、その後、 越前松平家の養子になり、福井藩第十六代目の藩主になった。  幕末の動乱期だったが、開国の必要性を説き、岩倉具視らと計り、 薩摩、長州と維新を進めた人物である。 」

寺には、岩倉具視、由利公正などの明治の元勲の墓があり、 北条時頼、北条時宗などの供養塔も残っている。 
道標まで戻り、東海道を南下すると、東大井1丁目である。 

「 昔の大井村、御林町(おはやしまち)で、 俗に、鮫頭(さめづ)と呼ばれたところである。 
江戸時代には漁村で、 将軍家に新鮮な魚介類を献上する御菜肴八ヶ浦の一つになっていた。 」

交差点の左手は鮫洲公園だが、交差点を右折して京急の鮫洲駅方面に向かい、 ミニストップで左折して進むと、 右側に「御林八幡宮」と称せられていた八幡神社がある。

「説明板」
「 品川沖でとれた鮫の腹から聖観音像が出てきて、 これを本尊にしたのが海晏寺で、鮫の頭を祀ったのがこの神社であると、 伝えられている。  祭神は誉田別尊、気長足姫尊祀などで、創祀の時期ははっきりしないが、 寛文年間(1661〜1672)の御林町誕生のころと思われ、 村の鎮守社として祀られてきた。 
社殿は、昭和四十七年(1972)に建直されているが、 その前の狛犬は、町内猟師中と彫られた漁師の寄進によるもので、 嘉永弐年(1849)に造立、常夜燈は、安政三年(1856)に造られている。 」 

左側の池の中には、弁天社(厳島神社)と水神社(漁呉玉神社)があり、 池のほとりに、出世稲荷神社と浅間大神が祀られていた。 

力石
x 海晏寺 x 八幡神社
力 石
海晏寺
八幡神社



◎ 立会川 浜川橋(涙橋)・鈴ヶ森刑場跡

東海道の道に戻り、八百メートル程歩くと、地名は立会川に変わった。 
その先の川が立会川で、川には浜川橋が架かっている。

橋のたもとの「説明板」
「 立会川が海に注ぐこのあたりの地名から名付けられた橋で、 またの名を涙橋という。
この先には、慶安四年(1651)、仕置き場(鈴ヶ森刑場)が設けられ、 処刑される罪人は裸馬に乗せられて、江戸から護送されてきた。  その時、親族らはひそかに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら、 別れたことから、涙橋とも呼ばれた。 
橋が架けられたのは、家康が江戸入府の慶長五年(1600)頃と思われ、 現在の橋は、昭和九年(1934)に架け替えられた 」

立会川を渡ると、右奥に天祖(諏訪)神社がある。
そこから五百メートル先の右側にある幼稚園のビルは神社とおもえないが、 浜川神社である。 
少し歩くと、これも、寺とは思えない建物の大経寺があった。
大経寺から第一京浜に合流するあたり一帯は、江戸時代の鈴ヶ森刑場跡である。 
三角形の土地に、火焙りや磔に使用した台石、首洗い井戸などが残されている。

「 仕置き場として設置された鈴ヶ森刑場は、 明治三年(1870)に廃止されるまでに、 丸橋忠弥、八百屋お七、白井権八、ねずみ小僧、天一坊などが処刑された。  敷地面積は、間口四十間(74m)、奥行九間(16.2m)で、 人通りが多い東海道街道沿いに置かれたのは、みせしめのためといわれる。 」

浜川橋
x 大経寺 x 獄門台
浜川橋(涙橋)
大経寺
獄門台



◎ 品川水族館

また、多くの供養塔が建っていたが、 その中で特に大きい供養塔は「髭題目碑」といわれるものである。

「 京都の谷口法悦という日蓮宗徒が、 京都から江戸北方の千住にかけての刑場に、受刑者供養のために建てた供養塔の一つで、「南無妙法蓮華経」の文字が、日蓮宗独特の髭文字で書かれている。 」

江戸時代の鈴ヶ森は、東海道沿いにあるとはいえ、 刑場があるため人通りは少なく追剥がでる程の淋しいところだったようである。 

そのまま進むと、第一京浜に合流してしまう。 
この場所は首都高の高い施設が見え、 第一京浜には多くの自動車が走っていて騒がしい。 
青物横丁からの道が東海道の歴史を残した佇まいだったので、 現代に引き戻されたという感じがした。 
それに追い打ちをかけるのが、国道の左手にある品川水族館である。
気が付くと小生もイルカショーを見ていた。

「 品川水族館は、南北に続くしながわ区民公園の一角にある。  しながわ区民公園には、水を引き入れた日本庭園もあるが、 その先に東京湾の生き物の展示し、 イルカやアシカなどのショーが行なわれる水族館がある。 」

水族館へ併設されているドルフィンというレストランでは、 品川丼(980円)というメニューがある。 

「 かってはこのあたりの大森海岸で、 あさりやのりやあなごがとれた。  品川丼はその三品が丼に入っていたが、のりはここの産とは思えないので、 ネーミングには多少無理があるように思えた。  」

水族館前の第一京浜を歩くと、右手に京急大森海岸駅。 

「 大森海岸は海苔の産地で、 山本山や大森海苔店など東京の海苔問屋は昔は大森産の海苔を扱っていたが、 海岸が埋め立てられて、海苔が消えて久しい。  それでも、大森駅付近には、 江戸湾で取れたキスなどの魚を出す江戸前天ぷらの店は残っている。 」

髭題目碑
x イルカショー x 品川丼
髭題目碑
イルカショー
品川丼



◎ 梅屋敷公園

東海道は平和島口交差点を越えたところで、 国道に平行して左に入る一方通行の細い道として残っている。 
東海道の石標が建てられているがそれを除くと、 「美原商店街」 というごくありふれた商店街に変貌している。 
右側にある 「美原不動尊」 と刻まれた門柱のあるお寺は、 真言宗醍醐派の美原不動院である。 

「 美原は、昔の地名が南原、中原、北原だったことから、 三原と呼ばれていたが、いつの頃か、 美原になったようである。 」

環七を越えると、美原通り交差点があり、その先も商店街が続いている。 
橋を渡ると大森警察署前交差点に出て、第一京浜と合流するが、 この間は九百メートル程である。 

「 交差点を左折する道は産業道路で、 京急空港線の大鳥居駅のある交差点を経て、大師橋に到る。  
  なお、大鳥居は 昭和二十年までは現在の羽田空港にあった穴守稲荷神社のものである。 」

東海道だった道は第一京浜国道になってしまい、 この先の川崎宿までの間は残っていない。 
八百メートル程先には京急梅屋敷駅があるが、 その名前を付けた梅屋敷駅入口交差点の先の右側に、 「梅屋敷公園」 と書かれた門があり、  門の前には 「明治天皇行在所梅屋敷」 の石柱が建っている。

「 ここは東海道の道筋に面し、 「蒲田の梅屋敷」として有名だったところで、広重の浮世絵にも描かれている。 
山本久三郎が、 江戸時代の道中常備薬であった和中散を販売するために販売所を開いたが、 文政年間に梅を始めとする多くの木を植え、茶屋を開いたことが起源とされる。  明治天皇はたいへん気に入り、しばしば訪れたというところで、 第二次世界大戦までは残っていたようである。 」

当時の里程標が復元され、 「 距日本橋三里十八丁 蒲田村 山本屋 」 と、 書かれていた以外は、梅屋敷を感じさせるものは残念ながらなかった。  
少し歩くと東蒲田二丁目交差点で、その先で夫婦橋を渡る。 
その先にある京急蒲田駅は、高架化工事中。 
その先にある国道を横切る踏切は、 京急蒲田駅から羽田飛行場まで行く羽田空港線で、 正月の箱根駅伝のテレビ中継でしばしば登場する踏切である。
工事が終わると、羽田空港線も高架化されるので、踏切もなくなり、 正月の風物詩の一つが消える。 
(注) 京急羽田線の立体交差は終了し、成田からの特急などが開設され、 大変便利になっていて、当時の姿を感じさせるものは残っていない。

以上で、今回の散歩は終了である。
青物横丁という江戸の市場から始まって、鈴ヶ森刑場の跡を確認し、 イルカショーという現代にも触れた今回の散歩は、 江戸の言い伝えが多く残り、おもしろかった。 

梅屋敷公園
x 京急蒲田踏切
梅屋敷公園
京急蒲田踏切




(行程)

 京浜急行青物横丁駅 → 品川寺 → 海雲寺 → 海晏寺 → 鮫洲八幡神社 → 浜川橋(涙橋)
  → 浜川神社 → 大経寺 → 鈴ヶ森刑場跡 → 品川水族館 → 京急大森海岸駅 → 美原不動尊  
  →  梅屋敷公園 → 京浜急行蒲田駅 



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