東 京 散 歩

「 実篤公園とげげげの天神通り(続き) 」




平成二十二年(2010)十一月二十三日、前回は時間がなくて、 訪れられなかった神代植物園とゲゲの女房に登場した深大寺を訪問した。

◎ 神代植物園

調布駅で神代植物園入口経由の吉祥市駅行きに乗り、神代植物園入口バス停で降り、 神代植物園正門に向かった。
なお、神代植物園と深大寺に行くバスは吉祥寺駅から三鷹駅からもバスは出ている。  

「 このバス停は神代植物園と深大寺の中間にあるので、 どちらに行くにも五百メートル程歩かなければならない。 
それに対し、深大寺行きで行くと寺までは数分で行けるし、寺の境内を抜けると、 神代植物園の深大寺門があるので、  こちらのバスに乗った方がよいことが着いてから分った。 」

神代植物園は東京の街路樹などを育てるための苗圃だったところで、 戦後に神代緑地として公開された後、 昭和三十六年に都立の植物公園として開園されたという歴史を持つ。
 (月曜日と年末年始は休み、500円)

「 しばしば訪れている名古屋の東山植物園と比較すると、 敷地も狭く、種類や植物の説明や手入れ状況もかなりの差があるように思えた。  とはいえ、武蔵野の風景が消えつつある中で、 園内に林が残されているのは良いことだなあと思った。 」

神代植物園にはバラ園と広い温室があり、また、菊の品評会が行われていた。 
それらを一通り観賞してから、深大寺を訪れた。 
深大寺門を出ると「玉乃屋」と「松葉茶屋」という蕎麦屋があり、 客引きに熱心だった。 
このあたりの紅葉は見頃を迎えていた。

神代植物園正門 x 雑木林 x 玉乃屋
神代植物園 正門
神代植物園 雑木林
玉乃屋



◎ 深大寺

深大寺には裏から入ったことになるが、その先に開山堂があった。 
深大寺は、国分寺崖線の斜面に抱かれる形で建っていて、 隣接する神代植物公園もかっては寺領だった。 

「 深大寺は、正式には 浮岳山昌楽院深大寺 という寺院である。  天平五年(733)に 満功(まんくう)上人により、法相宗の寺院として開基された。  貞観年間(860年頃)  比叡山の高僧・恵亮和尚(大楽大師)により、天台宗に改宗し、 現在は天台宗別格本山になっている。 」

開山堂は上記二人の祖師を祀るものだが、昭和五十八年の建立というから新しいが、 奈良時代の様式で建てられている。

「深大寺縁起」 には、次のように記されていた。 
『 慈恵大師は比叡山解脱谷において、能救世間苦の大願を起こされ、 自らの像を刻まれ、  「 武蔵深大寺は代々の勅願所なり、此の影像を安置し、国運を守り、 東国の群生を化益し給わん 」 ことを願われた、と伝えられ、 正暦二年(991)に、寛印により、遥か叡岳より深大寺に遷座されました。  大師さまは自刻像によせて、 国家の守護と東国の人々の安寧を深大寺に託されたのです。 』  

その脇には、師弟句碑があり、その奥に

 「 吹き起こる秋風鶴を歩ましむ 波郷 」 と   「 草や木や十一月の深大寺 麥丘人 」 

の句碑があった。 
波郷は石田波郷、麥丘人は星野麥丘人である。 

その隣にある小さな社は白山社である。 

「  新編武蔵国風土記稿や江戸名所図会には、 境内に天満宮、稲荷社、山王二十一社などが描かれている。  この白山社は明治十八年に白山、稲荷、山王の三神を合祀して、 再建されたものである。 」

石段を下ると元三大師堂があったが、 ここは佐野の厄除け大師などと同じ元三大師を祀るお堂である。
当日は七五三参りの家族連れの姿が目立った。 

「 元三大師とは、 荒廃した比叡山の諸堂の復興などに多大の功績を上げた第十八代天台座主・ 慈恵大師良源(じえだいし りょうげん)である。 
比叡山中興の祖として崇められる慈恵大師は正月三日に入滅したことから、 元三大師(がんざんだいし)と呼称が付いた。
生前は人並みはずれた霊力により、数々の奇跡を起したことから、 さまざまな説話が生まれ、比叡全山に大師像が祀られるようになった。 」

石段を降りた左側に、石柱の道標がある。 

「 この道標は甲州街道の滝坂上にあったが、 東京オリンピックの道路拡張により、ここに移転された。  道標には 「 是より大師尊参詣道 石原宿迄五丁近 」 と刻まれている。  江戸時代、元三大師に御参りする旅人は、甲州街道から北に曲がり、 現三鷹市境を経て、青渭神社前を通り、ここに至ったのである。 」

石段の左手にあるのが本堂で、 本尊の鎌倉時代前期の作といわれる阿弥陀如来像が安置されている。

「  慶応元年(1865)に深大寺の諸堂は山門と常香楼を除いて全て焼失したが、 仏像などは難を免れた。 
その再興途上に明治維新を迎えたこともあり、 本堂が再建されたのは大正十一年(1922)の秋のことである。 
元三大師堂は慶応三年にいち早く再建されているが、 厄除け大師として信仰の厚かったことによるのか? 
その差の違いを感じる。 」

開山堂 x 元三大師堂 x 深大寺本堂
深大寺 開山堂
元三大師堂
深大寺 本堂


石段の南方にある山門は薬医門で、本柱の後方に控え柱を立て、 その上方に女梁と男梁をかけ、切妻屋根を乗せた門である。  この門は元禄八年(1695)に信者千人の寄進により普請されたもので、 深大寺に残る最古の建物である。 

正岡子規は、 「 山門に 雲をふき込む 若葉かな 」 と詠んでいる。

山門の手前にある鐘楼には永和二年(1376)に山城守宗光鋳造した梵鐘があり、 都内では三番目に古いもので、国の重要文化財になっている。 

山門を出ると、きれいな水が流れていて、 その先に参道には多くのそば屋とお土産屋がある。
出てすぐのところにあるのは、深大寺そばの元祖・嶋田屋である。

「 嶋田家は文久年間の創業で、現在は五代目で、 コシの強いそばを作るため、そばをさらす水は湧水にこだわっているという。  店内に入り、天ざる(1300円)を食べたが、更科系の白く細いそばで、 コシがありおいしかった。 
四十年前に深大寺を訪れた頃はこれだけの店はなかったと思うし、 その時食べたのはかけそばだったと記憶している。 
当時は今のように年中もりそばを食べなかったように思った。 」

嶋田家の西北にある釈迦堂には、 明治四十二年に大師堂檀下から見つけられた白鳳時代の白鳳仏が祀られている。 

その西には水源湧水地がある。
湧水池の近くには芭蕉句碑が建っていた。 

「  深大寺は武蔵野台地が国分寺崖線として高低差を付けているところで、 この湧水を中心に古代民が生活を始めたといわれる。 
深大寺は水神を祀る鎮守社深沙堂が起源といわれ、 その神を祀る深沙大王堂は大師堂に匹敵する大きさがあったが、 明治の廃仏希釈によりそのお堂は破壊されてしまった。 
現在のお堂は昭和四十三年(1968)に再建されたものであるが、 小さなお堂になってしまった。 」

深大寺山門 x 元祖嶋田屋 x 水源湧水地
深大寺 山門(薬医門)
元祖嶋田屋
水源湧水地



◎ 水生植物園・深大寺城址

この後、南西にある神代植物園水生植物園へ行ったが、 ここの水源はここかもしれないと思った。 
水生植物園は無料だったが、この時期は花が咲いているものもないので、 観賞のしようもなかった。

仕方がないので左手の木が繁る小高い山を上っていくと、 「都史跡深大寺城址」 の石柱が建っていた。

「 深大寺城は、南方を野川を利用した水濠、 西方を除いた三方を沼地とし、 西方に空濠を三段に構え、三郭、二郭、主郭を配した直線連郭式城郭である。 」

石柱の右側には「第一郭跡」の説明板があった。

説明板
「 この第一郭は江戸時代の城の本丸に当たる郭で、その構造は良く残っており、 周りに見える土塁と右に見える空掘は外敵を防ぐ施設でした。  深大寺城は半島状台地の先端に位置しており、 当時は南(左方向)が一望できる場所でした。  」 

右にすすむと、「土橋・空掘」の説明板があった。

説明板
「  この土橋は空掘を第一郭と第二郭を結ぶ通路に使われていた土手を復元したものです。  当時の空掘はもっと深く急傾斜であり、土橋も今より幅が狭いものでした。 」

その先の芝生広場は第二郭があったところである。 

「 深大寺城が築かれた時期は不明だが、 武蔵七党の狛江氏の築城と伝えられている。  戦国時代に入ると、天文六年(1527)に扇谷上杉朝定がこの城を整備するが、 北條氏綱は上杉朝定のいる河越城に進撃して 打ち破ったので、朝定は松山城に逃げ、この城は廃城になった。  その後、北條氏が武蔵国一帯を支配したが、この城は使われなかったようである。 」

以上で深大寺周辺の散策は終えたので、バスで調布駅に戻り、 帰宅の途についたが、かって訪れた深大寺の静けさはなく、周りは住宅地であり、 深大寺も俗化されていたのには驚いた。 

水生植物園 x 深大寺城址石柱 x 土橋と空掘
水生植物園
「深大寺城址」石柱
復元した土橋と空掘



(行程)

四谷区民会館 → 追分交叉点 → 西新宿 → 京王新宿駅 → 京王仙川駅  → 実篤公園 → 
滝坂 → 京王つつじヶ丘駅 → 京王布田駅 → 常性寺  → 天神通り商店街 → 布多天神社 
 →  調布銀座 → 小島一里塚跡→ 京王調布駅  
京王調布駅 → 神代植物園 → 深大寺 → 京王調布駅

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