東 京 散 歩

「 神田・本郷界隈(続き) 」




◎ 旧白山通り 大円寺・白山神社

国道17号が「旧白山通り」と呼ばれるのは、 左手に白山通りが出来たからであるが、 国道を北に進むと白山一丁目の右に入る三叉路がある。 
その道に入ると、「禅宗 曹洞宗 大円寺」 「ほうろく地蔵尊」と彫られた石柱があり、 「金龍山」の扁額がある山門がある。
この寺は 「金龍山 大円寺」 という曹洞宗の寺院で、 本尊は聖観世音菩薩である。 
山門を入った正面にあるのが「ほうろく地蔵」である。

説明板「ほうろく地蔵」
「 ”八百屋お七”にちなむ地蔵尊。 天和二年(1682)に起きた天和の大火の後、 恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、 火あぶりの刑を受けた”お七”を供養するために建立された地蔵様である。 
寺の由来書によると、お七の罪業を救うために、 熱した焙烙(素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、 自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。  享保四年(1719)に、お七供養のために、 渡辺九兵衛という人が寄進したといわれる。 
その後、この地蔵様は、頭痛、眼病、耳や鼻の病など、 首から上の病気を治す霊験あらたかな地蔵様として有名になった。 
お七が天和の大火の時に避難し、墓もある円乗寺はすぐ近くにある。 
  平成元年三月  東京都文京区教育委員会    」

道の反対側にある墓地の奥には、 国の史跡に指定されている高島秋帆(たかしま しゅうはん)の墓がある。

「 高島秋帆は、寛政10年〜慶応二年(1798〜1866)  通称四郎太夫 名は茂敦、秋帆は号。 
長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれ、 自らオランダ語や洋式砲術を学んで高島流砲術を完成させたという人である。  幕府方の江川等に砲術を伝授していたが、鳥居耀蔵の讒訴により投獄された。  ペルー来航とともに許されて、安政四年(1857)、 富士見御宝蔵兼講式所砲術師範役を命ぜられ、 幕府の砲術訓練の指導に尽力した。 
高島平の地名は、武州徳丸ヶ原(現在の板橋区高島平)で、 日本初となる洋式砲術の公開演練を行なったことから付いたのである。 」

左側から白山通りが合流してくる五差路は白山上交差点であるが、 「白山」 という地名は白山神社に由来する。 
交差点を左折して、坂を下り、マグドナルドの先を右折して進むと、 白山神社があった。 

「 白山神社は、天暦年間(947〜957)に、 加賀一宮白山神社を本郷1丁目の地に勧請した、と伝えられる古社で、 元和年間(1615〜1624)に、二代将軍秀忠の命により、 巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移されたが、 明暦元年(1655)、五代将軍綱吉が松平綱吉と名乗り、館林藩主だったとき、 屋敷を造営するため立ち退きになり、 現在地に移ったという、歴史が残る。 
こうした縁から、綱吉と生母・桂昌院から、 厚い帰依を受けたといわれる神社である。 」

大円寺 x 高島秋帆の墓 x 白山神社
大円寺 ほうろく地蔵尊
高島秋帆の墓
白山神社



◎ 本念寺(大田蜀山人の墓)・円乗寺(八百屋お七の墓)・駒込土物店跡

神社の先にある白山通りを越えて、 幸楽園別館の右手にある小道を上っていくと日蓮宗の本念寺がある。 
裏の小さな墓地の中央に、、壬戌紀行の著者の大田南畝こと大田蜀山人の墓がある。

説明板「大田南畝の墓」
「 南畝の生まれは牛込御徒町で、終焉の地は神田駿河台である。  生年寛延2年〜没年文政6年(1749〜1823)。  17歳で幕府に出仕以後、能吏として活躍。  一方、19歳で「寝惚れ先生文集」を著し、文名を高め、 以来多くの作品にみられる軽妙、 洒脱な筆法によって町人文学の中心的存在となった。  さらに、狂歌の流行をみるに及び、 彼の狂歌号「蜀山人(四方赤良)」の名声が高まった。  本寺に眠る南畝の墓碑は 「南畝大田先生之墓」 とあるのみである。  彼は、一時、小日向金剛寺坂付近に住み、 文京区にゆかりが深い文化人であるだけでなく、 狂歌界にあって指導的役割を果たした文人として価値ある史跡である。 
 「 生き過ぎて  七十五年くいつぶし  限り知らぬ天地の恩   」 (辞世)
   日蓮宗  信弘山本念寺   
  平成13年3月   文京区教育委員会     」 

この後、八百屋お七で有名な円乗寺に向かう。 
先程の道を戻って、白山通りに出て、右折して坂を下ると白山下交差点にでる。 
交叉点を左折して、白山通りを渡ると先程の坂の下に出るが、 右側の吉本ビルの脇を入ると、 左側に、 「 八百屋お七・・・ 」 と、刻まれた大きな石碑、 その脇に、「円乗寺」の石柱が建っている。 

左側には 「南無八百屋お七地蔵尊」 の赤い幟がひらめくお堂があった。 

「 参道から門をくぐって中に入ると、 正面にあるのが江戸三十三観音札所第十一番の円乗寺で、 御本尊は聖観世音菩薩である。 」

左側の小さな建物の中央にあるのが、八百屋お七の墓である。 

「 墓はかなり削られて、彫られた字が見えなくなっていた。 
今は覆い屋根があり、墓碑のまわりに柵がつくられて保護されているが、 以前は露出していたから、縁起をかつぐ人々が、石をかいて持ち去った、 と思われる。 
右側には、寛政五年(1793)、初代岩井半四郎が建立した百十二回忌供養塔があり、 「妙栄禅定尼」の戒名が刻まれていた。 
左側は、昭和二十五年に、町内有志が二百七十回忌に建てた供養塔だが、 「 天和三年(1683)三月二十九日寂 」 と刻まれていた。 」

白山上交差点まで戻ると、 交叉点を渡った右側の小田原屋の脇にある細い一方通行の道を北東に行くと、 駒本小学校前の交叉点に出る。 
左側の天栄寺の前には、「江戸三大青物市場遺蹟」 、 「白鳥神社誌」、 「駒込土物店跡」 と刻まれた三つの石碑が建っている。

傍らの文京区教育委員会の説明板「駒込土物店跡」
「 神田、千住と共に、江戸三大市場の一つで、幕府の御用市場だった。  起源は、元和年間(1615-34)頃だろうといわれている。  初めは近郷の農民が野菜をかついで、江戸に出る途中、 天栄寺の境内のさいかちの木の下で、毎朝休むことを例とした。  すると付近の人々が野菜を求めて、集まったのは起こりといわれる。  土地の人々は駒込辻のやっちゃ場と呼んで親しんだ。  土のついたままの野菜である土物が取引されたので、土物店ともいわれた。  正式名称は駒込青物市場で、昭和四年(1929)に駒込青果市場と改称した。  昭和十二年(1937)豊島区へ移転して、巣鴨の豊島青果市場となって、現在に至る。 」

大田蜀山人の墓 x 八百屋お七の墓 x 三つの石碑
大田蜀山人の墓
八百屋お七の墓
三つの石碑



◎ 駒込吉祥寺 (吉三お七比翼塚)

交叉点の南北の道は、東大で別れた本郷通りである。 
そのまま北に進むと、右側に「諏訪山 吉祥寺」という大きな石柱があり、 山門の前には説明板がある。

説明板「曹洞宗 諏訪山吉祥寺」
「 、長禄二年(1458)、太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から、 「吉祥」の金印が発見したので、 城内(現在の和田倉門内)に一宇(いちう)を設け、 「吉祥寺と称したのがはじまりという。  天正19年(1591)に、現在の水道橋付近に移った。  現在の水道橋付近にあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。  明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、 現在地に七堂伽藍を建立して移転、大寺院となった。  僧侶の養成機関として栴檀林(せんだんりん・駒沢大学の前身)をもち、 一千余名の学僧が学び、当時の幕府の昌平坂学問所と並び称された。 
「 古い堂楼 」
 山 門 享和2年(1802)再建、江戸後期の特色を示す。
 経 堂 文化元年(1804)再建、栴檀林の図書収蔵庫。文京区指定文化財。 
「 墓所 」
  二宮尊徳(江戸末期の農政家)              (墓地内左手)
  鳥居耀蔵(江戸南町奉行)                (墓地内左手)
  榎本武揚(江戸末期の幕臣、明治時代の政治家)      (墓地内右手)
  川上眉山(小説家)                  (墓地内右手)
            文京区教育委員会                      」

門の上には、「栴檀林」 の扁額が掲げられていた。
また、この付近の地図と本駒込三丁目の地図があり、 「旧駒込吉祥寺町」 の説明板があった。

説明板「旧駒込吉祥寺町」
「 むかしは駒込村の農地であった。  江戸時代初期に、越後村上城主堀丹後守の下屋敷となった。 
明暦3年(1657)の振袖火事(明暦の大火)後 、水道橋(もと吉祥寺橋)の北側にあった吉祥寺が移ってきた。 
そして岩槻街道(日光将軍御成道)に沿って門前町屋が開かれた。  延享2年(1745)から町奉行支配となった。 
明治2年、吉祥寺門前町と吉祥寺境内の全域を併せて、駒込吉祥寺町とした。 
江戸時代、吉祥寺には栴檀林(せんだんりん)といって、曹洞宗の学問所があった。
  学寮・寮舎をもって常時1,000人余の学僧がいた(現在の駒沢大学に発展)。
  二宮尊徳、榎本武揚、鳥居耀蔵や川上眉山らの墓がある。 
  文 京 区 」

境内には「吉三 お七 比翼塚」があった。  この碑は昭和四十一年(1966)に建立された。 

「 本郷の八百屋の娘・お七は天和二年(1682)の大火の際、 駒込の吉祥寺に避難したが、その寺で寺小姓の吉三郎と恋に落ちる。  本郷に戻ったお七は吉三郎が忘れられず、もう一度火事になったら、 吉三郎に逢えると、翌年の一月、新築した自宅に火を放ってしまう。  不憫に思った奉行が十五かと訊ねても、お七は十六と答えたと伝わり、 同年三月、江戸引き回しの上、鈴ヶ森で火あぶり刑となった。 」

これが、八百屋お七の物語である。

「  異説は多く、相手の名前も避難先も小石川の円乗寺とか正仙院などあり、 吉三郎は放火をそそのかしたならず者で、本当の恋人の佐兵衛はその後、 武蔵坊という僧侶になり、江戸六地蔵を建立したという説がある。 
目黒の大円寺には、 吉三郎が西運 という僧侶になり、 菩提を弔ったお七地蔵尊(ほうろく地蔵尊)がある。  」

駒込吉祥寺 x 山門 x 吉三 お七 比翼塚
駒込吉祥寺
「栴檀林」の扁額がある山門
吉三 お七 比翼塚



◎ 茗荷稲荷・六義園

近くに茗荷稲荷があった。

「駒込吉祥寺 茗荷稲荷縁起」
「 吉祥寺は明暦の大火の際 府内よりこの地に移り、 家康公ゆかりの毘沙門天堂脇の庚申塚に茗荷権現あり、 寛文年間厄病まんえんの折祈願の人絶えず、特に痔病の根治に霊験ありとされ、 茗荷を断って心願する者多し。  去る戦災に諸堂焼失せるるも昭和二十八年、この地に再建、 堂裏にある茗荷権現碑は 下総国府台八十右ヱ門なる者が文久年間建立したものなり。 
   駒込吉祥寺                      」

本郷通りを北上すると、右手に駒込富士神社がある。 

「 富士塚を神体とした神社で、最初は富士浅間神社といい、 本郷にあったが、そこは加賀藩下屋敷となったため、 寛永年間(1624-44)に、この地に移転し、駒込富士となった。 」

その先の上富士前交叉点で不忍通りと交叉するが、 直進すると左側に六義園(りくぎえん)がある。 
中に入るため、左側の一方通行の道に入り、少し歩くと右側に受付があったので、 お金を払って中に入ると正面の中の島にある築山、妹山、 背山とせきれい石が見えてきた。 

「 都立六義園は、 江戸時代の老中柳沢吉保が、将軍綱吉から与えられた別邸内に築庭したもので、 国の名勝に指定されている。  吉保は約十万平方メートルの平坦な土地に土を盛って丘を築き、 千川上水を引いて池を掘り、 七年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を作りだした。  左に、臥竜石と蓬莱島がある庭園で、 土を盛ってつくった藤代峠と呼ばれる丘からは、 庭全体が眺望できるようになっていて、 専門家には高い評価のある庭園である。 」

藤代峠に上ってみると、紅葉した樹木が眼下に見え 、庭園が一望できる景観である。 
江戸時代には周囲に高いものがなく、 上るだけでも開放感が感じられたのではないだろうか? 
残念なのはその先に高層ビルが目に入ってしまうことである。 
そういう意味では、江戸情緒に浸ることは出来ないが、紅葉の雰囲気を味わい、 茶屋で一服することができる都心では数少ないところで、 この景観は後世に残したいものである。 
池の周りをぐるりと回り終えると、公園の見学はいちおう終了したので、 不忍通りに出て、道を右折し、駒込警察や文京グリーンコートの前を通ると、 千石一丁目交差点に出た。 
左右の通りは白山通り(国道17号)なので、右折してJR巣鴨駅まで歩き、 今日の探訪は終了した。 

今日歩いたコースは、一つ一つが中味が濃く、 訪れる価値に高いものだったので、 機会があればもっと丹念に見たいと思った。 

茗荷稲荷 x 六義園庭園 x 六義園庭園
茗荷稲荷
六義園庭園
藤代峠から見た庭園



(行程)

JR神田駅 → 昌平橋 → 湯島聖堂 → 本郷通り(旧中山道) → 神田神社 隨神門  → 同 拝殿 → 
本郷通り → 東京医科歯科大学 → 本郷三丁目交差点(かねやす) → 麟祥院  → 湯島天満宮 
→ 東京大学(赤門、安田講堂、三四郎池)  →  弥生式土器発掘之地記念碑 → 弥生二丁目遺蹟 
→ 追分一里塚跡 → 大円寺 → 白山神社 → 本念寺 → 円乗寺 →  天栄寺 → 吉祥寺 →  
六義園 → JR巣鴨駅

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