今回は散歩というより、法事の合間に見て歩いた南馬込にある長遠寺の話である。
大田区が策定した新大田区百景の一つに南馬込五丁目2番10号の長遠寺(ちょうおんじ)がある。
家内の実家の菩提寺なので、結婚してから四十年以上墓参りに訪れる寺院であるが、
訪れる度に整備され、最近ではこの寺を目的に訪れる人が増えている。
長遠寺は真言宗智山派の寺で、正式名称は海岳山長遠寺だが、
御府内八十八ヶ所霊場、玉川八十八ヶ所霊場として、
「馬込不動」とも呼ばれている。
寺伝によると、
「 天仁元年(1108)に宥尊によって創建された。
当初は、馬込村字堂寺にあったが、
建武年間(1334-38) に兵火のより、堂宇を失い衰えた。
文亀二年(1502)に、現在地に移転し、
元禄年間(1688〜1703)に堂宇が整えられた。
現在の本堂は 文久元年(1861) に宥円が再建したものである。
明治初年までは隣接する馬込八幡神社など、十二社の別当を勤め、
東大井の来福寺など、九ヶ寺を末寺とする醍醐寺三宝院の江戸の中心寺院だった。
大田区指定文化財の木造十一面観音菩薩立像は、
もとは目黒行人坂にあった長遠寺の末寺の光雲寺の本尊だった。
明治初年に光雲寺が廃寺となったため、長遠寺に移された。
神亀元年(724)に、行基菩薩が信州の戸隠山において鎌で彫った、
と伝えられるところから、 鎌作観世音 と称される。
観音菩薩立像は非公開のようであるが、小生は法事で利用しているので、
これまでに御姿を拝見している。」
注目するのは入口にある、庚申堂中央の青面金剛像である。
「 右手に大きめのショケラをぶら下げているのが珍しいが、
いつから祀られているのかは分からない。
右側のは「寛政元年」の年号と頭部だけがかろうじて残っていたが、
それ以外の部分は剥落している。
左のは原形を留めていなかったが、どちらも青面金剛像なのだろう。 」
山門を入るとしだれ桜があるが、花の時期にきたことがないので、
どのような花が咲くかは分からないが、訪れる度に樹木は成長している。
玄関を上がったところには、赤綱駕籠がガラスケースに入れられて、
陳列されている。
寺の格式が高かったので、江戸時代の住職が駕籠を利用することができたという。
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しだれ桜 |
境内に江戸時代の石仏群がある。
天保年間や万治年間のものがあり、子安地蔵・観音像など、いろいろあった。
それらを一体づつ拝見していくと、「青面金剛像」と思える石碑を見付けた。
下に三猿が彫られているので間違いはないだろうが、
作られたのはいつごろだろうか?
続いて、馬込八幡神社を訪れる。
入口の庚申塔が祀られているお堂まで戻り、
右に行くと馬込八幡神社の入口がある。
境内に入ると、「馬込八幡神社の由来」 が書かれた看板がある。
「 時は鎌倉時代の建久四年(1193)、 馬込の松原(現在の北馬込二丁目付近) にいた源頼朝の家臣・渡辺対馬守正久が、 京都石清水八幡宮の分霊を勧請し、翌年の秋に遷宮を行ったといわれています。 その後荒廃したものを江戸時代の文化十三年(1816)、 馬込村の名主だった高山幸右衛門らが再興して、馬込全域の総鎮守となりました。 」
典型的な八幡造りの社殿は、
昭和三十六年(1961)に再建された鉄筋コンクリート造で、
祭神の品陀和気命>(ほんだわけのみこと) が祀られている。
社殿の左側には九月に行われる例大祭で使用される神楽殿、
その左には稲荷神社、御霊社、氷川神社、三峯神社の末社がある。
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馬込八幡神社入口 |
長遠寺へはJR大森駅西口よりバスで荏原町駅入口行で長遠寺前下車が一番楽だが、五反田駅前から川崎駅行で、
南馬込で降りて数分歩くと到着できる。
又、都営地下鉄馬込駅下車で、徒歩約10分