青春時代の楽しみの一つは浅草の花屋敷や松竹のSKDのラインダンスや歌謡ショーなどが行われていたロックといわれる地区への訪問だった。
それから半世紀が経ち、最近は神社仏閣を訪れることが多くなった。
すると、当時は気が付かなかった駒形と浅草の関係がわかった。
平成二十三年(2011)四月二十九日、
名古屋から昼過ぎの新幹線で上京した。
東京での宿は気楽に泊まれる東横インと決めているので、
浅草に近い、東横イン・浅草蔵前雷門(旧浅草駒形)にした。
到着したのは十六時だったので、夕飯には早い。
家族はホテルで休憩するというので、一人で浅草寺まで歩いていくことにした。
◎ 諏訪神社・駒形どぜう
ホテルは江戸通りの厩橋交叉点から駒形一丁目の手前にあるので、
ホテルをでると江戸通りを北東に向かう。
すぐ左側に、鎌倉時代にはすでにあったという古い神社・諏訪神社があった。
説明板「諏訪神社の由緒」
「 はっきりしたことは分らないが、口伝によると後冷泉天皇の御世といわれ、
又、一説には承久の乱(1221)の後、信濃国諏訪郡小日村の神主が、
諏訪大社の分霊を当地に奉斉したともいわれています。
鎌倉幕府は箱根権現、伊豆山権現と三島大社と共に、
諏訪大社に特別の尊崇をいだいていた。
それは、諏訪大社の大祝家が源頼朝の旗上げに最初から協力し、
祈祷の効を積んだからと云われています。
当社の別当寺は、浅草寺の十二衆徒の一院であった修善院である。 」
その先の駒形二丁目交叉点の左角にはバンダイ本社があり、
街路にアンパンマンやウルトラマンなどのキャラクターが展示されていた。
駒形二丁目交叉点を渡ると、江戸時代から続く 「駒形どぜう」 の店舗がある。
「 感謝。 創業二百十年 」 と書かれた大きな看板が隣の建物にあった。
また、「江戸文化道場」の看板も見えるが、
隔月一回江戸文化の講座が開催されるものである。
「 駒形どぜうは、
徳川十一代将軍家斉の時代、享和元年(1801)の創業である。
初代越後屋助七は十八歳の時、江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開いた。
駒形は浅草寺にお参りする参詣ルート上にあり、
翌年には浅草寺のご開帳が行われたので、店は大勢のお客様で繁盛したといわれる。
文化三年(1806)、江戸の大火によって店が類焼した際、
「どぢやう」 の四文字では縁起が悪いと、
当時の有名な看板書きに、奇数文字の 「どぜう」 と書いてもらったのが、
現在ののれんの文字という。 」
ここの自慢料理は何といっても 「 どぜう鍋 」 である。
周りにあかりが灯るころになると、
一杯飲みながらどぜうなべを食べる人々が集まってくる。
泥臭くなく、骨も感じないまでに煮込んであるので食感はフワフワ。
たっぷりネギをのせフーフー食べれば江戸時代にタイムスリップする。
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◎ 駒形橋・駒形堂
駒形橋西詰交叉点の右手には駒形橋が架かっている。
「 駒形橋は、昭和二年(1927) に隅田川に架けられた橋で、 橋名は橋の西詰にある駒形堂による。 関東大震災の前までは 駒形の渡し により、対岸に人馬は運ばれていたが、 大震災の復興計画により、橋に替えられたのである。 」
交叉点を渡った右側にある建物は 「浅草観音示現の地」 と表示がある、駒形堂である。
浅草寺が建てた説明板 「駒形堂」
「 駒形堂は浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩さまがおよそ千四百年前、
隅田川よりご示現なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。
昔、このあたりは船着き場で、渡しや船宿もあり、大変な賑わいをみせ、
船で浅草寺参詣に訪れた人は、まずこの地に上陸して、
駒形堂をお参りして、観音堂に向かった。
駒形堂は、川に面して東向きに建てられたが、何度か焼失し、
寛保二年(1742) に再建された時に、現在のように、川を背にして西向きに建てられた。
現在のお堂は、平成十五年(2003)に再建されたものである。 」
境内にある大きな石碑は、「戒殺碑」 と呼ばれるものである。
東京都が建てた説明板 「戒殺碑(かいさつひ)」
「 総高一八三・五センチ。
元禄五年(1693) 浅草寺本尊が垂迹して霊地として、駒形堂の地を中心に、
南は諏訪町より北は聖天岸にいたる一〇町余の川筋を魚介殺生禁断の地にした。
このことを記念し、元禄六年三月、
浅草寺第四世 宣存が 願主となり建立したものである。
駒形堂はしばしば焼失し、戒殺碑もいずれかの火災に際し倒壊しており、
宝暦九年(1759) 堂宇の再建に伴い再建された、といわれる。
現在の碑は、昭和二年(1927)に土中より発見、同八年に修補再建したもので、
当初のものか再建されたものかははっきりしない。 」
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◎ 浅草むぎとろ・吾妻橋・東京スカイツリー
駒形堂の先には、浅草むぎとろ のビルがある。
この店には今から七年前の平成十六年六月に家内と一緒に訪れたが、
店の看板料理は、むぎとろ飯である。
その時食べたのは
小生はむぎとろセット(小鉢、香の物、味噌汁付き) 、
家内はむぎとろそばセット(小鉢・むぎとろ茶そば)
をおいしくいただきました (両方とも平日 1,570円)。
「むぎとろ誕生秘話」
「
これを考案したのは昭和初期にこの店を始めた中島太蔵である。
当時青果会社に勤めていた中島太蔵は今までの知識、
経験を生かせる食材を求め、日本中を歩き回った結果、
秋田の民家でげんこつ芋をすりおろし、
それを麦飯にかけただけの山村ならではの素朴な味に出逢った。
こぶしのような形の芋をすりおろすと他の芋に比べ、粘りが非常に強く、
味わい深いものでした。
太蔵は帰京後、 秋田からそのげんこつ芋を取り寄せ、
駒形橋のたもとに、
十数名で一杯になる一杯飯屋を出したのがこの店の始まりという。
」
今日は店の前を素通りして、浅草寺に向かった。
少し歩くと吾妻橋の交叉点がある。
正面には地下鉄の浅草駅があり、右手には吾妻橋がある。
「 吾妻橋が架かったのは安永三年(1774)のことである。
それまでは「竹町の渡し」と呼ばれる渡し舟で対岸を結んでいた。
吾妻橋は、江戸時代に隅田川に架橋された五つの橋の中では、
最後に造られた長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、
武士以外の全ての通行者から二文ずつ通行料を取った有料橋である。
現在の橋は関東大震災後の昭和六年(1931)に架け替えられたものである。 」
その北東には首都高6号向島線と建設中の東京スカイツリーが見えた。
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◎ 神谷バー・浅草寺 雷門
交叉点の左側は浅草一丁目一番地一番で、神谷バーの建物があった。
「 六月十五日に開かれた文化庁の文化審議会で、
神谷バー本館を登録有形文化財にするよう答申された。
大正十年(1921)に建てられた鉄筋コンクリート六階、地下一階建ての建物は、
正面に縦長の半円アーチ窓を3か所連続させた、アールデコ調のデザインが特徴で、
関東大震災や東京大空襲もくぐり抜けた貴重なビルである。 」
明治生まれの家内の父は高島屋に長く関係したが、神谷バーへは足繁く通い、
電気ブランの愛好者だったという。
今も人気の一品のようで、入口に 「 でんきブラン 神谷バー 」
の看板があった。
「 神谷バーは日本最初の洋風バーとされる。
創業は明治十三年(1880)で酒の一杯売りを始め、
同十五年にはブランデーベースのカクテル 「 デンキブラン 」 が誕生したが、当時は電気が珍しい時代だったので、
このネーミングはハイカラな酒として有名になり、神谷バーといえば
「 電気ブラン 」 と全国に名をとどろかせ、多くの文人、
画家や政治家に愛された。
六月十五日に開かれた文化庁の文化審議会で、
神谷バー本館を登録有形文化財にするよう答申された。
大正十年(1921)に建てられた鉄筋コンクリート六階、地下一階建ての建物は、
正面に縦長の半円アーチ窓を3か所連続させた、アールデコ調のデザインが特徴で、
関東大震災や東京大空襲もくぐり抜けた貴重なビルである。 」
神谷バーの前を通りぬけて西に向かうと、 右側に金龍山浅草寺の雷門があった。
「
浅草寺が天慶五年(942)、平公雅(たいらのきんまさ)によって、
駒形堂のあたりに創建された時に建立された門である。
鎌倉時代以降、現在地に移築された際、伽藍守護のために、
風水害または火災からの除難を目的として、
風神と雷神が初めて奉安されたといわれる。
その後、何度かの火災により建て替えられたが、
慶応元年(1865)十二月十二日の田原町大火で炎上した後、九十五年間の間、
浅草寺の総門としての雷門はなかった。
現在の門は、昭和三十五年(1960)に、松下電器創始者の松下幸之助の寄進により、
復興再建されたものである。 」
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◎ 浅草寺 仲見世・伝法院通り
雷門前の道路では、 「 全ての原発をなくせ 」 のスローガンを掲げたデモ行進が行われていた。
「 福島第一原発による放射能もれで周辺の住民が被害を受け、家を追われている。 コスト優先による発電による被害であり、 他の原発で同じような事故が発生しないとは限らない。 また、起きた時の対応の仕方に問題も多く、 今後続けるならば根本的に見直す必要があるだろう。 」
いつもならば外人観光客が多い浅草寺の仲見世の通りも、
原発の風評被害で渡航が止まり、
祭日なのに日本人だけで、すいていた。
仲見世を過ぎると、左右の通りは伝法院通りで、左側に伝法院がある。
「 伝法院は安永六年(1777)建築の客殿と玄関、 明治四年(1871)建築の大書院などを含めた浅草寺の本坊のことだが、 特別参観時は非公開なので入ることは出来なかった。 」
伝法院通りの右手正面に東京スカイツリーが見えるので、 立ち止まって携帯で写真をとっている多くの姿を見かけた。
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◎ 久米平内堂・浅草寺宝蔵門(旧仁王門)
仲見世通りを直進すると、右側に「久米平内堂」の幟があり、 奥に小さな祠が見えた。
台東区教育委員会の説明板「久米平内堂」
「 久米平内(くめのへいない)の一生ははっきりしないが、
江戸時代初期の武士である。
剣術に秀でて多くの人をあやめてきたことを後年になり後悔し、
供養のため、仁王座禅法を修行し、浅草寺内の金剛院に住んでいたが、
臨終に臨み、自分の姿を石に刻ませ、その石像を仁王門付近に埋めさせ、
多くの人々に踏ませることにより、罪滅ぼしを行ったと伝えられる。
その後、石像はお堂に納められたが、
「踏みつけ」 が 「文付け」(恋文)に通じることから、
江戸時代中期以降、縁結びの神として、庶民の信仰を集めた。
平内堂は東京大空襲により焼失したが、昭和五十年に再建された。 」
その先にある二尊仏は、台座を含めた高さは約4.5メートルの二体の露座の銅造仏像で、 「濡れ仏」 と通称される。
「 向かって右が観音菩薩、左が勢至菩薩像である。 これは貞享四年(1687)に、上野国館林の高瀬善兵衛が、 奉公した日本橋の米問屋成井家への報恩のために造立したものである。 」
その先にあるのは、鉄筋コンクリート造の浅草寺」の宝蔵門(旧仁王門)である。
「 もともとは天慶五年(942)、平公雅により、
雷門などとともに建てられた山門だったが、火災にあい消滅。
その後、徳川三代将軍家光により、慶安二年(1649)に再建された。
その際、門の左右に金剛力士(仁王)像を安置したので、
仁王門と呼ばれるようになった。
しかし、この門は昭和二十年三月の空襲により焼失。
現在の門は昭和三十九年(1964) 、
実業家大谷米太郎夫妻の寄進により再建された、
鉄筋コンクリート造の入母屋造二重門
(二階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。
「宝蔵門」 と称するのは門の上層部分が、
国宝の法華経などの文化財収蔵庫になっているからである。
二体の金剛力士像のうち、
向かって左(西)の 阿形(あぎょう) 像 は、仏師・錦戸新観によるものである。
昭和三十九年の仁王門再建にあたり、仏師の錦戸新観が制作したもので、
総高五メートル四十五センチ、重さ一トン、木曽檜造である。
右側(東)の 吽形(うんぎょう) 像は、木彫家・村岡久作の作である。 」
門の背面左右には、 魔除けの意味をもつ巨大なわらじが吊り下げられているが、村岡久作が山形県村山市出身である縁から、 同市の奉賛会により、製作奉納されているもので、 わら二千五百キログラムを使用しているという。
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◎ 浅草寺本堂・うなぎの前川
宝蔵門をくぐると、正面に浅草寺の本堂がある。
「浅草寺の縁起(由来)」
「 飛鳥時代の推古天皇三十六年(628)三月十八日の早朝、
漁師の兄弟が隅田川で漁をしていたところ、
一躰の観音像が網にかかったのに気が付き、持ち帰って、
郷司の土師中知に見せたところ、聖観世音菩薩像であることを知り、
出家し、自宅を寺に改めて、生涯を送った。
大化元年(645)、勝海上人がこの地を訪れ、この観音像の存在を知り、
観音堂を建立し、本尊としたが、夢告によりこの像はご秘仏と定められた。
平安初期には、天台宗の中興の祖である慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が来て、お前立のご本尊を謹刻。
鎌倉時代に入ると、鎌倉将軍の篤い帰依を受け、更に戦国武将の信仰も集めた。
東京湾の一漁村にすぎなかった浅草は、
観音堂を参拝する信徒が増すにつれて発展した。
江戸時代に入ると、徳川家康により、幕府の祈願所と定められ、
堂塔の威容はさらに整い、江戸文化の中心地として、大きく繁栄した。
浅草寺は天台宗に属していたが、第二次世界大戦後独立して、
現在は、聖観音宗の総本山になっている。 」
本堂は、本尊の聖観音像を安置するため、「観音堂」 とも呼ばれる。
「
旧堂は、慶安二年(1649) 徳川幕府三代将軍徳川家光による再建で、
近世の大型寺院本堂の代表作として国宝に指定されていたが、
昭和二十年の東京大空襲で焼失。
現在の建物は、昭和三十三年(1958)に再建された鉄筋コンクリート造で、
外陣には、川端龍子(かわばたりゅうし) の龍の図、
天井画は、堂本印象による天人散華の図である。 」
本堂の左側にあるのは、昭和四十八年(1973)に再建された、 鉄筋コンクリート造の五重塔である。
「 それ以前の塔は慶安元年(1648)の建立で、 本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが、 昭和二十年(1945)の東京大空襲で焼失。 昭和四十八年(1973)に再建される時、 寛永八年(1631)に焼失した三重塔の跡地付近に場所を移して建てたもので、 基壇の高さは約五メートル、塔の高さは約四十八メートルである。 」
この後、駒形橋まで引き返すことにした。
というのは食事を一緒にとることになっていたからである。
十八時少し前、駒形橋の袂の約束の場所に到着した。
そこからは駒形橋の先に、
アサヒビールのへんなオブジェと東京スカイツリーが見えた。
しばらく見ていると、あたりはうす暗くなったが、
娘が 「 スカイツリーから光が見える!! 」 という。
小生は白内障の初期段階なので、よく分らなかったが、
家内もうなずいていたので、そうだったのだろう。
駒形橋の右手前にある細い道に入ると、左側に、鰻のまえかわの店があった。
鰻のまえかわの宣伝パンフレットに
「 隅田川を望む夕暮れ、そんな幻想的な情景の中で200年の歴史を持つ天然うなぎ料理を味わって下さい。
四季折々の風情を湛える隅田川。本来「大川」の名で親しまれ、江戸情緒息づくこの流れに目をうばわれながら逸品に舌鼓みを打つ−。
眺めをパートナーにしてのお食事もまた格別です。 全室和室。
隅々まで気配りが行き届いた「前川」ならではの本格的なしつらえ。 」
とあったので、以前から訪れたいと思っていた店である。
前述の駒形どぜうは値段が手ごろであるし、一人で酒を飲むこともできたので、
これまでも何度か訪れていたが、前川の鰻はうなぎ定食で五千円前後とやや高い。
明日は法事 法事の前に殺生というのは如何とも思ったが、
皆も食べたいというので、
ホテルに近いここで夕飯となったのである。
祭日でもあったので、十八時過ぎにかかわらず、
混んでいて隅田川の流れが見える窓側はとれなかった。
注文したのは長焼き定食である。
うなぎ丼の方が千円位安いので、それでもよいかなと思ったが、
酒を飲みながら食べるには、上記の方がよい。
三十分程待たされて、大きな盛られた鰻が出てきた。
「
名古屋では大部分の店が関西風の焼き方なので、
久し振りに関東風の焼き方に接した。
ふっくらした鰻はあっさりとした味付けで、小皿の塩を付けて食べるとうまかった。
家内達より量を増やして注文したので、出てきた時多すぎると思ったが、
さっぱりとした砂糖の味付けだったので、たいらげることができた。
たれもついてきたので、それをかけてご飯と一緒にたべたが、なにもつけないか、
塩をつけて食べた方がうまいようである。 」
食事に満足し、酔いを醒ましながら、ホテルへ歩いて戻った。
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平成二十七年(2015)四月四日、昨年に続き、浅草を訪れた。
今回は、いつもは拝観できない、浅草寺伝法院庭園に入場できた。
説明板「伝法院」
「 伝法院は浅草寺の本坊で、当寺の僧侶と信者の回向、修行道場である。
江戸時代の始めには、観音院などと称していたが、
元禄三年(1690) 、中興第四世宣存僧正の坊号をとって、伝法院となった。
江戸時代の浅草寺は法親王のご兼帯寺で、徳川家の祈願寺ということもあり、
宮様をはじめ、将軍家の御成りがたびたび行われた。
御成りの本堂参拝後は、ここ伝法院にてご休息され、
浅草奥山の大道芸などをお楽しみになられた。 」
伝法院庭園は、寛永年間(1624〜1644) に、 幕府の作事奉行を勤め、茶人として有名だった小堀遠州によって築庭された、 と伝えられる約一万平方メートルの回遊式庭園である。
「 江戸時代から明治までは法親王ご兼帯寺の庭として秘園とされ、 皇室と徳川家以外には公開されていなかったようである。 平成二十三年(2011)、国の名勝に指定された。 」
庭を見下ろせるところにあるのは、
明治三十五年(1902) に建てられた大書院である。
伝法院にはその他、安永六年(1777) 再建の大玄関、客殿などがある。
庭園を逍遥すると、一歩一歩歩くことに景観が変わるとあるが、
手入れが調った庭園で、一本のしだれ桜が満開で、きれいだった。
庭園にある石造多宝塔の説明板には
「 室町時代の応永三十二年(1425)に造立されたもので、
塔身は梵字で 「光明真言」 と 「随求菩薩」 が刻まれている。
下部の裳階が宝しょう印塔の笠を想起させるが、
上部には饅頭型を造り出していることから、
特異な形態の多宝塔と思われる。
軸部の日月窓は近世に供養塔の機能が消失し、石灯籠に改変されたと思われる。 」
とあった。
なかなか開帳されないところを見学できてよかった。
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(行程)
東横イン浅草蔵前雷門 → 諏訪神社 → バンダイ本社 → 駒形どぜう → 駒形橋 → 駒形堂 →
浅草むぎとろ → 吾妻橋 → 神谷バー → 浅草寺 雷門 → 仲見世 → 伝法院通り → 久米平内堂
→ 宝蔵門(旧仁王門) → 浅草寺本堂 → 五重塔 → 駒形橋 → 鰻のまえかわ → 東横イン浅草蔵前雷門