「 江戸時代、不忍池は桜で有名であったが、 上野寛永寺は徳川家の菩提寺なため、 庶民は立入り、 お花見することができなかった。 八代将軍吉宗が庶民にも桜を楽しんでもらおうと、 北区の飛鳥山と品川区の御殿山、そして隅田川岸に桜を植えた。 これを機に江戸庶民にお花見の文化が広がったといわれる。 」
平成二十七年(2015)四月四日、隅田公園に桜を見に出かけた。
◎ 吾妻橋・東京スカイツリー
地下鉄浅草駅で下車し、隅田川西岸を北上すると浅草水上バス乗り場があり、
隅田川を渡る吾妻橋が架かっている。
橋の上から下を見るとはしけが行き来している。
隅田川は、江戸時代以前にあった川の名が復活したものである。
「 隅田川は、元々は入間川の下流部分で、
下総国と武蔵国との国境だった。
寛永六年(1629) の荒川瀬替えにより、荒川の本流になった。
明治末期から、洪水対策のため、 荒川放水路が造られたことから、
分岐点の岩瀬水門より下流は、隅田川に改称された。
浅草周辺は湿地帯で、洪水の被害に泣かされていたため、日本堤が造られた他、
上記のように、川の付け替えが行われた他、 周囲の小さな河川は暗渠化され、
今日にいたっている。 」
吾妻橋を渡ると本所吾妻橋である。
「 江戸時代の万治二年(1659)に、
ここより下流部に両国橋が架けられると、隅田川の東岸は新興住宅地になり、
北側が本所、南側が深川となった。
両国橋の当初の名は大橋で、川も吾妻橋周辺より下流は大川とも呼ばれた。
江戸領域の拡大により、下総国南葛飾郡が武蔵国に編入されたが、
それ以前は両国の国境だったので、
両国橋と呼ばれた。 」
橋を渡り左折すると墨田区役所があり、 その前の広場に「勝海舟」の銅像が建っている。
銅像には 「 勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、 文政六年(1823)一月三十日、 江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、 明治三十二年(1899)一月十九日(発喪は二十一日)、 赤坂の氷川邸で逝去されました。 勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、 卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。 西郷隆盛との会談によって、江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、 江戸を戦禍から救い、 今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。 ・・・・・ 」 と書かれている。
頭上には東武鉄道、下には北十間川が流れていて、 橋の右手に東京スカイツリーが見えた。
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◎ 隅田公園・水戸徳川邸旧址・墨堤
橋を渡ると向島一丁目で、隅田公園がある。
隅田公園は右岸の台東区浅草、花川戸、今戸と、
左岸の墨田区向島にまたがる公園である。
「 大正十二年(1923)の関東大震災後、 時の東京市長後藤新平の主導により、計画整備された公園で、 日本さくら名勝百選に選ばれていて、ソメイヨシノ、オオシマザクラ、 サトザクラなど、種々の桜が植えられている。 」
隅田公園には約六百四十本の桜がある。
「 江戸時代、不忍池は桜で有名であったが、 江戸城の鬼門にあたることから建立された上野寛永寺は徳川家の菩提寺なため、 庶民は立入ることができなかった。 八代将軍・吉宗が、庶民にも桜を楽しんでもらおうと、 川岸に桜を植えたのが始まりと伝えられる。 」
公園の中に日本庭園がある。
「説明板」
「 現在の日本庭園は、
隅田公園が整備された以前にこの地にあった水戸徳川邸の遺構を活用している。
江戸時代、ここには水戸藩の下屋敷・小梅邸があり、
主に蔵屋敷として使用されていた。
明治維新後は一時上げ地となったが、その後下賜され、
水戸徳川家当主が関東大震災で家が全壊するまで住んでいた。
最後の将軍徳川慶喜もよく来ていたという。
関東大震災以後、隅田公園の区域に取り込まれて、
邸内の池(当時は汐入の池) 等の遺構を活用し、
日本庭園と形を替えて現在に伝えられている。 」
その先で水戸街道が公園を横断しているが、
道路の下をくぐって、反対側に出ると
「明治天皇行幸所 水戸徳川邸旧址」 の石碑と、明治天皇御製碑が建っている。
江戸時代、花見の名所の地位を確定していたのが 墨堤である。
「 天皇家は平安時代より宮中の花宴を代々開催していたが、 明治維新の混乱期や東京遷都で中断していた。 明治八年(1875) 花宴の再開において、 明治天皇は会場にこの墨堤の水戸徳川家小梅邸を選び、実施した。 」
明治天皇が行幸されたのは明治八年(1875)四月四日である。
その際詠まれた歌が明治天皇御製碑である。
「 花かぐはし さくらもあれど このやどの 代々のこころを われはとひけり 」
「 水戸徳川家は、 二代藩主光圀や幕末の九代藩主斉昭らが尊王の志が高く、 明治天皇は拝謁した当主の昭武 (徳川慶喜の弟) らに先代の志を継ぐように勅語された。
明治天皇の歌は満開に咲くさくらだけでなく、 代々水戸家に伝わる尊王の心に感銘を受けたようすを歌っている。
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◎ 弘福禅寺・長命寺桜もち 山本や
この先は桜の木がおおく、その下は花見客でごったかえしていて、
花より団子という風情である。
水戸街道に架かる橋は言問橋であるが、川岸の上の道路を北に向うと桜橋に出る。
更に進むと下に 「牛頭山弘福禅寺」の石標が見えた。
隣は長命寺であるが、道の左手に墨堤常夜燈があり、
道の右側に「三浦乾也旧居、窯跡」の案内板がある。
その隣にあるのは「長命寺桜もち山本や」で、
創業三百年にならんとする老舗である。
花見の時訪れると店内がごったがえしているが、
その他の時に訪れれば、店内で一服できる。
店の案内によると、
「 桜もちの由来は、当店の創業者山本新六が享保二年(1717)、
大岡越前守忠相が町奉行になった年に、
土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして試みに「桜もち」というものを考案し、
向島の名跡・長命寺の門前にて売り始めた。
その頃より桜の名所であった隅田堤(墨堤通り)は花見時には多くの人々が集い、
桜もちが大いに喜ばれた。
これが江戸に於ける桜もちの始まりであります。 」 とある。
小生は京都で大学に通い、就職後は名古屋で暮らしたので、
桜もちというと、もち粉を蒸して乾燥させ、
荒挽した道明寺粉でつくられたおもちを桜の葉でくるんだもので、
「道明寺もち」といわれるものである。
東京生まれの妻が食べていた東京の桜もちはこれと違い、
「長命寺もち」という、さっぱりしていておいしいものと言っていたが、
回、その長命寺桜もちに出逢えた。
「 長命寺桜もちは小麦粉などの生地を焼いた皮で、 あんこを巻いたものを桜の葉でくるんだもので、 これまで食べてきた桜もちとは別物だった。 」
船橋に引っ越してすぐに妻は亡くなったので、 感想を言えなかったのは残念である。 買って帰り、仏前に供えたが、「 これが東京の粋というものよ!! 」 といっているような気がした。
山本やの店前に 「 正岡子規仮寓の地」の説明板がある。
「 近代日本を代表する俳人正岡子規は向島周辺の景色を好み、
こうした歌を数多く遺している。
「 向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉 」
隅田川と墨堤の自然がよほど気にいったのか、
大学予備門の学生だった子規は長命寺桜もち山本やの二階を三ヶ月ほど借り、
自ら月香楼と名付けて滞在した。
「 花の香を 若葉にこめて かぐわしき桜もち 家つとにせよ 」
という句も詠んでいる。
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◎ 墨堤通り
その先の三叉路を右に下るのが墨堤通り。
説明板「墨堤植桜之碑と桜勧進」
「 江戸時代桜の花見の名所としての地位を確立していった墨堤も
当初は墨堤の桜は水神社(墨田川神社)付近を中心に植えられていた。
しかし、1800年代から地元の村の有志らによって、桜が植えられ、
墨堤の桜が南に延伸していった。
堤の桜が長命寺、三囲神社と、除々に延びて、
枕橋まで達したのは1880年ごろといわれる。
この間は村の有志らの植桜の他、
有志が発起人になった 桜勧進 と呼ばれる寄付が行われた。
堤の桜が地元の人々に愛されていたことはこの植桜の碑に刻まれている。 」
説明板の中に、江戸名所図会の 「隅田川の桜」 の絵があった。
言問団子の店があるが、当日は休みだったので、食べられないのは残念!!
道の右手は小公園になっていて、
カワヅサクラ(河津桜)やジュウガツサクラ(十月桜)が植えられている。
「 十月桜は冬から少しずつ咲き、四月上旬に最も多くさくので、 この名が付けられた。 」 と説明にあった。
、野口雨情の都鳥の詩碑がある。
「 都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢を見る 」 というもので、 昭和八年、門下生の詩謡集の序詞執筆のため、当地に来遊した折り、 唱われたものである。
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◎ 森鴎外住居跡
公園の入口には、道標が建っている。
この道は多聞寺、白髭神社、向島百花園に通じる。
墨堤の桜は水神社(墨田川神社)付近を中心に植えられていたと
前述の墨田川神社は白髭神社の先で、水神前バス停の奥にある。
左の大通りを通って、隅田公園に戻ることにする。
長命寺の前を通り、弘福寺の門前にくると、「淡島寒月旧居跡」の説明板があった。
「 父淡島椿岳は、 江戸時代大流行した軽焼せんべいの名店「淡島屋」を経営する実業家で、 大地主である。 明治十七年(1884)向島の弘福寺境内に隠居所を建てて住んだ。 息子寒月は西鶴再評価のきっかけを作った人物だが、 明治二十六年(1893)頃、父が使っていた隠居所を梵雲庵と名付けて隠居し、 悠々自適な生活を送った。 」
淡島屋はすでになくなっているようで、 軽焼せんべいとはどいうものか分らない。
なお、向島3丁目37番地、向島四郵便局の道の反対に 「森鴎外住居跡」の説明板がある。
「 森家で 「曳舟通りの家」 といわれた向島の家は、 一家が津和野のから上京した後の明治九年(1876)から、 千住に転居する明治十二年(1879)まで住んだ家で、当時の住所は小梅村237番地。 三百坪程の隠居所を購入したもので、鴎外はここで十四才から十七才まで過ごした。 」
また、向島三丁目30番には「堀辰夫住居跡」の説明板がある。
明治時代にはこのあたりに文人が多く住んでいたようである。
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◎ 牛島神社・屋台船
三囲神社前を通り、隅田公園に戻る。
園内ではゲンペイモモが咲いていた。
「説明板」
「 ゲンペイモモはハナモモの仲間で、一本の木から白と赤の花が咲くことから、
源氏の白旗と平家の紅旗を想像して、源平桃と呼ばれる。
この木は白花、紅花、桃色を咲く分けるので、すみだの五色桃と呼んでいる。 」
水戸街道が横断している公園の一角に牛島神社があった。
牛島ということからか、牛の石像があった。
当初は先程歩いた長命寺もち山本や近くの墨堤常夜灯の東にあったが、
昭和七年、隅田公園開設の時に現在地に移転した。
神社の由緒
「 平安時代の始めの貞観年間(859-879)、
天台宗中興の祖といわれる慈覚大師が、
一草庵で須佐之男命の権現であるという老翁に会い、
「 師 わがために一宇の社を建立せよ!!
若し国土に騒乱あらば、首に牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わし、
天下安全の守護たらん!! 」 との託宣を受けて建立し、
「牛御前社」と呼んたのが始まりと伝わる。
治承四年(1180)、伊豆に旗上げした頼朝が、敗れて房州に逃れ、
再挙して隅田川を渡る際には、千葉介常胤が当社に祈願してことなきを得た。
それを契機に千葉を本拠として活躍した千葉氏の崇敬を受け、その証拠として、
月輪の紋をつけた千葉家の旗が寺宝として保存されている。
なお、箱書には 「 此指物自先祖 持来候 然而牛御前宮者
先祖千葉家被再興候
慶長十八(1613)年九月十五日
国分宗兵衛正勝敬白 牛御前別当最勝寺 」とある。
江戸時代には本所総鎮守の社として知られていて、
「江戸名所図会」では牛島の出崎に位置するところから、
牛島の御崎と称えたのを御前と転称したものであろう。
」
当日、国際結婚式が行われていて、 式を終えた外国と日本の両家が人力車に乗っている風景はほほえましく、 両家の思い出になるだろうと思った 。
隅田川の川岸に出て、対岸の浅草、花川戸の方を見ると、
千本桜と呼ばれる風情を感じられた。
その風景を楽しもうと当日は多くの屋台船が押し寄せていた。
この後、言問橋を渡り、対岸の桜を見ながら、浅草まで歩き、今日の散策は終了した。
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(行程)
地下鉄浅草駅 → 吾妻橋 → 本所吾妻橋 → 「勝海舟」の銅像 → 隅田公園(水戸徳川邸址・明治天皇御製碑等)
→ 桜橋 → 墨堤常夜燈 → 長命寺桜もち山本や → 小公園 → 野口雨情の詩碑 → 弘福寺の門前
→ 三囲神社前 → 隅田公園 → 言問橋→ 地下鉄浅草駅