東 京 散 歩

「 日光街道千住宿 」

貴方は  かうんたぁ。 目のゲストです!!



令和六年(2024)の初詣に西新井大師に出かけた。
その後、江戸時代、日光街道の宿場町であった北千住で、その跡を探して歩いた。

東武伊勢崎線西新井駅で電車に乗ると、北千住駅へすぐ着いた。
北千住駅前から西に向かい、信号交叉点に出ると、 左右の道に、「宿場町通り」 の表示がある街路門が建っている。
門柱に「千住宿を通った大名とその家紋」 が標示されている。

ここにあった柱には、「南部家」 とあり、
陸奥(陸中)盛岡 20万石 現・岩手県盛岡市 
鎌倉時代から続く最も古い大名家の一つ。  その領土は津軽海峡から一関のすぐ北までで、江戸時代日本一広い藩として、 知られていました。 」 と書かれていた。

この通りは江戸時代の日光街道が通っていたところで、 右折して、通りに入り、少し行くと、左側の角地(旧道三丁目の南西側角地)に、 「千住宿本陣跡」 と書かれた石柱が建っている。 
ここは、日光街道の最初の宿場であった、 千住宿の本陣・市郎兵衛の屋敷があったところである。 

「 江戸時代、 宿場には、大名や幕府の役人が泊まる本陣・脇本陣の他、 平旅小屋(ひらはたご)や飯売旅籠屋等があった。 それぞれ格式が違い、 宿泊客にも相違があり、中でも本陣は最も格式が高く、 主に一万石以上の大名・公卿・高僧・身分の高い人が宿泊していた。 
千住宿の開設当時は、 三丁目市郎兵衛と四丁目嘉左衛門の二軒の本陣があったが、 千住宿を利用する大名は少ないため、経営が難しく、 いつの時か不明であるが、四丁目の本陣は消滅し、 市郎兵衛本陣のみが残った。 
市郎兵衛は、千住・草加・越谷・粕壁(春日部)・杉戸の五宿本陣の総代を務めた といわれる人物で、 市郎兵衛千住本陣は、間口九間半(約17m) 、奥行三十八間(約69m)、 三百六十一坪の広さで、建坪百二十坪、玄関付きの門構えの屋敷であった。 」

宿場町通り      大名とその家紋      千住宿本陣跡
宿場町通り大名とその家紋「南部藩」千住宿本陣跡


小路の反対側には「千住本陣跡とその周辺」の案内板がある。
これによると、本陣はこの案内板の反対側一帯の長方形の部分であったようである。

案内板「千住本陣跡とその周辺」
この案内板がある小道は、千住二丁目と千住三丁目の境界をなす通りで、 北千住駅前通りが全通する昭和初期迄は重要な通りでした。
● 千住本陣跡
この案内板の北側一帯が本陣(大名等専用の)宿屋で、 千住宿ではここ一ヶ所だけでした。  敷地は三百六十一坪、建坪百二十坪であったと、記録されています。
● 明治天皇行在所跡
明治九年の明治天皇の東北御巡行の砌、この地に泊まられ、 皇后陛下御一行と送別の宴を当時千住最大の旅籠であった中田屋の別館で、 催されました。  そのため、そこを行在所(天皇陛下が一時的に滞在する所)といいました。 
● 千住見番跡
江戸時代から千住宿には遊女(金売女)を置いていい旅籠が五十軒ほどありました。  明治にこれが禁止されると、千住芸妓組合が成立し、 その事務所(見番)がこの地に置かれました。  花街が千住柳町に移転される迄営業していたといいます。  その為、この通りを見番通りといっていたそうです。 
● 丁目境の筋違
各丁目毎に、その境界に対して、出入をつけていたのですが、 一〜二丁目、三〜四丁目の境界が拡張等でわからなくなってしまったのに対し、 ここは旧街道に対して、二丁目側と三丁目側の正面が違うのがはっきり見られます。  
   平成九年八月吉日   株式会社 山崎商店     」

宿場町通りの右側には、「千住行在所跡」の標示がある。

宿場町通りを北に向って進むと右側に、千住ほんちょう公園がある。  
公園は、足立区が江戸時代に賑わった日光街道(日光道中)・ 宿場町の雰囲気を伝えようと、設置したという。 
園内の東屋の近くに、地面の上に、地図状の千住宿史跡・旧蹟案内板があった。

案内板      千住ほんちょう公園      史跡・旧蹟案内板
案内板「千住本陣跡とその周辺」千住ほんちょう公園史跡・旧蹟案内板


千住ほんちょう公園の100m程南で、小路を西に100m程進むと、 千住本氷川神社がある。 

「 祭神はスサノウノミコトである。 
徳治二年(1307)に、千葉氏により、牛田に千葉山西光院とともに 、氷川神社として創建された。 千住が宿場町として栄え始めた 江戸時代初期に、現在地に地主の土地奉納により、分社が建立された。  その後、明治四十三年(1910)に、荒川放水路建設のため、 牛田氷川神社を合祀した。 社殿は昭和四十五年の建築である。  旧殿は末社として保存されている。 」

千住ほんちょう公園北に向うと、左側にある 商店のシャッターに江戸時代の川越え風景と思える絵が描かれていた。
その先に絵馬屋があり、家の右側に案内板が建っている。

案内板「千住宿絵馬屋・吉田家」
吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ、 地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。  代々東斎を名乗っている。 手書きで描く絵馬は、 都内ではほとんど見かけなくなって、希少な存在になった。 
当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、 伝統を守り続けており、昭和五十八年(1983)十二月、 千住絵馬づくりが足立区登録無形民俗文化財となった。 
絵馬は、縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬で、 千住絵馬と呼ばれる。 絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など、 祈願する神仏によって、構図が決まっており、三十数種ある。  これらの代表的絵馬は、吉田家絵馬資料として、 足立区登録有形民俗文化財となっている。 
地口は江戸時代に流行したダジャレの一種である。  ことわざや芝居の台詞、格言等を似た音に置き換えたものを地口といい、 滑稽な画を描いて、角型の行灯にしたものが地口行灯である。  地口行灯は、元来、稲荷神社の初午の祭礼に奉納されていたが、 現在は九月に千住の各宮で開催される秋祭りの際に飾られ、千住の街を灯している。 
   令和二年三月   東京都足立区教育委員会          」

千住本氷川神社      江戸時代の風景が描かれた家      千住宿絵馬屋・吉田家
千住本氷川神社江戸時代の風景が描かれた家千住宿絵馬屋・吉田家


道の反対、右側にあるのは、横山家住宅である。

案内板「横山家住宅」
横山家住宅(足立区登録有形民俗文化財)は、宿場町の名残りとして、 伝馬屋敷の面影を今に伝えている。  伝馬は、人や物資を輸送するために、各宿場に馬を負担させた、 江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が与えられ、 年貢なども免除された。  横山家は、江戸時代から続く富裕な商家で、伝馬を負担していた。  屋号は 「松屋」 で、今でいう再生紙を取り扱う地漉紙問屋であった。 
横山家住宅は、戸口が街道から一段下がっており、 上にいる客を下から迎える形となる。  これは、お客様をお迎えする心がけの現れという。  また、横山家の敷地は、間口十三間(約23,5m)、奥行が五十六間(約103m)で、 鰻の寝床のように長い。  現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、 昭和十一年(1936)に改修が行われている。  間口が 九間(約16m) 、奥行が 十五間(約27m) あり、 大きくてがっちりした桟瓦葺の二階建である。  広い土間、商家の書院造りと言われる帳場、二階の大きな格子窓などに、 一種独特の風格を感じる、 
上野で新政府軍に敗れ、敗走してきた彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷跡や、 戦時中に焼夷弾が貫いた屋根なども残っており、 風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。 
  令和元年十二月      東京都足立区教育委員会  」

横山家住宅の南側の小路を東に進むと、長円寺がある。

「 長円寺は、新義真言宗の寺院で、本尊は薬師如来。  寛永四年(1627)、出羽湯殿山の行者、雲海が庵を結んだのが始まりで、 本堂に安置されている乳泉石は、江戸時代、これを削って呑むと、 乳の出が良くなる、と、女性の参拝者が多かった、といわれる。 」

更に北に行くと、信号交叉点(水戸街道分岐交叉点)がある。
江戸時代、このあたりは四丁目の北詰で、 右に伸びる道が、かっての水戸街道である。

「 江戸時代に始まった水戸街道は、 日光街道のこの場所を起点としていたので、千住5丁目付近の起点に、 自然石の道標が置かれていた。  道標は正面に「水戸海道」、左面に「松戸・成田」、裏面に「坂田七兵衛建之  天明元(年)丑月」 と刻まれている。 現在は、郷土博物館の中庭に保存されている。 」

水戸街道は、骨接ぎで有名な名倉医院を右に見ながら、 荒川を斜め左方向へ向かっているが、今は千住新橋へ迂回し、 渡るしか方法はない。

「 荒川は、以前は荒川放水路と呼ばれた、 大正から昭和にかけて、人工的に掘られた川である。  北区岩淵水門で、隅田川と分岐している。 」

この交叉点を横断し、 北20m程のところにある西に入る小路を50m程行くと、 安養院の山門がある。

「 安養院は、真言宗豊山派の寺院で、元は千住元町にあり、  鎌倉時代の文永年間(1264〜74)に、北條時頼が創建したと伝えられる。  慶長三年(1598)兵火により焼失し、当地に移転したという。  享保年中(1716〜36)、しばしば、徳川将軍が、鷹狩で度々訪れ、 「御膳場(休憩所)」 としていた。 そうしたことから、 寺紋に葵紋の使用が許された。  本尊は黒光の金銅仏で、等身大の阿弥陀仏坐像。  千住元町の土中から出土したと伝わり、その地を金仏耕地といった。 
山門は文政十一年(1828)の建立であるが、 本堂と庫裏は大正十三年の建築である。 
かんかん地蔵と呼ばれる地蔵がある。 」

境内と墓地の先に、黒松があり 、傍らに「足立区指定台56号 保存樹木 くろまつ 」 の説明板がある。

説明板
「 当院の松は、樹齢500年前後といわれています。  慶長三年(1598) この地に中興した頃から、 しずかに世のうつりかわりを見つづけてきた古木です。  寺と地域の宝ものとして、みんなで大切にしていきたいものです。 」

横山家住宅      安養院 山門      樹齢500年のクロマツ
横山家住宅文政十一年の建立の安養院山門樹齢500年のクロマツ


先程の道に戻り、北進すると荒川の堤防に突き当たる。
江戸時代には直進する下妻道があり、日光街道は左に折れる、 旧下妻道の分岐点であった。  日光街道はここで左折し、その先は 現在の日光街道の千住新橋の橋詰の河原の辺りを通過していた。 
当時、光茶碗の茶屋が橋詰あたりにあったようである。 

「 江戸時代には、現在の荒川はなかったので、 下妻道はそのまま、直進、日光街道は千住新橋付近を通りぬけ、 梅島駅手前(道標が一つある)に出て、竹の塚に向う。  梅島駅から草加までほぼまっすぐのルートであった。 」

(補足) 明治に入り、洪水防止のため、隅田川の上流部から江戸湾に注ぐ 人口の川が造られた。 当初は荒川放水路と呼ばれたが、現在の荒川である。  千住新橋は、川の誕生で架けられた橋で、最初の橋は大正十三年(1924)の竣工で、 現在の橋は昭和五十八年(1983)に開通したものである。 
旧下妻道は、その先、茨城県の下妻まで続く脇街道で、 下妻から栃木県の喜連川まで続く、奥州街道・日光街道の脇街道であった。 」


北に向いのはやめて、先程訪れた本陣跡の先の交叉点に戻り、 南下することにする。

入口に「 歩行者天国 車両進入禁止 」の 看板があり、 門型のポールには 「令和六年 謹賀新年 千住本町商店街」 の垂れ幕があった。 
この通りは飲み屋などの飲食店が多いようである。 
一つ目の三叉路を右折すると、正面に勝専寺がある。

説明板「三宮神山大鷲院勝専寺(さんぐうじんざんだいしゅういんしょうせんじ)」
「 赤門寺という通称で親しまれている浄土宗寺院で、京都知恩院を本山とする。  寺伝では、文応元年(1260年) 勝蓮社専阿上人を開山、新井政勝を開基とし、 草創されたという。  江戸時代に日光道中が整備されると、ここ0に徳川家の御殿が造営され、 徳川秀忠・家光・家綱らの利用があった。  また、日光門主等の本陣御用を務めた記録が見られ、 千住宿の拠点の一つであったことが知られる。  加えて、当寺は、 千住の歴史や文化に深くかかわる多くの登録文化財を今に伝えている。  木造千手観音像は千住の地名起源の一つとされ、 開基新井政勝の父 正次が荒川引き上げたという伝承を持つ。  ほかに、一月と七月の十五・十六日の閻魔詣で知られる、 寛政元年(1789年)の木像閻魔大王坐像、 巻菱潭の筆による明治十二年(1879年)の扁額 「三宮神山」 を山門に掲げるほか、 千住の商人高橋繁右衛門の冑付具足を伝来し、 いずれも足立区登録文化財となっている。 
  平成十三年十月 足立区教育委員会             」

千住新橋      千住本町商店街      勝専寺山門(赤門)
千住新橋千住本町商店街勝専寺山門(赤門)


街道に戻り、南下する。 
この通りには「博多劇場」と書かれた、 もつ鍋などの博多料理の飲食店や「沖縄商店 しむら」と書かれた、 沖縄料理の店など、地方出身の店が目立った。 

「 徳川家康により、文禄三年(1594)、千住大橋が架けられると、 人が集まってきて千住町が出来、慶長二年(1597)に  日光街道・奥州街道の宿場に指定されると、 千住町は南から北に一丁目から五丁目に細分化され、これが本宿で、  道幅五間、南北一キロの距離であった。  万治元年(1658)、本宿の南に続く、掃部宿・千住河原町・千住橋戸町が追加され、 更に寛文元年(1661)には、千住大橋の対岸の中村町・小塚原町が追加された。 」

足立成和信用金庫・東京芸術センター前の広場が、問屋場・貫目改所跡である。 
問屋場は千住一丁目の南端、日光街道の西側にあったが、今はなにもない。  広場の隅に 「 千住宿 問屋場・貫目改所跡 」 の石柱が建っている。

「  千住宿には、元禄八年(1695)に問屋場が置かれ、 馬50疋、人足50人を常備することが義務付けられた。  問屋場には十三名が月交代で勤務していた。  また、街道の向う側には馬寄場があった。  寛保三年(1743)には貫目改所が置かれ、 荷物の重量検査のための秤(はかり)が備えられた。  日光街道で貫目改所が置かれたのは千住宿と宇都宮宿の二つだけである。 」

この脇の小路を西に行くと、慈眼寺がある。

「 正和三年(1314)創建の古刹で、新義真言宗の寺院である。  三代将軍・家光の時代に、聖観世音菩薩(弘法大師の作と伝えられる)を安置し、 本尊とあいた。 以来、将軍の日光東照宮社参の際の休憩所となり、 また、江戸城北方鎮護の寺として、葵の寺紋が許された寺院であった。 」

慈眼寺の北東に不動院がある。 

「 戦災で、本堂・庫裏は焼失している。  当寺は、慈眼寺の護摩堂であったのを一寺としたとあり、 本尊は弘法大師作の不動明王である、とする。  境内に、戊辰戦争で亡くなったものの供養塔と、包丁塚碑がある。 」

博多料理の店      千住一丁目商店街      問屋場・貫目改所跡
博多料理の店千住一丁目商店街問屋場・貫目改所跡


更に南に行くと、「勝林山 源長寺」 の大きな石碑と 仁王像を祀った山門がある寺がある。 

「 源長寺は、慶長十五年(1610)に、伊奈忠次の開基で、 寺名は彼の戒名「勝林院殿前備前大守秀誉源長居士」による。 」

ここの交叉点は、源長寺前交叉点である。  左右の通りは、墨堤通りで、左折して少し行くと左手に、千住仲町公園があった。 その一角に、「富岳三十六景 ・ 隅田川関屋の里」という大きな看板があった。

「 葛飾北斎は、富嶽三十六景で、千住地区を三枚描いている。 
「武蔵千住」 「隅田川関屋の里」 「従千住花街眺望ノ不二」である。 
この看板にある浮世絵「隅田川関屋の里は、 風光明媚でしられた、千住関屋(現在の千住仲町から関屋付近)を描いたものである。 
墨堤の上を疾走する馬と、右側に見える高札場、 堤防に生える松、左右に水辺、奥に富士山という構図である。 
「従千住花街眺望ノ不二 (せんじゅはなまちよりちょうぼうのふじ)」  の画に描かれた花街は、荒川区の小塚原・中村町である。  江戸時代の小塚原・中村町は千住宿の新宿であった。  I

源長寺前交叉点に戻る途中に 、「 ここは海抜1m 」 の表示プレートがあった。 

源長寺      隅田川関屋の里看板      海抜1mプレート
源長寺隅田川関屋の里看板海抜1mプレート


源長寺前交叉点を南下すると、千住河原町バス停がある。 
右側に、株八粕青果物市場 の看板を出す家があり、 その先に 「昭和五年千住市場問屋配置図」 の看板がある。 

「 かって、千住河原町の日光街道の両側に青果市場があった。  景気のよい 「 ヤッチヤ―」という掛け声が乱れ飛んでいたことから」、 やっちや場と呼ばれた。 駒込・神田と共に、江戸の三大市場に数えられ、 幕府の御用市場でもあった。  昭和十七年、足立市場が開設されたことにより、 天正年間(1580年頃)から続いたやっちや場は終わった。 」

信号交叉点を左折すると、左手は現在は水産品を扱う、東京中央卸売市場  足立市場である。 
足立市場前交叉点で、国道4号をくぐると、かつら並木通りである。 
国道4号の南には千住大橋が架かっている。

「 千住大橋が架かっていたのは橋戸町である。  ここには橋戸河岸があり、物流の重要拠点であった。  当時の橋は、橋戸稲荷と、対岸の誓願寺・熊野神社・山王社の間にあったと、 思う。 
千住大橋は、徳川家康の関東入府に伴い、文禄三年(1594) に関東郡代・ 伊奈備前守忠次により架設された。 隅田川に架かった橋では最初の橋である。  橋の架け替え工事は何度も行われた。  天和四年(1684)に現在地に橋が架けかえられ、昭和二年(1927)にアーチ形の橋が 架けられた。 昭和四十八年(1873)、国道4号の拡張工事が行われた際、 橋の下流部に隣接して新たな橋が造られ、旧大橋は下り車線、 新橋は上り車線として運用されている。 」

その先の右手に京成本線の千住大橋駅があったので、 今回はここで終了である。 

源長寺前交叉点      昭和五年問屋配置図      問屋場・貫目改所跡
源長寺前交叉点やっちゃ場跡(問屋看板)千住大橋駅




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