目黒不動尊は、天台宗の中興の祖といわえる、
慈覚大師延仁が創建したと伝わる寺院である。
山号と寺名は泰叡山護国院瀧泉寺で、本尊は慈覚大師が刻んだとされる、目黒不動明王で、
古くから、「目黒不動尊」「目黒不動」「お不動さん」などと、通称された。
成田不動尊と、熊本県にある、木原不動尊に並ぶ、日本三大不動尊の一つ。
天海僧都が厄除けのために、江戸を囲むように配置した、五色不動の一つである。
目黒不動尊は、目黒区下目黒3−20−26にある。
バスはJR五反田駅から東急バス渋谷72系統があり、目黒不動尊バス停で下車するとすぐだが、
正月の初詣時はそのバス停が閉鎖され、近くに臨時のバス停が置かれる。
このバスは渋谷駅に行くバスで、目黒駅からこの系統のバスで、目黒不動尊に行ける。
歩きの場合、目黒駅か東急目黒線の不動駅から15分程である。
令和七年(2025)の初詣に目黒不動尊を訪問。
目黒不動尊は、台地と平地の境目に位置し、仁王門などが建つ平地と、
大本堂などがある高台の二段に造成されている。
正月三ヶ日と毎月8日が付く縁日には、露天商による屋店が出る。
当日も十軒程の露店が出ていた。
「目黒不動尊 瀧泉寺」 の石柱があり、その奥に、仁王門がある。
仁王門は、三間一戸の楼門で、昭和三十七年(1962)に、
鉄筋コンクリートで、造られたものである。
仁王門の手前の道の左側に、「江戸情緒 目黒 比翼塚 白井権八 小紫」の板札があり、
その下に、 「 傾城の恋こと無いとは誰が云うた。
まことありやこそ 今が世に目黒にのこる。 」 と書かれた板が貼られていた。
その右側に、おにぎり形の石に 「比翼塚」 と刻まれている。
説明板「目黒区みどりの散歩道 ・ 不動コース
権八・小紫の悲話伝える比翼塚 」
「 処刑された愛人白井権八と、彼の墓前で自害した遊女小紫。
その悲話は、「後追い心中」 として、歌舞伎などで有名だが、
この比翼塚は、二人の来世での幸せを祈り、たてられた、という。 」
(注) 白井権八は、実在の人物で、名は平井権八である。
因幡国鳥取藩士であったが、同僚を殺め、江戸へ逃亡し、
新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇になる。
生活に困り、辻斬りで百数十人を殺し、金品を奪った、とされる。
品川・鈴ヶ森で、刑死。 数え年25歳。
その報を聞き、小紫は、東昌寺の門前にて、自害した。
同寺に比翼塚が造られたが、同寺は廃寺になったので、移転して現在地にある、という。
目黒不動尊の正月風景 | 昭和三十七年建造の仁王門 | 白井権八と小紫の比翼塚 |
仁王門の先には急な勾配の石段があり、これは大本堂への男坂である。
石段の手前の左側には、コンクリートで囲まれた、水場がある。
「 慈覚大師が、堂宇建立を決意され、寺の場所を決めようと、
法具の独鈷を投じると、泉が湧出した。
「独鈷の瀧」 と名付けられたこの霊泉に因んで、当寺は「瀧泉寺」 と、号された。
水が枯れたことがない、といわれる。 」
「水掛け不動」 と呼ばれる石仏があり、参拝者は並んで、水を掛けていた。
「 仏教の修行に滝行があるが、一般人はなかなか挑戦できない。
水掛け不動は、そうして我々に替わり、水を浴びて、心願成就してくれる、という。 」
独鈷の滝の左手にある、宝形造の小堂は、江戸時代中期の建物で、
前不動堂である。
男坂の石段を上ると、鳥居がある。 これは神仏混淆時代を示すものだろう。
その先の両側にある狛犬は、都内最古の狛犬である。
右足に刻まれているのが、「承慶三」 で、西暦1654年に建立されたことになる。
本堂への石段(男坂) | 水掛け不動(独鈷の瀧) | 鳥居 |
左にある水場で、手をきよめる。
隣に「護摩木」 と書かれた建物があり、おまもりと御守護符の販売と、護摩供養の受付を行っている。
正面の石段の右側に「目黒不動尊」と書かれた提灯があり、その屋根の上に笹がくくられている。
参拝者は左側を上り、参拝後は右側の石段を下るようになっていた。、
「 本堂が元和元年(1615)に焼失した後、
寛永七年(1630)に寛永寺の末寺の護国寺の末寺となり、
徳川家光の帰依を受け、堂塔伽藍が復興された。
寛永十一年(1634)には、諸堂末寺を含め、五十三棟の伽藍が建てられた。
歴代将軍が折々に参拝する壮大な堂塔は、「目黒御殿」 と称され、
江戸庶民も列をなして詣でる、江戸の随一の観光名所となった。
大本堂は、昭和五十六年(1981)に、鉄筋コンクリート造りで再建されたものである。
入母屋造に、千鳥破風の屋根を持つもので、傾斜地に建てられているので、
懸け造り形式で建っている。
中央の厨子には不動明王が祀られている。
秘仏で、十二年に一度、酉年のみ、開帳される。 」
「護摩木」 と書かれた建物 | 大本堂への石段 | 昭和五十六年に建てられた大本堂 |
本堂の裏に回ると、小山に「大日如来」 と書かれた提灯の先に、
屋根で覆われた下に、巨大な大日如来が祀られている。
天和三年(1683)に鋳造された、身の丈 百八十四センチの銅製の仏像で、
二メートルある、台座の上にあるので、
見上げると迫力がある。
なお、不動明王は、大日如来の化身といわれる。
この大日如来像を、少し離れた四隅で、四天王が御守りしていた。
この像の奥には墓地があり、その中に青木昆陽の墓がある。
青木昆陽は、将軍吉宗の時代、_大岡忠相により、幕臣となり、
救荒植物のサツマイモを甘藷として普及に努め、甘藷先生と称された人物である。
大日如来堂 | 大日如来像 | 四天王の一つ |
本堂前の広場の右手に行く。
左側にあるのは、微笑観世音菩薩像である。
その奥にあるのは、愛染明王である。
説明板「縁結び 愛染明王」
「良縁成就」 お参りのしかた
1.愛染明王の台座で、絵馬を両手にはさみ、胸元で合掌する。
2.男、右側より、反時計回りに、心静めてまわる。
女、左側より、時計回りに、心静めてまわる。
3.愛染明王の前に、戻ったら、礼をする。
絵馬かけに、絵馬を奉納する。
ご縁は、人の相手に限らず、すべての人との間に成り立っています。
周りにいる皆と良縁で結ばれ、調和するように、広く深い慈愛の心でお願いします。
六臂(六本の手)にも関わらず、全体の造形に破たんがなく、美しい。
西洋の縁結びの神・キューピットのように、矢を持っているのが特徴的である。
微笑観世音菩薩像 | 愛染明王を祀る | 愛染明王像 |
その先には、「八大童子」と書かれた説明板があり、赤く大きなお堂が建っている。
右手に女坂があるので、帰りはこの坂を下る。
坂の途中に、窪みがあり、そこに行くため、右側の細い道を上る。
窪みの中に祀られているのは、役(えん)の行者像である。
説明板「銅造 役の行者倚像」
「 役の行者(役小角ともいう)は、奈良時代の山岳修行者で、
修験道の祖として崇拝されている人物です。
この像は、寛政八年(1796)の作で、総高 142.2cm、座高 92.7cmです。
やや痩せ形の神秘的な面相、均整のとれた体躯や手足の表現、法衣や袈裟の衣文のしわなども、
とても巧みで、江戸時代の銅造彫刻として、優れた遺品の一つです。
表面は黒光りしており、これは鋳工の間でガラス銅と称される銅色です。
頭巾を山高にかぶり、木の葉の肩衣をかけ、右手には錫杖(しゃくじょう)を、
左手には巻子(かんす)を持っています。
また、像の腹部・胸部・腕部等に刻銘があり、
そこから施主の名や、神田に住んでいた、鋳工太田駿河守藤原正義の制作であることがわかります。
平成21年3月 目黒区教育委員会 」
坂を降りると、右側に「女坂」の石碑があり、頭上に「↓ くだり ↓」 の垂れ幕があった。
八大童子堂 | 役の行者倚像を祀る祠 | 女 坂 |
女坂の左に進む、
左側に、地蔵堂が建っている。
少し奥まったところには、観音堂があった。
その先の左奥に阿弥陀堂があり、少し進むと観音堂があった。
突き当たりは瀧泉寺の書院で、右手に御朱印がいただける場所がある。
御朱印をいただき、令和七年の初詣では終了した。
江戸時代には、目黒不動の参拝者で、門前町は賑わっていて、
落語の「目黒のさんま」はその茶屋が舞台であった、といわれる。
今日の商店街はその面影がなく、うなぎや一軒だけが目に付いただけであった。
地蔵堂 | 観音堂 | 瀧泉寺の書院 |