かうんたぁ。



栃木県の那須烏山市烏山地区には、國の重要無形民俗文化財に指定されている祭があります。 その名を、「山あげ祭」といいます。
お祭りは、7月の第4金・土・日曜日の3日間おこなわれます。
いつもは静かな、人口2万人弱のこの町に熱気が漂い、多くのひとで賑います。
全国一の野外歌舞伎を演じる”山あげ祭”にぜひお出かけください!!

山あげ祭の歴史と特徴

山あげ祭山あげ祭は、450年の歴史があります。
永禄3年(1560)、烏山城主の那須資胤(なすすけたね)が八雲神社に牛頭天王を祀ったのが始めとされます。
江戸時代に入って、踊りや狂言などが取り入れられるようになり、享保年間のころには歌舞伎も加わり、江戸の終わりには現在のスタイルになったという、歴史的に価値のある祭です。
江戸時代に大衆娯楽の少ない地方で、このような祭が行えたのは、この地が那珂川を利用した船便事業が盛んで、物資が集まり、町が豊かだったからでしょう。

平安時代からこの地方を統治していたのは那須与一で有名な那須家ですが、戦国時代の那須資晴の時、豊臣秀吉により、小田原征伐に参陣しなかったことで、所領を没収されてしまいます。
烏山城主の後任には、成田氏がなりますが、嗣子がないため、絶家してしまいます。
その後、松下、堀など、次々に城主が変わりました。
近江国内より大久保常春が移ってきて、烏山藩3万石を所領してからは安定しました。
大久保常春は、小田原大久保家の藩祖忠世(信濃・甲斐の攻略で功労)の6弟忠為(8弟は大久保彦左で有名な彦左衛門)の曾孫に当たります。 
3万石は少ないようですが、県内(下野國)では、宇都宮藩に次ぐ大藩です。 
烏山・大久保家はその後、七代続き、明治維新を迎えました。
山あげ祭は当然ながら、上記の歴史を反映し、発展してきたように思われます。

この祭が他の祭と違うのは、屋台車が芝居舞台を持ち、その上で歌舞伎を演じる点です。
常磐津連中や三味線の伴奏で、所作狂言(おどり)が舞台で演じますが、その際に、舞台の奧100mまでに、烏山和紙で作られた大・中・小の山(舞台装置)が立てかけられ、それが合図により変化するというものです。
山あげとは、舞台奧に登場する和紙製の大きな山を飾ることから名付けられたものです。
なにもなかった道路に、舞台装置が作られ、その舞台で、スケールの大きな野外劇が演じられるのです。
山車で移動し歌舞伎が演じられる祭には、会津田島町や滋賀県長浜市の子供歌舞伎がありますが、山をあげるのは全国でもここだけだと思います。
このような大きな山をつくることができたのは、今でも残る烏山和紙の生産地であったことによるものでしょう。

祭の当番と出し物

この祭には、男子を中心に150人もの人員を必要とします。 
私が子供のころは多くの町が同時に屋台を出していましたが、現在は、金井町、仲町、泉町、鍛冶町、日野町、元田町の順に交代でだしています。 
それでも、当番に当たると、金井町や日野町のように世帯数が多いところは別として、その他の町では家を出た子供などを呼び戻したり、他の町に応援を頼んだりとやりくりするのに大変なようです。
そのため、以前は、7月25日〜27日と日が固定だったのですが、サラリーマンでも祭にでやすいように、また、遠くから帰ってきやすいようにと、7月第4の金〜日曜日に変更になりました。
烏山で育った人は、祭にはやりくりして東京からでも帰ってくるといいいますから、祭は成人式とか或いは同窓会みたいなものなのかも知れません。
演目は、町内毎に決まっていますが、歌舞伎からとったものがほとんどで、「将門」「戻り橋」「忠信」(義経千本桜)などです。 最近、加わったものに「蛇姫様」というのがありますが、これは当地をモデルに書いた川口松太郎の小説によるものでしょう(小生はまだ見たことはありません)

祭のあらまし

初日、八雲神社前からスタートします。 その後、町内を回り、夜遅くまで、日6回の公演を行います。
行列の先頭には、カンカン帽をかぶった若衆世話人が歩きます。 金棒引きの少女が続き、その後には、屋台車、そして、地車が続きます。 最後は、トラックです。 少し、変な行列風景ですね。
屋台車は、前部に龍などの彫刻が施されています。 その部分は狭いですが、人が入り太鼓を叩きます。 その後部は幕で覆われていますが、お囃子の笛や鉦(かね)の人が乗り、演奏します。 また、小さな小物道具を載せて運びます。
地車は、舞台台車ですか、その上に舞台に使われる板や柱などの材木が載せられます。
地車は舞台装置を載せて移動するのですから、若衆は力仕事で、わっせわっせと掛け声をかけながら、引きます。
トラックには、山を乗せて運びます。

   
若衆世話人屋台地車
カンカン帽をかぶった若衆世話人           金棒引きの少女と屋台          若衆に引かれる地車

舞台の組み立て

舞台装置を分解して乗せた屋台車や地車が、公演地に到着すると、若衆は、直ちに舞台作りを開始します。
あっけにとられるほど手際よく組み立てられていくのです。
屋台は、3つに分解されます。 屋台前部の彫刻部分を左側にし、右に横一列に伸ばされます。 なお、彫刻部分の後ろは幕で囲います。 右側の伸ばされた部分には、常磐津連中が入る場所になります。 
地車は屋台車の前に置かれ、舞台台車となります。 地車の両脇に板が左右に拡げられ、脚立を置いて演じる舞台を作ります。
トラックから降ろされた山は、その裏側に小さなものから大きいものの順に置かれます。 大山は実に3階の高さがあるので、建てる際も注意がいります。
妹尾かっぱ氏がお祭りを見て書いた「河童が覗いたニッポン」の中には、以下のような記述があります。
『普通、芝居の公演では、何もないところに舞台装置を組み立てるところからは客に見せない
 それを見せると中味の芝居を見せることから、はずれるからだ。
ところが、ここの『祭』は、むしろそれをピークにした見せ物として、かなりうまく演出されている
(中略)
最大の見せ場は、なんといっても、山が次々に起きあがってくる”山あげ”の瞬間である
この山あげのために、各町は対抗意識を燃やし6年に1度の町自慢の腕を競うわけだ。
           (以 下 略)                  』
と、山あげの様子を活き活きと描いておられます。
このようにして、舞台つくりが進行するのですが、山をあげ終わるまでに、約1時間もかかります。

屋台作業風景舞台作り
屋台の屋根にも小道具を乗せて        地車から舞台道具を降ろす       地車で舞台を組み立てる

山あげの山について

左の写真を見て下さい。 舞台の奧に聳えているのが、大・中・小の山です。
見ずらいかもしれませんが、下側に2人の女性がいます。 その左側に屋台の前部(彫刻部分)があり、そのやや裏に中山が置かれています。
また、右側には中山大山が見えます。
右側の屋根の下には、常磐津連中が入り、三味線と演目を語ります(右の写真)
祭で使われる大道具の山は、祭の都度、作り替えられます
山は、竹竿に烏山和紙をていねいに何枚も貼り付け、顔料で色づけしたもので、町内会あげて、1ヶ月以上もかけて作られると、ききました。 
妹尾氏は、今から20年以上も前に、訪れたのですが、山に大変興味を持たれ、
『大山や中山には歌舞伎の大道具でなじみの手法のアオリ仕掛けを使っていた。
 (合図をきっかけに山の画面が)反転し、裏に隠されていた絵が現れ、一瞬に背景が変化する。
           (以 下 略)                    』 と、熱心に観察されています。
(中央のイラストにある緑で彩られた)中山や大山が、アオリで一転し、(左側の写真のように)、”桜が満開”の風景に変身するのです


祭全景祭のイラスト常磐津連中
山が立ち準備が終わると、公演が始まる             祭のイラスト           常磐津連中が語る                        

公演風景

公演した演目は、「将門」です。
最初に、ガマに乗った滝夜叉姫が山の方から滝をくぐって、現れます。
この時、ドロドロドロンという太鼓、そして、ガマの目はピカピカ光り、口からは煙がモクモクと出ます。 
このように、この祭では、音響効果と映像効果を駆使した演出が特徴です。
やがて、幻術を使う滝夜叉姫を光国が破ると、山から花火の滝が降り注ぎ、館が崩れ落ちます。
私の母が烏山出身だったので、毎年この時期になると里帰りしましたので、日柄お祭りを追いかけていました。
日中は明るいのでそれほど迫力はなく怖くはなかったのですが、暗くなっての公演は大変怖く感じたの今でも覚えています。
妹尾氏が見たのも同じ演目でした。
『大宅光國に破れた”滝夜叉姫”は、お堂の中を通り抜け、雷雲に乗り移る。 雲はセリ上がって高くなり、後方の山の向こうへ去る。』
この場面では、若衆が車付きの雲を後方に移動させた後、山の背景を順々に替え、最後には大山のアオリを更にセリ上げて、滝夜叉姫が雲とともに彼方に消え去るという演出を行っています。
この祭は、映像効果を考えると、暗くなってから見る方がよいと思います。
公演時間は約40分間です。 
それが終わると、若衆が舞台を”あっ”という間に壊し、舞台装置などを台車に積み込んで、次の場所に移動して行きます。
 真夏の幻想といったくらいの短い間に です。

滝夜叉姫登場祭のイラスト光国と滝夜叉姫の戦い
ガマに乗った滝夜叉姫が登場            大宅光國が登場         滝夜叉姫が光国に破れる

公演を終えて

このような祭ですので、山あげ祭は、演目を見るだけではなく、組み立てから舞台が分解され去ってゆくまでの全行程をご覧になられるよう、お薦めしたいと思います。
踊る演者は、祭の都度、若い女性(高校生だと思います)から選ばれますが、選ばれた名誉以上に、舞台にでるまでの努力は大変だろうと思いました。 6年1度しかチャンスはないので、一生に一度のチャンスですが・・・・
常磐津を語ったり、三味線を弾く人も全て素人です。 こちらは何回かでられるのだろうとは思いますが、それでも、かなり練習するのでしょうね。
このお祭りは力仕事が中心です。 若衆は、公演中に山の下やその他で、休息をとっている姿が微笑ましかったです。
演じていると暑いので、大きなうちわで扇いでいたのも、時代離れして面白かったですね!!

しばしの休息をとる金棒引きの少女
         次の出番までしばしの休憩              舞台裏(?)で待つ少女達

場 所

烏山には、JR宇都宮線で、宇都宮駅か宝積寺駅から烏山線に乗り、終点で下車します。 祭の会場は歩ける範囲にあります。
なお、烏山線には、バブル時代、切符ブームになった”宝積寺〜大金”という駅があります。
高速道路は宇都宮ICまたは鹿沼ICからという方法もありますが、都賀ジャンクションから東関東自動車道に入り、上三川ICで降りた方が混まずに行けると思います。
烏山は、和紙の里、そして、清流、那珂川のおいしい鮎が食べられるところです。