光 徳 沼
奥日光は早朝には氷点下15℃以下になることがあります。
太陽が昇る直前は特に寒いですね!!
樹氷ができるのは、そのような寒く冷えた朝で、無風という条件が満たされたときのみです。
そのような朝は、樹氷で沼一帯の樹木が真っ白に変貌します。
しかし、木についた氷が朝日に輝くのも束の間。 あっ!という間に溶けてしまいます (右写真)
まさしく、その場に居合わせたものだけが経験できる至福の時間です。
私は、これまでに2〜3度しか出逢えていませんので、樹氷に会えたらラッキーです。
そのような出逢いがなくても、沼周辺の風景は変化があります (右写真)
沼は雪で少しづつ埋まり、それが溶け、凍っていろいろな形を生み出してゆきます。
形がおもしろいので、撮影していても飽きませんよ!!
そのようなわけで、寒いのに何回か訪問をしてしまいました。
二荒山神社
日光二荒山神社は、東照宮の隣にあるものに加えて、中禅寺湖畔の中宮祠と男体山の山頂にあります。
延暦9年(790年)、今から1200年前、勝道上人が本宮神社を建てたのが、日光二荒山神社のはじまりと、いわれる。
勝道上人は、麓の清滝から人を集め、充分な準備した上で男体山に登り、祠(ほこら)を建てたと、いう。
”勝道上人”とはいかなる人物なのか?
勝道上人は、芳賀郡高岡郷(現在の真岡市南高岡)で生まれ、20歳の時、都賀郡伊豆留(いづる)の岩窟にこもり、千手観音を念じて仏門に精進し、大劔ヶ峯(前日光の横根山ー現在の鹿沼市粟野町)に登って苦行修練をつんだ。
天宝宝字5年(761年)、下野薬師寺に行って受戒得度し、厳朝と名乗り、のち勝道とあらためた。
その5年後、大劔ヶ峯に戻った。
31歳の時、北方にそびえる霊峰(二荒山ー男体山)の登頂を思い立ち、道なき道をたどって歩き、大谷川(だいやがわ)の南岸に至ったが、谷深く流れも急で渡ることができなかった。
ところが、この時、深沙大王の神功があり、対岸に渡れることができた。
(注) その後、そこに架けられた橋が最近修復の終えた神橋である。
対岸に渡った上人は、二荒山麓に千手観音を安置して、四本龍寺を建て、日光開山の基地道場とした。
(注) 現在の輪王寺である。
神護景雲元年(767年)、霊峰(二荒山)の登頂をこころみたが、人跡未踏の原始林で、路はけわしく雪深く、登ることができず、戦場ヶ原から中禅寺湖の北岸を経て、四本龍寺に戻った。
苦行をつむこと十四年、天応元年(781年)にも、こころみたが失敗、その翌年はじめてはたすことができた。
その後、中禅寺湖の歌ヶ浜に立木千手観音を安置し中禅寺を建立し、かたわらに二荒(ふたあら)の大神を祭った。
このことから、上人の名前は朝廷にも聞こえ、延暦八年(789年)上野国の講師に任ぜられた。
大同年間には、麓の四本龍寺のかたわらに二荒の大神を祀った。
その後も、東国諸国が干魃にくるしんだ時には老体をいとわず二荒山頂に登り、雨乞いを行い、農民の苦しみを救うなど尽くしたが、弘仁8年(817年)83歳の天寿を全うした。
その後、上人の開いた日光修験道は弟子にひきつがれ、年とともに栄えていった。
今日の日光の繁栄は、ひとえに上人にあうこと大なるものがある。
( 昭和49年9月5日発行 山川出版社「栃木県の歴史」 より)
二荒山は上記の通り、男体山のことであり、男体山の他、女峰山など日光連山は古くから神々のいる山として信仰されてきたのです。
毎年1月4日、中禅寺湖にある二荒山神社では、武射祭が行わます (右写真)
二荒山神と赤城山神(群馬県)の土地争いに由来するという祭りで、
赤城山神がムカデ、二荒山神がヘビに変身して戦場ヶ原で戦い、
二荒山神が勝利したという話にならい、二荒山側は赤城山に向かって矢を射るのです。
厳冬の中禅寺湖に威勢の良い声が響く新年の風物詩です。
東照宮付近
真冬の日光は、観光客が少ない時期です。
東照宮を含む2社1寺も人はまばらです。正しく、”静寂の世界”です。
時々、杉の樹から雪が落ちる音が聞こえるだけ ・・・・・
しんか〜んとした東照宮に入ると、ゆったりとした気分で見学できますのはありがたい。
雪は掃ききよめられ、歩けるようになっているので、安心です。
陽明門に雪が積もった姿や鐘楼や灯籠の雪帽子姿など、冬でないと味わえない情景に出逢えます。
特に、家光の廟である大猷院は特に雪景色がマッチしているような気がします。
重文の二天門は、降り積もった雪が今にも樹木から落ちそうなスリルもありますが、どっかりと立った門は威厳を感じます。
日光市は、最近は、冬のイベントを実施し、客集めを行っていますが、まだまだ少ないですね!!
那須連山、特に三本槍岳など福島と接する山々は雪が多く、白く雪をかぶり大変綺麗です。
冬とともに訪れる”白鳥”はすっかり県北の冬の風物詩として定着したようです。
白鳥が集まる沼
大田原市東部の”羽田沼”(はんだぬま)には、白鳥が飛来します。
年によって数は変わりますが、70羽前後はくるのではないでしょうか。
地元の手厚い保護により年々増えてきました。
最近は、その風景をみようと見学者が増え、駐車スペースもないほどにぎあっています。
エサを目当てに、鴨も多く集まっていますが、、鴨の種類も多いので、見ていてもあきませんね!!
大田原市南部にある琵琶池(びわいけ)にも、白鳥が飛来します。
以前は多かったのですが、最近はわずかになってしまいました。
一説では羽田沼に移動したのではといわれています。
白鳥も条件の良いところに移籍するのものなのでしょうか?
那須温泉「 鹿の湯 」
1300年ほど前、鹿が傷を癒していたところから温泉が発見されたことから”鹿の湯”と名付けられた温泉は、”殺生石”の下方に流れる”湯川”の縁にあり、那須七湯で1番古いので”元湯”ともいわれています。
那須温泉の中心である湯本温泉の一角にあるのですが、受付棟、湯小屋とも粗末な建物で、ここだけ歴史から取り残された感があります。
壁に貼られた温泉鑑定書には東京帝国大学の文字が見え、最近の温泉とは違うのだよと無言で語りかけているようです。
雪が降ると、駐車場に入る坂が凍結するので、出られなくなる危険があるので、”殺生石駐車場”に置いて歩いていきます。
今では数少なくなった”かぶり湯”という入浴法が残っています。
かぶり湯は、文字通り”柄杓で何杯もの湯を頭にかぶせる入浴法”です。 ここに通ってくる人々は、自前のひしゃくを持参していました。
温度の違う湯槽が多くあります。
高温の湯が落ちる湯槽から、低い湯槽に順に流れ込んでいくしくみで、何段階もの温度差のある風呂を形成しているのは珍しいのではないでしょうか?
人が入った湯が、流れ込んでくるのはいや !!という見方もできないわけではないですが、湯量が豊富で流し放しの温泉、いわゆる「天然温泉」なので、低い湯槽でも汚いことはありません。
但し、石鹸は使えません。 石鹸がなくても、温泉成分で毛穴の中まで綺麗になるといわれます。
ここの湯に入ると、翌日の昼までポカポカとしているので、この時期に利用する温泉の1つです。
佐野や足利という両毛地帯は空風で有名です。
赤城おろしが吹き、実際の気温より寒く感じますが、宇都宮以北にくらべれば暖かい地区です。
佐野ラーメン
全国的にラーメンブームが沸き起こっていますが、県内には全国ブランドになった佐野ラーメンがあります。 土・日曜日には首都圏からラーメンを求めて佐野インターにくる車が多くなるほどです。
佐野ラーメンは、屋台からスタートしたといわれていますが、現在ではお店を構えているので他と変わりません。
青竹を股の下に挟んで麺を打つ、手打ちで、縮れ麺です。醤油味であっさりしているのが特色でしょう。
赤見にある評判のお店は、11時から並ぶ程混んでいて、地元でもなかなか食べられませんね!!
渡良瀬遊水池
渡良瀬遊水池は、足尾銅山の銅毒を沈殿させるために、渡良瀬川をせき止め、葦を植えた人工の治水地です。
群馬県、茨城そして栃木県にまたがる大きなものです。 歴史の教科書に出てくる田中正造の足尾銅山公害訴訟の舞台でもあります。
池の中央には、立ち退きを迫られた村の跡が残されていて、歴史遺産としても貴重です。
(佐野市南部には、田中正造の家が残されていますので、立ち寄りられたら如何かと思います)
遊水池の中は、公園になっていて、指定された場所では自由に遊べます。 ただし、葦の背が高いので、見晴らしがよいとは言えません。
冬から春にかけて、水蒸気が発生し、あたり一面霧に包まれることがあります。
周りの風景に、もやがかかり、そこに朝日があたると、想像もしない幻想的な光景が現れますので、首都圏からカメラマンが集まってきます。
(私は、残念ながら幻想的な風景にはめぐり逢いませんでしたが・・・・)
この時期には、バルーンの練習風景をよく見ます。
難着陸しても萱が枯れ、水も涸れているので、よいのでしょうね。