昭和の時代、鹿教湯温泉(かげゆおんせん)は、白骨温泉と並び、
名古屋地区では秘湯とされてきた温泉である。
両方とも泉質がよいのだが道が悪く、昭和50年代までは簡単には行けないところとされてきたのである。
白骨温泉は林道が開設され、高山からのトンネルが掘られ大変便利になり、日帰りでもいけるようになった。
高速道路ができたので、鹿教湯温泉も行きやすくなった。
今回、真田十勇士の活躍など、戦国時代に異彩をはなつ真田(さなだ)家の故里を探し、鹿教湯温泉に入る旅にでた。
鹿教湯(かげゆ)温泉は東京からは高速道路を利用すればそれほど苦労しなくても来られる温泉になっていた(右写真)
名古屋から上田まで高速道路を使えば、冬でも行けたのであるが、大変な大回りになり、1泊しないと無理とこれまで訪れないままになっていた。
数年前の善光寺のご開帳の際は真田信之の松代と上田を訪づれた。
娘とokanは池波正太郎のフアンで真田大平記を熟読。
okanは難しいことはともかく、猿飛佐助や霧隠才蔵などの真田十勇士を幼少のころ、
絵本で読んだので、真田家が誕生したところに興味を持っていた。
当地にある池波正太郎の記念館ではいろいろなことを学んだ。
真田大平記の醍醐味は真田昌幸と次男真田信繁(幸村)の活躍である。
真田昌幸は謀略に長け、北条方と武田方に微妙なバランスを保ち、領地を増やして行き、信濃の小県地方と上州の沼田を手中に納めた。
関東に育った小生からは群馬県の沼田と長野県の上田は辺鄙な県境に感じるが、戦国の世では北条と武田の間の戦いで沼田城が重要な役割を果たしたようである。
真田信之は真田昌幸の長男であったが、関ヶ原の合戦で信之は徳川家康に付き、父の真田昌幸と弟の信繁(幸村)は石田三成に付いて、戦った話は有名である。
真田信之は徳川家康より冨裕な上田の地を与えられ、祖先の縁のある海野の地より人を集め、海野町を作っており、上田市海野町には古いただずまいが残る。
ところが、元和八年(1622)、真田信之に松代への天封の命が下る。 上田10万石のまま入封したのであるが、上田の地味の肥えた土地と違い、松代の土地は痩せて実石を下回り、そのため、歴代の殿様は苦労した。
その苦労の様子を松代で知った。
善光寺(長野市) 真田宝物館(長野市松代) 真田大平記館(上田市)
今回は鹿教湯温泉と真田家の誕生の地を訪れる旅を計画。
平成十八年(2006)8月三十日、自宅を出た。
鹿教湯温泉への松本からの山越えは難儀と思っていたが、okanはどこから情報を得たのか、
有料道路が出来たので問題ないという。
松本ICを降り、ナビの指示通り走ると、有料道路に入り、苦労することなく、鹿教湯温泉に着けた。 とはいえ、冬場は冬用のタイヤでも厳しい感じがした。
鹿教湯温泉は一言で言えば湯治場である。
温泉街といえるものもなく、大規模な施設も少ない。
熱海や鬼怒川、草津などを想像して訪れるとがっかりする。
鹿教湯温泉は文殊菩薩の導きにより泉で矢傷を治す鹿を猟師が発見したことから名が付いたといわれる由緒ある温泉である。 湯量も多く、流し放しで大いに満足した。
鹿教湯は小さな旅館が多く、廉価であるが露天風呂のあるところは少ないようである。
湯治場として何日も逗留して湯に浸かるというにはそれで充分であろう。
鹿教湯は歴史あるところなので、こじんまりしていたが、散策路もあり、暇つぶしになった。
温泉街から少し歩いたところに日帰り温泉の 文殊の湯 があるし、クアハウスかけゆもあるので、
気楽に利用すると良い。
日帰り温泉・文殊の湯 文 殊 堂 五 台 橋
真田氏は海野宿(海野郷)を開いた滋野氏の分かれとあった。
そういえば、真田十勇士の一人が、海野六郎 。
真田の祖は、清和源氏の流れを組む滋野一党(海野、禰津、望月)。 海野氏はその滋野一党の宗家で、真田幸村の祖父・幸隆が、
海野の嫡流を継いだまま真田姓を名乗ることになったといわれ、
海野六郎は、幸村の父・昌幸の侍大将だった海野喜兵衛の子息という血縁で、
幸村の幼少時代から、いち早く小姓として仕えていたようである。
海野宿は江戸時代、北国街道の宿場町であったが、古い家が今でも多く残るというので、
訪れた。
真田家と直接結び付けるものはなかったが、
真田家と同様、滋野氏は武勇に秀でたというのは印象に残った。
海野宿
真田氏発祥の地と言われるのは旧真田町(上田市真田町本原)。
説明板には
「 真田氏の名前が出てくるのは応永七年(1400)の大塔合戦であるが、その後、消息はなく、
天文十年(1541)の神川合戦に真田幸隆の名が出てくる。
真田幸隆はこの戦に破れ、上州箕輪の長野業正を頼り落ち延びたが、
その後、武田氏に臣従し、故郷の小県地方と更埴地方を転戦した。
天文十九年、諏訪形に領土を得て、北上州まで手を伸ばしていった。
武田信玄の亡くなった翌年、真田幸隆は亡くなった。
その後を継いた真田信綱、その弟の昌輝が長篠の戦で討ち死。
甲府にいた真田昌幸が真田に帰り、家督を継った。」とある。
真田昌幸が築いた城(当時の城は砦のようなもの)は旧真田町町役場の北にあった。
このあたりは四方を山に囲まれ、周囲に出城を築き、敵の侵入に備えていた。
今日訪れると何故こんなところにおもうが、織田信長が平地に城を築くまでは山城であり、防御できる山や川を生かした城であり、土塀を張り巡らした中に、館という簡素なものであった。
訪れた真田氏歴史館は真田氏が上田城を築城する以前の居館跡である。
雨も降る9月の平日とあって、訪れる人もなく深閑としていた。
居館跡には真田昌幸が勧請した皇台神宮が建ち、
周囲には東辺80m、西辺130m、北辺150m、南辺160mの土塁や枡形や厩跡の遺蹟が残っていた。
真田氏歴史館には、真田氏の年表などは整理され、掲示されているが、
真田家ゆかりのものはなかった。
この後、真田温泉ふれあいさなだ館 で、湯船に浸かり、真田氏のゆかりを求めての旅もこれでフィナレーと思った。
真田氏歴史館 真田氏館跡 真田温泉ふれあいさなだ館
(平成18年8月30日〜31日)